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金権政治・大企業優先・政官業癒着・自民党体制批判から自民党政治支援
へ大変貌の公明党 !
公明党の大変質の経緯と軌跡 !
日本全体の政治改革より、創価学会の静穏が大事・党利党略・名聞名利・私利私欲・
優先・公明党の弱み・本質を調査 !
T 自公連立前の公明党のスタンス:
自民党政権を打倒、政権交代で改革実現 !
過去20年間、公明党は、「野党・社・公・民路線」から「親小沢・反自民党路線・政権交代路線」へ、そして、1999年後、「反小沢・自民党との連立」へと路線変更をしてきた。
自民党と連立することで、「政権交代を阻止」する行動と主張を15年以上継続することになるのである。
国民目線で政治を進める、小さな声を聴く力がある、生活者の心が分かる、平和の党である、の公明党スローガンと自公連立後の公明党の軌跡・実態は大違いでないか?
自公連立前の公明党は次のように主張していた。
(1) 自民党の一党支配を打破し、新政権軸を目指す !
(石田委員長):
公明党の基本路線:自民党一党支配が永続→『政治腐敗が起こる® 改革が叫ばれる 改革が実現しない 選挙で政権が動かない また腐敗が起こる』の悪循環を政権交代で改革実現 !―
1993年7月、総選挙に臨む基本姿勢について、石田委員長は「自民党の一党支配の下で、『政治腐敗が起こる 改革が叫ばれる 改革が実現しない 選挙で政権が動かない また腐敗が起こる』というような“悪循環”が何度となく繰り返され、今まさに政治不信はその極に達している。
この『“悪循環”を繰り返してきた最大の原因』は、“自民党に代わる政権の受け皿がなかった”ということであると思う」と日本プレスセンターで発言しました。
さらに、「政治を刷新して、緊張感を持たせる、また、政・官・財の癒着を断ち切るには、どうしても二つの問題が重要になってくる。
1つは“政権交代のシステム”であり、もう1つは“抜本的政治改革”だ」と主張しました。
1993年7月、細川政権が誕生した頃は、次のように述べていました。
「戦後政治史を画する歴史的な非自民連立政権がついに樹立される。
“自民一党支配打破と政権交代の実現は、公明党にとって悲願の結実”といえる。
大枠社・公・民を軸とする野党連合政権を1回目の挑戦とすれば、今回が2回目の試みだった。
昨年11月の党大会で、自民党に代わる『新しい政権の軸』づくりを提唱して以来、政界に政権交代の大きなうねりを巻き起こしてきた」
非自民連立政権樹立前後、「“自民党の長期一党支配が日本の政治腐敗を生んだ”のだ。野党の無気力も同時に生まれている。
これを壊したい。壊して“政権交代のある新しい日本の政治”を生み出したい」と公明党は、主張していました。
多くの野党が連立することに対する、自民党側からの「野合」批判については、公明党は、次のように述べていました。
「『政権の担い手が代わる』ということが今回の選挙の大きなポイントです。ですから、従来の政党同士の行き掛かり上の多少の違いとかがあっても、そこは乗り越えて、とにかく自民党の長期一党支配を崩して、『非自民』の政権をつくることが大きなことだと思います。
“権力の担い手が代われば、政治は大きく変わる”ということです」
また、腐敗防止について、「私どもも腐敗防止を絶対やらなければいけない。これは政治とカネの問題、腐敗の問題をどうするかというのが一番、政治改革の核心ですから、これ(腐敗防止)が中心だと考えております」と公明党は訴えていました
(1998年まで、この政権交代を目指す路線を続け、
自民党・マスコミから昭和32年の大阪事件以来、
迫害・誹謗中傷をうけていました。
公明新聞1993年7月6日号3面)。
(2)政権を選択できる、二大政党制をつくりたい !
(浜四津敏子代表):
日本が構造改革のできない行き詰ったシステムになったのは、自民党一党支配の政治できたからです。
これを脱却し、健全で成熟した民主主義を発展させるには、一党だけが長期に政権を握り続ける体制は好ましくありません。
つまり、国民が政策・政治姿勢を判断し、「今回は、こちらの政権に日本の政治を任せてみよう」という、政権を選択できる二大政権政党もしくは二大政権勢力が日本に存在することが、中長期的に好ましいと思います(浜四津敏子代表「公明新聞1998年8月16日号1面」)。
U 公明党変節の引き金・新進党解党と自民党の巧妙な政治謀略 !
