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日中戦争・日米戦争の終結は、なぜ遅れたか ?    -終戦に至る原爆投下の位置づけ !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2015 年 3 月 13 日 19:34:59: jobfXtD4sqUBk
 


朝ドラ:マッサン、終戦の日

何でもっと早く戦争やめられなかったの ?

そうすれば…一馬さんは…一馬さんは死なずにすんだ。
お母さんも…こんな苦しい目に遭わずにすんだ」

清義明氏の敗戦遅れの認識:

サイパン陥落・1944年7月直後、終戦していれば、
被害は、相当少なかった !

T マッサン第135回のあらすじ〜終戦

U 日中戦争・日米戦争の終結は、なぜ遅れたか 

清義明氏の敗戦遅れの認識:

-終戦に至る原爆投下の位置づけ-

1.昭和天皇の終戦決断のタイミング

2.重臣グループによる終戦工作

3. 昭和天皇の一撃講和論

4.東京大空襲と沖縄戦

5.終戦のための組閣開始

以上は前回投稿済みです。以下はその続きです。

6.昭和天皇の決断:6月8日・本土決戦→6月21日沖縄守備軍全滅後戦争終結


この1945年4月の末にムッソリーニが死亡し、ヒトラーは自殺。

ドイツの降伏は翌5月8日。これを受けて鈴木首相と外務大臣、陸海大臣と総長による天皇が臨席しない、最高戦争指導会議(5月11日〜14日)で、ソ連の仲介を通じて和平交渉をすることが決定する

ただし、天皇を交えた翌月の6月8日の御前会議では戦争継続が確認されている。すなわち本土決戦である。

極秘裏にソ連仲介での和平を探りながら、公式には戦争継続の姿勢を緩めぬということだ。

この時点で、天皇の肚は、決まっていたようだ。5月8日に、講和時に武装解除と責任者処罰は致し方ないとの決断を木戸内大臣に語った。
(『高木日記』)、それを受けたものとして、戦争継続が議論された、御前会議の翌日に6月9日に、木戸内大臣からの上奏「時局収集の対策試案」を受ける。

これは、天皇の意向を踏まえたものとみなして差し支えはないだろう。

内容は率直たるもので、「沖縄がもはや陥落したからには、次の先行きが暗く、迎え撃つ戦力も1945年下半期には喪失する。

軍部より和平をすすめるのが良いものだが、現状それはできそうもない。ドイツがベルリン壊滅のようになった二の舞いを避けるべく、天皇陛下によって和平を決めてほしい」というものだった(「木戸幸一日記」)

木戸内大臣の言葉どおり、6/21に沖縄守備軍は、全滅した。

そして、翌日に天皇は、最高指導者会議を開き、戦争終結にむけて動くように初めて指示を与えることになった。ここで初めて、米内海相と東郷外相は5月の戦争指導会議で和平交渉の開始されていることを明言する。


7.ソ連への和平仲介交渉の拙劣

しかし駐日ソ連大使を通じての交渉はうまく進まない。

昭和史探索〈1〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

陸軍は、ソ連が対米国の戦略的必要上、日本が弱体化することを望まないであろうという読みのもと、この方策を強行に主張していた。
が、この時の東郷外相は、終始悲観的であった。

致し方なく、ソ連と直接交渉するべく近衛が引っぱり出されるも、その近衛自身は先に触れた「近衛上奏文」にて、その当時の陸軍がソ連と通じているという説に捕らわれており、その脅威に警戒していた立場として、全くこれには乗り気ではなかった。

「あの急迫した時代に、六月いっぱいもの長時間をかけてソビエト側と無益の交渉をしていた、そのことである。

満州問題をソビエトの有利に解決して、そしてソビエトをわが方に引き付けようとする魂胆から出発した日本の提案のごときは、当時の情勢において、とうていソビエトを満足させるものではなく、日本の壊滅が目の前に迫っているとき、こんななまやさしい考え方でソ連をわが方に引っ張るなどは、私の目には、いかにも児戯に類したこととしか思えなかった」-当時の駐ソ大使佐藤尚武-(「昭和史探索」半藤 一利)

内実、ソ連はカイロ会談でアメリカから対日参戦を強く要望されていて、そのタイミングを計っている状況であった。

1945年2月のヤルタ会談では対日参戦をトルマーマンに約束もしている。

そのためにこの和平交渉について返事を引き延ばしていたのである。

また、この直前の1945年4月には、日ソ中立条約の非延長も通達しており、ソ連が日本に有利な仲介をするとはとても考えられない情勢でもあったのである。ソ連は7月18日に近衛の特使派遣を拒否する。

