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大河ドラマ「花燃ゆ」、 高杉晋作役高良健吾にインタビュー
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投稿者 青木吉太郎 日時 2015 年 3 月 07 日 13:58:47: jobfXtD4sqUBk
 


大河ドラマ「花燃ゆ」、奇兵隊を組織して活躍した

高杉晋作役高良健吾にインタビュー

「高杉は繊細で優しいけど、思い切りぶっ飛ぶ力もある人」

高杉晋作の実像は ?



T 高杉晋作役高良健吾にインタビュー

(テレビファン・ウェブ 3月3日(火)17時45分配信より抜粋・転載)

 高杉晋作役の高良健吾
 NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で、師の吉田松陰(伊勢谷友介)から久坂玄瑞(東出昌大)と共に最も期待された高杉晋作を演じている高良健吾。
松陰の死後、上海で欧米列強にむしばまれる中国の現状を目にし、帰国後、過激な尊王攘夷運動を展開する。

映画を中心に難役に挑む高良が、幕末の男たちのゆるぎない思いと松陰との日々を語る。

−役作りはどのようにしましたか。

 とにかく資料を読みました。皆さんがよく知っているのは事を成し遂げた後の高杉かと思いますが、僕が演じるのは塾に入る前からの高杉。最初から高杉晋作は高杉晋作ではなかったんです。

−高良さんならではの高杉をどのように演じようと思っていますか。

 すごく繊細で優しい人でもあるのですが、思い切りぶっ飛ぶ力もある人。
ただかっこいいだけではなく、ダサいところもある。

みんなが動いているときに動けない高杉もいた。コンプレックスやいろいろと胸の中に秘めたものを、表現できたらと思います。

−吉田松陰は、
高杉晋作をどう見ていたのでしょうか。

 「少し頭が固いがそれがいい」と松陰先生は言っています。
松陰先生と出会ったころの高杉は、自分からあふれ出てくるものをどうしていいか分からなかったんでしょうね。

−高杉晋作の運命についてどう思いますか。

 病死なので、戦って死ねなかったことは悔しかったでしょうね。
でもそれよりももっと悔しいのは変わった世界を見られなかったことでしょう。

−同世代の共演者がたくさんいますね。

 新鮮だし、同年代が多くいるだけで(気持ちが)上がりますね。
井上(真央)さんは、同年代でありながら中心にいるし、ずいぶん以前に出会っていた(仲の良い)
東出(昌大)もいます。
彼が高杉とライバル関係にある、久坂玄瑞役というのも、きっと何かの縁ですね。

−主演の井上真央さんはいかがですか。

 尊敬するほかないです。
真央さんはみんなが言いづらいことを表に立ってまず言ってくれる。
先頭を切ってみんなを連れていくというのではなくて、いつの間にかみんなの真ん中にいて、みんながその渦に巻き込まれていくという感じです。


−高良さんの役者人生の中で、
今回の高杉晋作役をどう考えていますか。

 20代前半は勢いだけでできる役が多かったけれど、27歳になって感じるのは、心身からあふれてくるものだけではなく、それをちゃんと言葉や感情にして(明確に)意識し、ちゃんと体の中に流していくことが必要なんだと思います。
声を張り上げて暴れていれば傍若無人な演技にはなりますが、それだけでは表現したくない。
静かな時でも心の中から煮えたぎる何かが出ていればいいわけですから。

−長州弁はどうでした。

 イントネーションで困ったことはないです。それに長州弁はすごく優しい。特に(松陰の母役の)檀ふみさんの「せわーない(大丈夫)」には浄化されますね(笑)。


U 高杉晋作の実像を追って


(春風文庫www.h2.dion.ne.jpより抜粋・転載)
研究室 〜 高杉晋作の実像を追って


(「朝日新聞・西部」平成14年5月11日夕刊) 〜
幕末長州藩で奇兵隊を結成し、幕府と戦った高杉晋作(号・東行)は、慶応3年(1867)4月、数え年29の若さで下関において病没した。
同年10月には大政奉還、翌年9月には「明治」と改元されたから、新時代を眼前にした死であった。

