http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/4555.html
Tweet |
米軍の無差別攻撃で、日本国民10万人が殺された「バシー海峡」の悲劇 !
戦後70年「バシー海峡慰霊祭」に集った遺族等・人々の涙 !
輸送途上の戦死者は、日本政府からも、軽んじられてきた !
山本太郎議員が戦争犯罪常習犯・米国の手口を告発 !
(www.kadotaryusho.com/:2015.08.02より抜粋・転載)
☆バシー海峡は、米軍により、日本の輸送船
の多くが撃沈されるという悲劇の舞台だった !
本日(8月2日)午前11時15分から、台湾南部の屏東(へいとう)県猫鼻頭にある潮音寺において、「戦後70周年バシー海峡戦没者慰霊祭」がおこなわれた。
バシー海峡と聞いて、すぐに「ああ、あそこか」と思う人は、相当な台湾通であり、戦争通だろう。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、台湾とフィリピンの間に横たわるバシー海峡は、米軍が同海峡に敷いた潜水艦の“群狼作戦”によって、南方への日本の輸送船の多くが撃沈されるという悲劇の舞台となった。
それでも、太平洋戦争の日米主力の“決戦の場”となったフィリピンのルソン島、レイテ島への兵力の輸送は、必要欠くべからざるものであり、大本営の無謀な輸送作戦は強引に続けられ、犠牲者も膨大な数になっていった。
1944(昭和19)年から1945(昭和20)年にかけて、バシー海峡は大本営によって、 “魔の海峡”“輸送船の墓場”と称されるようになった。
バシー海峡での戦没者の数は今も定かでない。
☆バシー海峡とその周辺海域で、「10万人」 の犠牲者が出た !
しかし、バシー海峡とその周辺海域で、少なくとも、「10万人」の犠牲者が出たと言われている。
私は、昨年10月、この海峡の悲劇を描いた戦争ノンフィクション『慟哭の海峡』を上梓した。
主役の一人は、昭和19年8月、乗っていた輸送船「玉津丸」が、バシー海峡で撃沈され、12日間もの地獄の漂流の末に奇跡的に救助された独立歩兵第十三聯隊の通信兵、中嶋秀次上等兵(2013年10月、92歳で死去)である。
中嶋さんは飲み水もない炎熱のバシー海峡を12日間も筏(いかだ)で漂流し、当初50人ほどいた漂流者の中で、たった一人、生還した。
バシー海峡の戦没者は、あくまで輸送途上の「戦死」である。
これまで大規模な慰霊祭がおこなわることもなく、「忘れ去られた戦没者」となっていた。
生き残った中嶋さんは、戦後、無念の涙を呑んで死んでいった、戦友たちの慰霊と鎮魂のために、半生を捧げた。
☆生き残った中嶋さんは、私財と日台の協力者の
浄財で、鎮魂の寺「潮音寺」を建立した !
戦後36年を経た1981(昭和56)年、中嶋さんは、バシー海峡を見下ろす同地に私財と日台の多くの協力者の浄財によって、やっと鎮魂の寺「潮音寺」を建立したのである。
以来、34年。長い間、風雨に晒されつづけたその潮音寺で、「戦後70年」を記念して、
本日、慰霊祭がおこなわれたのだ。
どこまでも青く澄み渡った空の下、バシー海峡戦没者の遺児でもある臨済宗禅林寺の吉田宗利住職(73)による読経が、潮音寺に流れる中、参列者およそ170名が、ひとりひとり順番に焼香していった。
☆潮音寺で読経した、吉田住職は、 吉田宗雄艦長の忘れ形見だ !
吉田住職は、拙著に登場する「駆逐艦呉竹」の吉田宗雄艦長の忘れ形見である。
3歳の時に死に別れた父親の顔を吉田住職は記憶していない。
しかし、母親が亡き夫の海軍兵学校の同期の文集に残した手記には、父子が別れる時のようすがこう綴られている。
〈主人と長男は固く握手をして「じゃあ、行ってくるよ。元気でいるんだよ」と頭をなで、短い言葉を残して、決然たっていきました。虫が知らせたのか、長男宗利は、いつまでもいつまでも泣き叫んで、「父ちゃんについていくんだ」と駄々をこね、困らせました。
主人がそれに答えるように幾度ともなく振り返り、手を振り振り元気でたって行った姿が、今もなお脳裏を離れません〉
その3歳の子供が、戦後70年を経て73歳となり、亡き父と、10万人におよぶ戦没者に対してお経をあげるために、佐賀県小城市からわざわざやって来てくれたのである。
潮音寺の前に設えられた祭壇の横には、李登輝・元台湾総統、海部俊樹・元総理、小泉進次郎・衆院議員、ジャーナリスト・櫻井よしこ、評論家・金美齢……等々の各氏からの花輪がところ狭しと並んでいた。
また、音楽巡礼者であり、シンセサイザー奏者である、西村直記氏による「バシー海峡にささぐ」も演奏された。
吉田住職の読経の中、ご遺族をはじめ多くの参列者が焼香をおこなった。
私もその一人だ。
風雨に耐えてきた潮音寺の二階本堂に、ひとりひとりが上がり、戦没者に手を合わせた。私は、ご遺族の姿を見ながら、胸が一杯になった。
「人は二度死ぬ」と言われる。一度目は、肉体の「死」という物理的な死である。二度目は、その存在と死さえも、忘れ去られる時だ。
☆輸送途上の戦死者は、日本政府からも、軽んじられてきた !