(1) 魚住説:暴力団との密会ビデオ問題
@ 権藤恒夫氏(公明党系)の苦悩
小沢一郎の側近、平野貞夫(当時新進党参院議員)が友人の権藤恒夫から「会いたい」と連絡を受けたのは、橋本政権が発足してまもない1996年(平成8年)3月6日のことだった。
権藤は、旧公明党時代に国対委員長として活躍した新進党の現職代議士である。平野はすぐ議員会館の権藤の事務所に向かった。
部屋に入ると、深刻な顔をした権藤が、口を開いた。
「野中さんが会いたいというので久しぶりに会ったんだが、とんでもない話だった。「公明」代表の藤井富雄さんが、暴力団の後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。そのテープを自民党側に届けた者がいるということなんだが・・・・・」
藤井は、創価学会名誉会長・池田大作の側近といわれる東京都議で、後に野中とともに自公連立の牽引車となる人物である。
当時は、新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる「公明」代表をつとめていた。
その藤井が山口組きっての武闘派として知られる後藤組(本拠・静岡県富士宮市)の組長・後藤忠政と密会している場面を隠し撮りした、ビデオテープがあるというのである。「脅かされているので妥協したいということなのですか?」
平野の問いに権藤が答えた。「ことは暴力団がからんだ問題だ。創価学会も気にしているから放っておけない。このままだと公明系(の新進党議員)がもたなくなるので、何かいい知恵はないだろうか」
A 亀井静香付きSP
住専国会で新進党切り崩しの材料になった「密会ビデオ」。その存在が永田町の一部で密かに取りざたされるようになったのは、これより3ヶ月前の1995年(平成7年)12月ごろのことである。
当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香が「命を狙われている」という噂が流れた。
まもなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井静香の車は、つねに警視庁の警備車両2台にはさまれて移動する騒ぎになった。
B 野中広務氏の大仕事
「でもこの会議のころ、野中さんはビデオの件にはコミットしていません。逆に「野中にはバレないように気をつけろ。何をされるかわからないから」という話でした。ところがしばらくして村上が「えらいことだ。野中に嗅ぎつけられた」と騒ぎ出した。
事情は詳しくわかりませんが、野中さん、亀井さんに「見たでえ」と言ったらしいんです。それからずいぶんたって村上が「野中が一仕事したみたいだな」と言っていました。
「何ですか」と尋ねたら「あのビデオで(信濃町)をやったみたいだぞ」という返事でした。
その頃の野中広務は、亀井静香とともに反創価学会の急先鋒だった。
細川政権時代の1993年秋、国会で共産党議長・宮本顕治宅の盗聴事件(70年)を取り上げ「通信を所管する現職大臣が関与していたのではないか」と郵政相の神埼武法(公明党)を追求した。
さらに、「公明党は選挙のたびに全国の学会施設や電話をただで使っているのではないか」と具体的な証拠を挙げながら公明党と創価学会の「政教一致」を突いた。
1995年秋の国会で、創価学会にかかわる宗教法人法改正が行われたのも、もとはといえば自治相・国家公安委員長の野中広務が「オウム事件の捜査が、宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言い出したためだった[1]。
★創価学会本部に集まる右翼街宣カー問題
@公明党変節の引き金させる手・静穏保持法の効果
1988年に成立した静穏保持法は、国会周辺と外国公館および政党事務所周辺での拡声器使用を規制する法律である。
地域の静穏が著しく侵害されていると警察が判断すれば検挙でき、違反者には6月以下の懲役か20万以下の罰金が科される。要するに右翼団体などによる街宣活動を規制するためのものだ。
当時、衆院事務局の委員部副部長だった平野貞夫によれば、1988年に自民党が静穏保持法を成立させたのは、公明党を消費税法案の審議に協力させるためだった。
平野は学会・公明党側から取引の相談を持ちかけられて「いいでしょう」と返答した。消費税法案は絶対に通すべきだという信念があったからだ。
静穏保持法が制定されて以来、それまで学会本部や池田の私邸でしばしば行われていた右翼の街宣活動はピタリと止んだ。本部も私邸も「政党事務所」である公明党本部の周辺規制区域内にあるからだ。
A 日本の政治改革より、創価学会の静穏が大事・
党利党略・名聞名利・私利私欲・優先・公明党の弱み・本質を調査 !
政党事務所の法律上の要件は「衆議院議員または参議院議員が所属する」ことである。もし、公明党が、新進党に全面合流してしまえば、信濃町から「政党事務所」が消え、再び池田は、右翼の街宣カーに悩まされることになる。
創価学会幹部・岡本によれば、このころすでに野中は京都の東山山麓にある「高台寺和久傳」で学会副会長の西口と何度も会談を重ねていた。その西口を通じて静穏保持法に関する情報が学会中枢に入り、藤井と小沢の間で進められていた合流話に「ストップ」がかかったというのである。
B 中選挙区制と静穏保持法を使った切り崩し工作
ところが96年春の住専国会から野中広務らの新進党切り崩し工作が本格化した。
平野貞夫によれば、野中は、旧公明党の衆院議員らに「都市部を中選挙区(3人区)に戻して当選しやすいようにするから、公明党を復活させないか」とさかんに働きかけてきたという。
一方、小沢一郎は官房長官の梶山静六と会合を重ね、新進党と自民党の改革派が連携する「保・保連合」実現に向けて話し合いを進めた。旧公明党議員たちでつくる「公友会」グループにはこの保・保連合に反発する議員も多く、代表幹事の神埼武法を中心に反小沢の動きが強まっていた。
C 自民党に対峙する新進党より
学会守護・静穏保持法を重視した公明 !
旧公明党議員の新進党への全面合流に向けて、小沢・藤井会談がはじまったのは、ちょうどそのころである。
会談で、全面合流のネックになったのは静穏保持法だった。
その問題が解決するまでとりあえず11人のうち3人を先行合流させることになった。
並行して翌1998年夏に行われる参院選の比例区候補の調整問題が話し合われたが、上位の当選圏内に公明党系議員を何人入れるかで話し合いがこじれた。
それに嫌気がさした小沢一朗は、ついに、「衆院議員だけを新進党に残して、参院は、公明党を復活させたらどうか」と提案した。平野貞夫がいう。
「向こうがそれで困っちゃった。
というのは、比例区は、公明独自でやるより新進党でやったほうが、確実に票が稼げるから(学界側は新進党に全面)合流したいわけです。で、私が創価学会の野崎勲副会長と何度も話し合った。
党本部がなくても在外公館に該当するものが信濃町にあればいいから、それがないかどうか調べたけど、結局、ないということがわかった。
それで公明に静穏保持法をとるか、新進党に残って票を稼ぐほうをとるかの判断を任せることにした。
公明党・向こうが出した結論は「静穏保持法」だったんです」
と著書に記している[2]。
[1] 魚住昭『差別と権力』講談社2004年、283〜286頁。
[2] 魚住昭『差別と権力』講談社2004年、300〜303頁。
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