8. 鈴木首相・ポツダム宣言の「黙殺」と原爆投下

そうこうしているうちに7月26日ポツダム宣言が発表される。
この間、軍部、特に陸軍は本土決戦を主張するものが多数であり、これに気を配るつもりか、鈴木はこれを「黙殺する」と答え、これがアメリカには「ポツダム宣言拒絶」と報道されることになった。

そして8月6日、広島に原爆投下された。

トルーマン大統領の原爆投下後の演説は次のとおり。

「7月26日のポツダムで発布された最後通牒では、この強力な破壊は日本人の身に降りかからないことになっていた。
日本の指導者たちはこの最後通牒を即座に拒絶した。

もしいまなおわれわれの要求を飲まないとなれば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が空から降るものと思っていただかなければならない」(広島への原爆投下を知らせるトルーマン大統領演説)

8月8日に、東郷外相が天皇に原子爆弾に関する情報を報告したところ、次のように述べたという。


「この種の武器が使用させるる以上、戦争継続は、愈々不可能になれるにより、有利なる条件を得んがため戦争終結の時期を逸するは不可なり。

条件を相談するも纏まらざるに非るか。なるべくすみやかに戦争終結をみるよすに努力せよ」
(「「終戦史録」外務省)


★長崎原爆投下後、御前会議で、ポツダム宣言受諾が、天皇の聖断により決定

翌9日に緊急で、戦争指導者会議の開催が決定。
しかし同日、トルーマンの予告通り、長崎に再び原爆が投下される。

そして深夜に、御前会議が行われ、ポツダム宣言受諾が、天皇の聖断により決定する。

★米内海相発言:

原子爆弾の投下とソ連の参戦は、天佑 !

ポツダム宣言受諾・戦争終結の言い訳になるから ?

「言葉は不適当と思うが、原子爆弾の投下とソ連の参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢によって戦争をやめるということを、出さなくてすむからである」(米内海相 8月

12日の発言『検証 戦争責任U 読売新聞戦争責任検証委員会』)
「原子爆弾だけに責任をおっかぶせればいいのだ。これはうまい口実だった。」(迫水久常 

当時の書記官長『大日本帝国最後の四か月』)

検証 戦争責任〈2〉 終戦工作を行っていた重要なキーマンである、米内海相と内閣書記官長岡田啓介の発言である。

この後もなおも、ポツダム宣言に条件付きで応じるか、無条件かをめぐって陸軍が強行に条件付きを主張するも、再び14日に天皇の意向が示された。そして翌日に終戦となるも、この日にはいわゆる宮城事件という近衛師団将校の反乱が起きるも、これは鎮圧された。

なお、ソ連による8月9日対日参戦布告は、広島への原爆投下を知り、
ソ連の仲介や圧力なく日本がアメリカ単独で降伏してしまうことを
恐れてのことだったとの説が有力である。

9.まとめ:終戦が遅れた原因と原爆

(1)少しでも大きな損害を与えて、それを契機に和平を図る(天皇による一撃和平論) 1943年9月〜1945年6月

(2)ソ連を通じて講和に持ち込む(戦争指導者会議での決定) 

1945年6月22日〜1945年8月9日

昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)

この2つの動きが終戦を志向していたことは間違いない。

だが、結果として(1)は机上の空論であり、かつ具体的な動きも乏しかった。

その間、近衛文麿を中心とする工作もあったが、これが直接の成果を結ぶことはなく、むしろ沖縄戦の敗北と日本各都市が壊滅的になるほどの空襲をへて、やっと(2)ソ連を仲介とした

和平工作が動き出した。ここまで、昭和天皇の言う勝利の見込みを失ったという1943年9月から1年と9ヶ月。

そして、ソ連を仲介とする工作も、これも実を結ばず。
これは単に陸軍を中心とする国際情勢を甘く読んだが故に単に終戦をおられせただけの
結果となる。

ポツダム宣言が出た7月26日もこれに積極的に受諾の動きは見当たらない。
むしろこれに対する国内世論と陸軍への目配せを考えた鈴木首相の発言がマイナスになった。

陸軍を中心とする、「戦争継続の強硬派の存在」という原因が、もちろん最大の終戦が
遅れた原因となるのは当たり前の話だが、これに輪をかけて、以上のような紆余曲折が
あったわけである。

日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人のほとんどが

サイパン陥落(1944年7月)以後

★1944年7月直後、終戦していれば、被害は、相当少なかった !

日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人の
ほとんどが、サイパン陥落(1944年7月)以後だから。

そうすると本格的に、陸軍首脳も含めたポツダム宣言受け入れのきっかけとなったのは、
8/6の原爆投下だったことになる。

「聖断まで時間がかかったことは、問題を残した。
太平洋戦争における日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人のほとんどがサイパン陥落(1944年7月)以後であるこを考えればなおさらである」(『昭和天皇-理性の君主の孤独』古川隆久)



 

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