晋作は、数多くの人間ばなれした逸話を持ち、英雄・武勇伝として扱われてきた。
しかし、裏をのぞけば、逸話や奇矯な行動にはちゃんと理由があり、周到な準備がなされたはずで、それを探りたかった。

以下は、私が自ら設問し、出した回答の一部である。
少年時代、なぜ剣術修行に精出したのか。15、6歳の頃、江戸に赴いて「黒船騒動」を体験し、発奮したことが分かった。

万延元年(1860)、関東・信州・北陸方面の遊歴日記が、栃木県壬生でなぜ突然中断するのか。私は実際に壬生に赴き、関係者の子孫から晋作が地元の剣士に何度も試合に敗れたという話を聞いた。日記中断は、この精神的ショックとかかわっていると考えた。
文久2年(1862)、幕府が品川御殿山に建設中のイギリス公使館を、同志と共に焼き払った

にもかかわず、捕まらなかったのはなぜか。
それは当時の幕府が、朝廷から建設中止を求められるという苦しい立場に立たされていた
からだ。

犯人不明で処理した方が、都合がよかったのである。
皮肉にも高杉晋作は命をかけ、幕府を救っていたことも分かった。

元治元年(1864)、藩内の政争で敗れて九州に走ったのは、なぜか。
反撃のため佐賀・福岡藩の軍事的支援を取り付けようとしたからだ。

しかし実際は、晋作のために都合よく動いてくれる藩などなかった。
慶応元年、イギリス密航を企てたのはなぜか。
幕府の頭上を飛び越え、下関を国際貿易港として世界中に公認させようと企んだからだ。

ただし長崎で英国公使代理に拒否され、計画はあっけなく頓挫する。
慶応二年、長崎でオテントーという小さな蒸気船を、独断で購入したのはなぜか。
船にはアームストロング砲三門が搭載されていた。
高杉晋作は、かつて上海視察の際、熱心にアームストロング砲を見学し、その威力に驚いた
ことがある。

何としても欲しかったのだろう。
このように、周囲の目を驚かせた晋作の行動の不透明な部分を、「史料」を基にひとつひとつ解きほぐし、具体的に説明した。

その結果、慎重である一方、失敗を繰り返す、人間臭い等身大の晋作像が見えて来た。
しかし一つだけ、「史料」だけでは分析出来ない晋作の行動があった。
幕府に恭順した藩政府の打倒を掲げた、元治元年12月の下関における挙兵だ。
やがて尻込みしていた、奇兵隊などの同志も立ち上がり、豪農は軍資金を提供し、晋作たちは、内戦のすえ藩の政権を奪取することに成功した。

この挙兵は、明治維新へのターニングポイントとも評され、古くは「回天義挙」と呼ばれた。
さて、晋作は本当に成算があって80人を率い立ち上がったのか。そうした問いに対し、「晋作贔屓」の作家や研究家は「成算あり」と回答するのがつねのようだ。

同志の呼応も、豪農の支持も、最初から晋作は計算しており、その通りになったというのである。

それでこそ晋作は、ただ一人で「未来」を見た、「天才革命家」の名が冠されるのだ。
ところが冷静に考えたら、成算があったことを裏付ける史料は何も無い。

晋作が立ち上がった時、藩政府が動かせる兵員は二千もいたという。
それに80人で戦いを挑んだのだ。
成算などありえないと、私は思う。

たとえば、挙兵前に晋作が豪農や豪商を訪ね、軍資金を調達したような話は無い。
襲撃した下関の藩会所の蔵が空だった史実から見ても、事前の調査が不十分だったことは明白だ。

晋作が山口の大庄屋に手紙を発し、経済的援助を乞うのが挙兵から12日後。
奇兵隊などが呼応するのは実に、3週間も後の話しだ。

いずれにせよ「天才革命家」にしては、あまりにも杜撰で、お粗末である。

しかし、私は晋作の挙兵を評価したい。
勝つからやる、負けるからやらないだけでは、人の心は動かせないのだ。
晋作には自らが真っ先に危地に飛び込む決意を示すことしかなかったのだ。

単純に美化するのは危険だが、成算を度外視した「決意」の表明がこそ、数々の歴史の
転機を作って来たことは確かだと思う。


 

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