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この文章は、昨年秋の事業仕分けで「歴史的役割は終わったのではないか」と言われた(財)明るい選挙推進協会の機関紙『私たちの広場』(2010.5.14発行)に載っていました。とても良いと思ったので、みんなに読んでもらいたくて投稿しました。
『私たちの広場』(2010.5.14発行)より**********
「政治から逃れようとするものは、自分が取りたくないと思っている党派性をすでに取ってしまっている」 マックス・フリッシュ(1911−1991)
政治のエンターテイメント化が危惧される一方で「知識人の沈黙」という問題が世界各国で指摘される今、スイスを代表する作家の一人であるマックス・フリッシュは、改めて注視すべき存在といえるでしょう。
スイスの中でもドイツ文化圏のチューリヒに生まれ育った作家として、フリッシュは、隣国ドイツの民主主義を襲ったナチズムを、自分たちの問題でもあると考えました。1950年に発表された彼の作品『日記・1946−1949』にしるされたこの言葉には、戦前戦中にスイスでもナチズムへの共感が広がる中、それに有効に対決しようとしなかった市民のあいだに見られる従順さと政治的無関心に対する反省の意識が表れています。
「労働力を呼んだつもりが、やってきたのは人間だった。」
移民労働者に対する人々の冷淡な態度を皮肉的に表現した彼の有名な言葉もまた、社会に蔓延する自己中心主義を告発しています。
このように知識人として、そして一人の市民として、ともに暮らす市民に政治的な責任感を訴える彼の言葉は、これまで国境を越えてドイツの政治教育の場でも頻繁に引用されてきました。
そこでは、政治教育とは単に政治の仕組みについての知識を与えることではありません。一人ひとりに責任ある政治的意見を持つよう促すことこそが、その最大の目標です。民主主義を支えるのは、正確な世界認識に基づいて合理的で倫理的な判断を下そうとつねに努力し、発言する市民の存在だと考えられています。
こうしたドイツの民主主義とそのための教育についての考え方は、マックス・フリッシュの問題意識と一致しているといってよいでしょう。彼は今も政治教育の世界で沈黙と戦い続けています。
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