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朝ドラ:マッサン、終戦の日、何でもっと早く戦争やめられなかったの ?
そうすれば…一馬さんは…一馬さんはしなずにすんだ。
お母さんも…こんな苦しい目に遭わずにすんだ」
清義明氏の敗戦遅れの認識:
T マッサン第135回のあらすじ〜終戦
( juntoai.blogspot.com/ より抜粋・転載)
― 1945年(昭和20年) 8月15日
政春達はラジオの前で正座し、玉音放送を聴いていた。
『厚生に至りては朕の深く軫念する所なり。惟うに今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。
爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども朕は時運の趨く所、堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かぬと欲す」
放送終了後、エリーは社員達と一緒に肩を落として建物を出る政春を呼び止める。
「マッサン」
「日本は負けた。戦争はもう…もう終わったんじゃ。エリーはもう…自由じゃ。どこに行ってもええ。大きい声で英語で喋ってもええ、英語で歌うてもええんじゃ」
政春の言葉を聞いてエリーは思わず門の外に視線がいく。
「私…外に出てもいい?」
「うん」
「英語で喋っても?」
「ほうじゃ!」
「本当?」
「うん」
すると突然、エリーがその場で倒れた。
「おい…おい、エリー!エリー!」
― 政春はエマとエリーを看病する。
エリーが眠る中、エマが不満を口にする。
「ねえ、お父さん。日本は負けたんでしょう? 一体どうなるの?
何でもっと早く戦争やめられなかったの?
そうすれば…一馬さんは…一馬さんはしなずにすんだ。
お母さんも…こんな苦しい目に遭わずにすんだ」
>エリーはそのまま、丸一日眠り続けました。
U 戦争の終結は、なぜ遅れたか
清義明氏の敗戦遅れの認識:
-終戦に至る原爆投下の位置づけ-
(masterlow.net/清義明のブログより抜粋・転載)
By 清義明 · 8月 18, 2013 · 書評 1コメント
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以下、太平洋戦争の帰趨は少なくとも1944年7月に「絶対国防圏と目されたサイパンの陥落でおおよそ決まっていました。
それではなぜその戦争の終結までに1年以上もかかってしまったかについてまとめてみます。
また、結果的に原爆により、戦争の終結が早められたという、あまり認めたくはないアメリカ側の基本認識がそれなりに的を得ているということも最後にふれてあります。
1.昭和天皇の終戦決断のタイミング
昭和天皇独白録 (文春文庫)
「ニューギニアのスタンレー山脈を突破(1943年9月)されてから勝利の見込みを失っていた。一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先には和を議したくない。それで早く独乙が敗れてくれればいいと思ったほどである」
(昭和天皇独白録)
昭和天皇はこのように終戦直後に語っているが、その敗戦の受け入れの意志を実際に固めたのは、もっと後、1945年の6月頃と推測される。以下、これを順を追って見ていきたい。
2.重臣グループによる終戦工作
木戸幸一日記 上巻一方、岡田啓介元首相や近衛文麿前首相による終戦工作がサイパン陥落前後(1944年7月)から本格的に始まっている。
が、これはまだ具体的なものとはいえず、まずは東条英機内閣の退陣につながるも、まだ軍部を巻き込んだものとは言えなかった。
「敗戦必死なりと陸海軍当局のひとしく到達せる結論にして、ただ、今日はこれを広言する勇気なしという現状なり」(近衛日記)
これは木戸内大臣に当てられた意見書で、日付は1944年7月。この時点で木戸とともに皇族内閣にて降伏するというシナリオもできていた。
ただし陸海軍の強行派が戦争継続を主張しているうちは講和は難しいであろうという認識でもあった。(『木戸幸一日記』)
3. 昭和天皇の一撃講和論
さらに、この時期、昭和天皇はいわゆる「一撃講和論」に固執していた。
1944年9月26日に木戸内大臣に対して、昭和天皇は敗色濃厚なドイツの来るべき降伏にあわせて講和をすすめることができないかとの意見を述べている。(『重光会議手記』)だが一方で次のようにも語っている。