輸送途上の戦死者は、国からも、軽んじられてきた。
しかし、その “忘れ去られた戦没者”に対して、ご遺族をはじめ、多くの方々が集まり、心から手を合わせてくれていた。
目に涙を浮かべながら焼香する方もいた。戦後70年を経て、バシー海峡戦没者への真の意味の「鎮魂」と「慰霊」が、吉田住職の読経のなかで、おこなわれたのである。
私には、尊い命を捧げた戦没者たちに「あなた方のことは決して忘れません」と、それぞれの参列者たちが心で伝えているように感じられた。
☆バシー海峡の海岸線に行って、海への献花がおこなわれた !
そのあと、バシー海峡の海岸線に行って、海への献花がおこなわれた。
吉田住職が、ふたたび読経をおこなう中、参列者の中から、思わず、「おーい、日本に帰ってこいよぉー!」という声が上がった。
魂だけでも日本に帰って来てくれ、という意味である。
南国でしか見ることができない抜けるような真っ青な空の下、目の前に広がるコバルトブルーのバシー海峡に向かって、参列者の間から、そんな声が飛んだのだ。
日本に帰って来て欲しい――それは、参列者遺族たちにとって共通する思いだろう。
ご遺族の中には、父をバシー海峡で喪い、その妻である母親も亡くなり、母の遺骨を持って参列されていた女性がいた。
母の遺骨を海に流しながら、女性は「お父さん。お母さんと一緒に日本に帰ろう」と、バシー海峡に向かって語りかけていた。
その時、「海ゆかば」が参列者の間から流れ出した。
武道家・三好一男氏が、その歌声に合わせて、鎮魂の空手演武をバシー海峡に向かっておこなった。
戦後70年――私は台湾最南部のバシー海峡を望む地で、亡くなった方々の無念を忘れまいとする人、そして本当の平和を祈る人の姿を見ることができた。
夜、高雄の国賓大飯店で慰霊祭の晩餐会がおこなわれた。
☆夥しい数の日本の若者の「命」と「無念」を呑みこんだバシー海峡 !
その場で、これまで潮音寺の維持のために力を尽くしたきた台湾の方々に感謝状が渡された。私も、『慟哭の海峡』の著者として、「バシー海峡戦没者の無念と未来」と題した講演をさせてもらった。
夥しい数の日本の若者の「命」と「無念」を呑みこんだバシー海峡。彼ら戦没者を「二度」死なせることがあってはならない。私は、講演でそんな話をさせてもらった。慟哭の海峡は、70年という時を超えて、今も平和の尊さを静かに訴えていた。
(参考資料)
山本太郎議員が戦争犯罪常習犯・米国の手口を告発 !
「総理、米国に民間人の殺戮、やめろって言ったんですか?
この先、やめろと言えますか?」――
(iwj.co.jp/wj/open/archives/:2015年7月30日より抜粋・転載)
☆米軍は1年の間に1447回もイラクを爆撃し、罪なき民間人を組織的に殺戮し続けた !
「武器を持つ人間をみたら、殺せ。双眼鏡を持つ人も殺せ。携帯電話を持つ人は殺せ。何も持たず、敵対行為がなかったとしても、走っている人、逃げる人は、何か画策しているとみなし、殺せ。白旗を掲げ、命令に従ったとしても、罠とみなし、殺せ」――。
これは、米軍によるイラクのファルージャ攻撃の際に、兵士が上官から受けた指示の言葉だ。米国は大量破壊兵器の保有という「大義」にイラク戦争に踏みきり、国際法違反の攻撃を繰り返した。
2007年、米軍はわずか1年の間に1447回もイラクを爆撃し、罪なき民間人を組織的に殺戮し続けた。
☆自公政権下、「人道復興支援」の名のもと、自衛隊は米軍兵士を輸送し、
米軍を支援してきた !
そして、「人道復興支援」の名のもと、自衛隊は米軍兵士を輸送し、米軍を支援してきた。結局、大量破壊兵器など存在せず、戦争の正当性など、どこにもなかった。
大義なき戦争に加担するという取り返しのつかない過ちを犯しながら、その総括もせず、なぜ安保関連法案で海外での自衛隊の活動を拡大し、これまで以上に米軍への支援を強めようとするのか。
イラク戦争時、安倍総理は官房副長官、官房長官、そして第一次安倍内閣で総理となった、まさに当事者だ。
☆米国に民間人の殺戮、当時やめろって 言ったんですか?
この先、やめろと言えるんですか?
「アメリカに民間人の殺戮、当時やめろって言ったんですか? そして、この先、やめろと言えるんですか? 引き上げられるんですか?」
2015年7月30日(木)、参院の平和安全特別委員会で「生活の党と山本太郎となかまたち」の山本太郎議員が質問に立った。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。