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「中国各紙」日本訪中団に好意的 !
二階総務会長ら、民間交流の推進 !
自公連立前、昭和40年50年代・日中国交正常化に尽力後、更に
「日中平和友好条約」を推進 !
中道主義・平和主義に徹し・民間外交で尽力した公明党・創価学会 !
(毎日新聞 5月24日(日)19時47分配信より抜粋・転載)
中国の習近平国家主席が自民党の二階俊博総務会長ら約3100人訪中団に語った日中関係についての内容や、中国を訪れた日本人観光客を1面で大きく伝える5月24日付の中国各紙=北京市内で2015年5月24日、工藤哲
【北京・工藤哲】24日付中国各紙は、習近平国家主席が23日に北京で二階俊博自民党総務会長ら約3100人を前に語った発言の内容を大きく伝えた。記事は日中間の民間交流の推進を好意的に伝える内容が目立つ。日本の文化、観光などの分野での協力を強め、民間交流を歴史問題など政治分野の対立とは切り離す中国側の意向が反映された模様だ。
【普通の中国人「普通の日本を知りたい」来日急増】
共産党機関紙「人民日報」は、習氏の演説を1面トップで掲載。二階氏が率いた訪中団について「民間交流の推進は両国関係改善にプラスのエネルギーになる」と伝えた。
また北京紙「京華時報」は、北京で買い物をする日本人観光客を1面写真で掲載。訪日する中国人観光客が増えているが、中国を訪れる日本人観光客が増えることを期待しているようだ。
一方、二階氏は、5月24日、北京の日本大使館で記者会見し、日中経済交流を活性化させるため、新たな機構を創設する方針を明らかにした。さらに、中国の次世代リーダーと目される胡春華広東省共産党委員会書記と会談したと明かし「信頼に足る人物だった」と振り返った。
二階氏は、北京滞在中、清華大での講演やNHK交響楽団の北京公演(10月31日を予定)の調印式にも臨んだ。
(参考資料)
自公連立前、昭和40年50年代・日中国交正常化に尽力後、更に
「日中平和友好条約」を推進 !
中道主義・平和主義に徹し・民間外交で尽力した公明党・創価学会 !
◆日中平和友好条約の要旨[編集]
(ウイキペディアより抜粋・転載)
通称・略称 日中平和友好条約
署名 1978年8月12日(北京)
効力発生 1978年10月23日
内容は1972年9月に国交回復した時の日中共同声明の文面を基本的に踏襲したものとなっている。第1条で主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述され、第2条で反覇権を謳い、第3条で両国の経済的、文化的関係の一層の発展を述べて、第4条でこの条約の第三国との関係について記されている。
国交回復から6年が過ぎてから平和条約交渉が妥結したのは、「反覇権」条項と「第三国」条項で最も論議を呼んだからである。そして中国側は、賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出した。
◆小説「新・人間革命」:革心12
孫中山の故居に立って山本伸一(池田第三代会長)は、孫文と宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との、友情を思い起こしていた。
孫文は、一八六六年(慶応二年)に清国広東省・香山県(後の中山市)に生まれた。少年期をハワイのホノルルで過ごし、帰国後は、香港西医書院(香港大学医学部の前身)で医学を学ぶとともに、革命思想に傾倒していく。
ポルトガル領であったマカオで医師として開業するが、彼の目は、疲弊し、病んだ祖国・中国(清国)の、息も絶え絶えな姿に向けられていった。清国は、八四年(明治十七年)に起こった、ベトナムの支配権をめぐるフランスとの戦い(清仏戦争)に敗れ、さらに、九四年(同二十七年)に始まった日清戦争にも負け、列強の脅威にさらされていた。
また、清国内では、満州族による支配が続き、多くの人民の生活は貧しかった。
孫文は、白衣を脱ぎ捨て、革命のメスを手にした。清朝を打倒し、民主主義国家をつくって祖国を救おうと、九四年、ハワイで秘密政治結社・興中会を結成。広州での蜂起を計画するが、失敗し、日本に亡命したのである。彼は、日本の明治維新に、中国における革命のあるべき姿を見ていた。
日本では、宮崎滔天をはじめ、多くの日本人が、彼に協力を惜しまなかった。住まいの面倒をみることから、運動の資金や生活費の援助も行っている。欧米列強がアジアを次々と侵食していくなかで、新しいアジアをつくろうとする孫文の理想に共感したのである。
国家、民族を超え、壮大なロマンによって結ばれた、友情と信義の絆であった。崇高な志による人間の結合は、新しい時代を創造する新しい力となる。
宮崎は、孫文と初めて会った時、その風貌に軽さを感じ、失望を覚えた。しかし、語り合うなかで、感嘆するのだ。そして、自らを反省し、こう記した。
「いたずらに外貌によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚だ多し」(注)
◆小説「新・人間革命」:革心13
宮崎滔天は、孫文という人物を知り、深い尊敬の念をいだく。
彼は、自らの半生を綴った『三十三年の夢』に、孫文への思いをこう述べている。
「彼、何ぞその思想の高尚なる、彼、何ぞその識見の卓抜なる、彼、何ぞその抱負の遠大なる、しかして彼、何ぞその情念の切実なる。我が国人士中、彼の如きもの果して幾人かある、誠にこれ東亜の珍宝なり」(注1)