「私は参謀本部や軍令部の意見とは違い、一度レイテで叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見できるのではないかと思い、レイテ決戦に賛成した」(昭和天皇独白録)
しかし、レイテ沖の海戦で当時の残存海軍兵力の主力が壊滅し、陸上でも1944年12月には大勢が決してしまう。
さらにサイパン島などマリアナ諸島がすでに陥落していたこの時期、ついに1944年11月より東京の空襲が本格化する。
当初は軍需目標に対する精密爆撃だったのが、次第に無差別都市部爆撃となり、1945年1月14日には伊勢神宮が被害を受け、同27日には銀座周辺が爆撃される。
そのような状況下、1945年2月には天皇は各重臣と戦争の先行きについて意見を聞く個別の会談を行った。
index出席者は平沼、広田、近衛、若槻、牧野、岡田、東條。
すでに戦争終結にむけた動きを極秘裏に行っていた岡田・牧野もここでは敗戦受け入れの結論は述べず、唯一近衛のみが和平を主張する。
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる近衛上奏文が出されたのはこの時。近衛は前年から東條内閣の打倒工作と終戦工作を極秘裏に進めていた。
その近衛にむけて天皇は次のように語った。
「参謀総長などの意見として、たとえ和を乞うとしても、もう一度戦果をあげてからでないと、なかなか話はむつかしいというが近衛はどう考えているか。
梅津や海軍は、台湾に敵を誘導しうれば、こんどは叩きうるといっているが・・」(「侍従長の回想」藤田尚徳)
4.東京大空襲と沖縄戦
この近衛との会談の5日後の2月19日に米軍は硫黄島に上陸。さらに6日後に東京大空襲が開始される。
なお、近衛に語った「もう一度の戦果」というのは真近に迫っていた沖縄戦も念頭にあったはずである。
沖縄戦は1945年3月26日から開始され、4月6日には最後の組織的な海軍の反撃(菊水作戦)も失敗に終わる。天皇は次のように語る。
「私はこれが最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまたやむを得ぬとおもった」(昭和天皇独白録)
「沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ、唯一縷の望みは、ビルマ作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して相当の打撃を与え得るのではないかと思って梅津に話したが、彼は補給が続かぬといって反対した。」(昭和天皇独白録)
「雲南作戦も望なしということになったので、私は講和を申し込むより外に道はないと肚を決めた」(昭和天皇独白録)
結局は「絶対国防圏」とされたサイパンの陥落から、いくども講和のための一撃を狙い、そして失敗してきたわけである。
5.終戦のための組閣開始
そしてこの翌日、4月7日鈴木貫太郎内閣組閣。2.26事件で軍部に狙われ、九死に一生を得た天皇の最側近のこの人が内閣を組織するという意味は、すなわち対軍部ということであろう。
実際に、この人事は憶測を読んだ。
田中清玄自伝 (ちくま文庫)
「鈴木貫太郎は日本のパドリオだという噂が一斉に流れたんです。バドリオとはムッソリーニの後に政権の座につき、イタリアを終戦に導いた首相ですからね。つまり鈴木さんは戦争を終結させるための首相だというのわけですよ。この噂を聞いて軍の中の本土決戦派の連中は鈴木さんの自宅まで大挙おしかけていって、『総理、あなたは戦争を止めさせるために総理になったのですか』と迫った」
だが、鈴木貫太郎はこのあたりで大芝居を打ち始める。「貴公のようなものがいる限り日本は安泰。
本土決戦に向けて邁進しよう」というような回答がわざわざ新聞にまで掲載されることになる。
2.26事件を生き残った鈴木貫太郎にとって軍部の横暴は計算ずくのことだろう。鈴木貫太郎が首相就任時にもアドバイスをしていたという政財界に帰依者を多数抱えていた龍沢寺の山本玄峰は、当時の弟子であった、田中清玄にこう言っていたという。
「軍は気違いじゃ。気違いが走るときは、普通人も走る。日本の軍という気違いが刃物をもって振り回している。今、はむかったら殺されるぞ。そのうち気違いは疲れて刃を投げ出す。それを奪い取ればいい。」(田中清玄自伝)
鈴木貫太郎は疲れるまで待つつもりだったのだろう。老練といえば老練、愚鈍といえば愚鈍。この人に対する賛否はまさしく両論である。
―この続きは次回投稿します―
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