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大河ドラマ 花燃ゆ:久坂玄瑞ら・長州藩が、攘夷決行、下関戦争 !
T 花燃ゆ:下関:壇ノ浦砲台跡.
(aigamap.jp/hanamoyu/yamaguchi/spot/より抜粋・転載)
関門海峡のいちばん狭まった「早鞆[はやとも]の瀬戸」といわれる場所に設置された長州藩の砲台跡です。幕末の攘夷戦で長州藩が外国商船に砲撃したことから下関戦争に発展し、米英仏蘭の四国連合艦隊の報復によって砲台は破壊・占領されました。西洋の軍事力に圧倒された長州藩は攘夷が困難であることを認識し、倒幕・開国へと方針を切り替えたのです。
現在は「みもすそ川公園」として整備され、源平合戦の像や5門のレプリカの大砲、攘夷戦の戦利品としてフランスに運びこまれた「天保製長州砲」(原寸大レプリカ)が設置されています。また道路の向かいには関門トンネル人道があり、歩いて海底を渡れます。
U 長州藩の攘夷決行、下関戦争
(ww.weblio.jp >より抜粋・転載)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/05/23 04:45 UTC 版)
長州藩の攘夷決行攘夷運動の中心となっていた長州藩は、本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。
攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが、田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が、攻撃を主張し決行と決まった。
翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払った[5]ことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった
◆フランスの通報艦キャンシャン号の被害
5月23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。
長州藩は、これを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ペンブローク号は長崎に戻らず上海に向かったため、同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、
癸亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。
5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。
キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があるので攻撃はされまいと油断していたところ、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。
長州藩のアメリカ、フランス艦船への砲撃は、当時の国際法に違反するものである[6]。
(参考資料)
幕末維新革命の真相は ?
(欧州財閥による日本支配が実態)
サッスーン財閥(ロスチャイルド巨大財閥の子分)の代理人としてグラバーが登場します。
この長崎に来た武器商人トーマス・グラバーは、日本を支配するためには、武家政権が最大の障害であり、武士の支配の総元は徳川幕府だと認識します。
徳川幕府の統治を完全に転覆しないと日本は自分たち英国・巨大財閥のものにならない。
そこに、嘉永6、7年(1853〜54)、アメリカの「ペリー艦隊」が来て、無理に日本を開国させ、欧米列強が日本に入り込みます。
グラバーは、日本の武家の政治を転覆するためにいろいろな「策謀」を巡らします。
ところが、孝明天皇は、朝廷と武家と一体になり、日本全国民が一致して西洋の不当な侵略、日本支配に対抗して、日本を守らなければならないという「公武合体策」を唱えます。
そして、孝明天皇の妹宮である和宮が、14代徳川家茂(1846〜66)将軍に嫁ぎます。
これでは埒が明かないというので、グラバーは、薩摩と長州に内訌して、薩長の軍隊と徳川の軍隊を全面的な内戦に持ち込んで、日本を中国のようにバラバラに解体する「植民地支配」を目論んだのです。
その最大の障害が、尊皇攘夷主義者・孝明天皇だったわけです。
そして、慶応2年12月25日(西暦では1867年1月)に「孝明天皇弑逆事件」が起こりました(「弑逆(しいぎゃく)」とは、臣下が主君を殺す大悪のこと)。
翌、慶応3年(1867年)1月9日には睦仁親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、さらに、慶応4年(1868)8月27日に即位式をあげ「明治」と改元されました。
ところが、この睦仁天皇も16歳くらいでしたが、言うことを聞かなかったのです。
英国の手先・薩長になびかず、徳川幕府と朝廷が一致して、日本を守るという、孝明天皇の政策を改めなかったのです。
そこで、睦仁天皇も邪魔だということで「弑逆」されて、行方がまったくわからなくなったのです。
・・・・ 大室寅之祐(南朝系子孫と勤皇派は主張)という名前の人物を「睦仁にすり替えて」詐称しているからです。
日本国民が、「孝明天皇弑逆事件」の真相を明らかにして、それ以降の日本には、歴史的正統性が存在しないということを、明確に日本人が認識する・・・ということが必要ではないかと思うわけです。
*孝明天皇弑逆説:山陰基央、徳富蘇峰、山岡荘八、鹿島昇、大田龍、鬼塚英昭、加治将一
なお、明治初期・中期、京都の公家、有力市民の多くは、孝明天皇弑逆を知っていた。
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