その後、宮崎は、孫文の中国革命を支援して、東アジア各地を駆け回る。そこには、私利私欲など、全くなかった。
この『三十三年の夢』のなかで彼は、孫文の思想、人物を描き、讃嘆した。この本は、多くの中国人留学生の目に触れ、また、中国語にも翻訳されていった。そして、それが清朝を倒し、中華民国を樹立することになる辛亥革命に、大きな影響を与えたといわれる。
なお、辛亥革命という名は、革命の起きた一九一一年(明治四十四年)が、干支の「辛亥」の年に当たることに由来している。
宮崎は、「理想は実行すべきものなり、実行すべからざるものは夢想なり」(注2)と、自らの信条を綴った。理想は行動と共にある。
また、孫文への資金面での支援者に、梅屋庄吉がいる。長崎県で貿易と精米業を営む家に育った彼は、少年時代に上海へ行き、租界で、欧米人によって差別され、屈辱を味わう中国人の姿を目の当たりにした。
その十余年後、香港で写真館を開き、孫文と知り合う。孫文は、情熱を込めて訴えた。
――眠れる祖国を目覚めさせ、列強に抗する国をつくり、人民を救済せねばならぬ、と。
梅屋の心は燃え上がり、孫文に蜂起を勧め、資金の援助を約束する。梅屋は、この約束を破ることはなかった。映画事業に着手し、手腕を発揮して財を得ると、惜しまずに孫文の活動資金として提供した。
孫文は、蜂起を繰り返すが、ことごとく失敗に終わった。しかし、次第に、中国各地に革命の機運はみなぎり、遂に、辛亥革命が起こり、共和制国家がスタートしたのだ。
小説「新・人間革命」:2015年 5月15日
◆小説「新・人間革命」:革心14
辛亥革命により、一九一二年(明治四十五年)一月、南京に、孫文を臨時大総統とする中華民国政府が誕生した。
清朝を代表して、この革命政府との講和にあたった内閣総理大臣の袁世凱は、清の宣統帝溥儀を退位させ、孫文に代わって、自分が中華民国の臨時大総統となった。ここに清朝は滅びたのである。
袁世凱は、孫文らの弾圧に乗りだす。正式に大総統に就任した彼は、独裁化の一途をたどり、帝政を復活させ、自ら皇帝となることを目論む。孫文が描いた革命の理想とは、正反対の事態を招いていくのだ。
文豪ビクトル・ユゴーは叫ぶ。
「私利私欲から発した動きと、主義主張から生まれた動きとをはっきり区別して、前者と戦い、後者を助ける、これこそ偉大な革命家たちの天分であり、道義なのである」(注=2面)
人間のもつ利己心の克服、つまり、人間革命あってこそ、真実の革命の成就がある。
一五年(大正四年)、日本は、権益拡大のために、第一次世界大戦に乗じて山東省におけるドイツの権益の継承や南満州権益期限の延長など、二十一カ条の要求を中国に突き付けた。多少の修正はあったものの、袁世凱は、これを受諾。中国人の対日感情は悪化した。
孫文は日本にいて、強い憤りの日々を送っていた。梅屋庄吉に取り持ってもらい、宋慶齢と結婚したのも、この日本滞在中である。
翌年四月、彼は、政府打倒を決意し、東京を発つが、六月に袁世凱は病死する。
一七年(同六年)、孫文は、広州で広東軍政府を樹立。しかし、政府内に生じた路線対立によって窮地に立たされ、またしても、日本に亡命する。
一七年にロシアではロシア革命が起こり、ロマノフ王朝が倒れ、ソ連邦が成立した。世界史上、初の社会主義国家が誕生したのだ。
一九年(同八年)一月、第一次大戦後のパリ講和会議によって、日本の二十一カ条要求がほぼ認められ、山東省の権益もドイツから日本が受け継ぐことになったのである。
◆小説「新・人間革命」:革心15
日本の中華民国政府に対する二十一カ条要求がほぼ認められてしまったことは、中国の人びとにとって、最大の恥辱であった。反日愛国運動の火は、中国全土に広がっていった。いわゆる「五・四運動」である。
また、日本は、この前年の一九一八年(大正七年)、米英仏などとともに、ロシア革命への干渉のため、シベリアに出兵。ほかの国々が撤退したあとも駐留し続けていた。
こうした日本の大陸進出が、中国の不安と脅威を駆り立てたことはいうまでもない。
一九年(同八年)十月、孫文は、民族主義、民権主義、民生主義の「三民主義」を政綱に掲げて中国国民党を結成し、党首となった。
民族主義は、国内諸民族の平等と他国の圧迫からの独立をめざすものだ。民権主義は、主権在民を説くものであり、民生主義は、経済的な不平等の是正を目的として、社会的平等を実現しようというものであった。
孫文の理想は、遠大であり、どんな困難にも、どんな裏切りにも屈しなかった。固く、強い、鉄の信念があったのである。
彼は、高らかに訴える。
「わが心が、これは行ないうると信ずれば、山を移し海を埋めるような難事でも、ついには成功の日を迎える。わが心が、これは行ないえぬと信ずれば、掌をかえし枝を折るような容易なことでも、成功の時は来ない」(注)
大望の成就は、自身を信じて、必ず成し遂げると、心を定めることにある。
二一年(同十年)には、上海で中国共産党が創立される。
孫文は、ソ連との友好、提携を深めるなかで、二四年(同十三年)、軍閥、帝国主義を打倒するため、中国国民党を再編成して、中国共産党との国共合作に踏み切る。そして、この年十一月、北京に向かう途次、日本を訪れ、兵庫の県立神戸高等女学校で講演する。
――日本は、西方覇道の手先となるのか、東方王道の守護者となるのか、と。
渾身の力を振り絞るようにして、欧米列強の帝国主義に追随する日本を諫めたのだ。
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