http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/4206.html
Tweet |
自公連立前は、右翼・既得権益勢力に迫害されても、
平和・改革の行動をしていた創価学会の事例 !
中国人民に敬愛された総理・周恩来氏と池田大作名誉会長の対話
(www.sokanet.jp/より抜粋・転載)
池田大作名誉会長が世界の識者と繰り広げてきた平和への対話——。
世界に広がる“行動の軌跡”
☆周恩来総理、闘病中の身を押して会見 !
約30分にわたって行われた会見。翌6日付「人民日報」には“池田会長夫妻と、親密で友好的な話し合い”と写真入りで報道された(1974年12月5日、北京) 「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」——19歳で留学した日本の思い出を、周恩来総理は懐かしそうに振り返った。
「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作名誉会長に周総理は言った。
「願望はありますが、無理でしょう」——周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。
1974年12月5日の夜。
総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田名誉会長に、突然伝えられた。
総理の病状を心配した池田名誉会長は、会見を固辞。
しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。総理は玄関で立って待っていた。
「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」
☆会見の前の記念撮影 !
この後、総理の体調を気遣い、
池田名誉会長と香峯子夫人だけが、会見の部屋に入った(1974年12月5日、
北京) 1960年代初めから、「創価学会は、民衆のなかから立ち上がった団体である」ということに着目していた周総理。
1968年に池田名誉会長が発表した「日中国交正常化提言」も高く評価していた。
「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」——周総理は、日中の友好、アジアの平和、さらには世界の平和と安定について、万感を込めて語る。
「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。
そのことが私にはとてもうれしいのです」
「あなたが若いからこそ大事につきあいたいのです」
この時、周総理76歳、池田名誉会長は46歳だった。
池田名誉会長に日中の未来を託したい——
病状を心配する側近の制止のメモを振り切って、切々と総理は語り続けた。
医師団から「会見すれば、命の保証はできません」と、反対されても「池田会長とは、どんなことがあっても会わねばならない」と譲らず、実現させた会見だった。
☆友好の心を次代へ
年ごとに花咲く創価大学の「周桜」。
碑は、会見が行われた北京の方角に向かって建てられている(東京) 会見の翌春、新中国からの初の国費留学生6人を日本で唯一受け入れたのは、池田大作名誉会長が創立した創価大学であった。
周総理が日本に留学した時、大学で学ぶ機会を得られず、苦労したことに報いたいとの池田名誉会長の真情だった。
留学生の身元の保証から日常生活にいたるまで、池田名誉会長はこまやかに心を砕いた。
そして同大学構内に、桜の木の植樹を提案。
日中友好と平和への願いが込められた桜は「周桜」と命名され、今も青年の成長を見守っているこのページのトップへ
◆周恩来(1898年〜1976年)
中華人民共和国元国務院総理
中国・江蘇省生まれ。1917年、日本留学。帰国後、五・四運動のリーダーとして活躍。
長征を経て、1949年の中華人民共和国成立とともに政務院(後の国務院)総理兼外相に就任し、内政・外交を担当した。インドのネルー首相との平和5原則、バンドン会議など平和外交を推進。
1972年の日中国交正常化に尽力した。
(参考資料)
2015年 5月19日
☆小説「新・人間革命」:革心17
孫中山故居の参観を終えた山本伸一の一行は、中庭に出た。
そこには、木々が茂り、青々とした芝生が広がっていた。
一行は芝生に腰を下ろし、しばし懇談の機会をもった。
山本伸一(池田第三代会長)は、訪中団の青年たちに視線を注ぎながら語り始めた。
「孫文先生の生き方のなかには、天道という考え方が確立されていた。
たとえば、人間を抑圧することは、天に逆らうことであり、それに抵抗することは、天に従って行動しているとする考え方だ。
この天道に従うという考えのもとに、革命を組み上げていった。
だから、そこには、自分を律する力が働き、困難に屈しない力が湧く。
法≠ェ根本になければ、結局は、崇高な理想を掲げた運動も欲望に蝕まれ、頓挫してしまう。
いかなる革命も、人間革命なくしては、本当の意味で成就することはできない」
孫文は、訴えている。
「革命事業をなすには、どんなことから始めたらよろしいのか。
それにはまず、自分の心の中からはじめ、自分がこれまでもっていた良くない思想・習慣や性質、野獣性、罪悪性や一切の不仁不義な性質をすべて取り除かなければなりません」(注1)
さらに、こんな言葉も残している。
「ただ、われらは、中国の改革と発展を、既に自らの責任と定めているのだ。
何があろうと、生ある限り、その心を断じて死なせない。
失敗しても落胆せず、困難に遭っても後退してはいけない。
全身全霊を注いで勇往邁進していく。
世界の進歩の潮流と合致し、『善は栄え、悪は滅びる』という天の法則に則るならば、最後は必ずや成功を勝ち取ることができる」(注2)
それはまさに、仏法という生命の法理のもと、世界の平和と人類の幸福の実現、すなわち広宣流布をわが使命として立ち上がった、創価の同志の生き方、確信に通じよう。
私利私欲、立身出世といった小物語≠超え、人びとのため、世界のためという大物語≠編むなかに、人生は真実の輝きを放つ。
☆小説「新・人間革命」:革心18
孫中山故居から宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一(池田第三代会長)たち一行は、上海市の関係者が主催する歓迎宴に出席した。
あいさつした伸一は、北京からわざわざ駆けつけてくれた、中日友好協会の孫平化秘書長の労に、深い感謝の意を表するとともに、「日中平和友好条約」の締結という大きな歴史の節に、中国を訪問できた喜びを語り、胸中の決意を披瀝した。
「今回の訪中を、新段階における日中友好の『金の橋』を、永遠に崩れないものとするための、本格的な第一歩としてまいる所存でございます」
さらに、一昨年六月に「中国上海京劇団」が訪れた創価大学には、中国の未来を担う留学生も学んでおり、また、周総理を偲ぶ「周桜」も記念植樹されていることを述べ、こう話を続けた。
「もし、周総理がご健在であれば、どれほどか、『日中平和友好条約』を喜ばれたことでありましょう。その条約は、遂に、調印されました。
しかし、日中の平和と友好を築き上げるという私たちの目的は、まだ達成されたわけではありません。
『画餅に帰す』との言葉があります。絵に描いた餅は、食べられないことから、考えや計画が失敗に終わることをいいます。
条約は、調印されたとしても、これまでの諸先生方のご苦労を偲び、その条約の文言に血を通わせていかなくては、条約は一枚の紙と同じことになってしまいます。
断じて、そうさせてはならない。
私どもは、日中の友好こそが、アジアの平和、世界平和の大きなカギになることを知っております。新しい時代の、新しい出発のために、誠心誠意、力を尽くし、世々代々にわたって、日中友好の永遠の流れを開いてまいります」
伸一は、文化・教育の交流をもって、人びとの相互理解と信頼を育み、心を結び合わせようとしていた。それこそが、万代の平和の礎であると確信していたからである。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。