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こうして北方領土交渉は終わった
1993年、この年のG7・サミットの議長国は日本だった。議長国であり最大の資金源でもある日本が首を縦に振らなければ350億ドル以上と言われる経済支援は実現しない。しかもロシアは、西側の経済支援がなければ国を存続することさえできないのだ。日本は、「政経不可分」の原則を切り札にして、北方領土交渉最大のヤマ場になる東京サミットに臨む(外務省幹部)はずだった。
4月14,15日東京で開かれるG7外相・蔵相会議を前に4月3、4日カナダ・バンクーバーで米ロ首脳会談が行われた。ここでクリントンはエリツィンに、日本に積極的な対ロ支援をさせることを保証した。これで北方領土交渉の形勢が逆転。それまでの、北方4島を返さなければ友好関係などありえないという強硬姿勢から一転、ここから日本は、現在まで続く対ロ弱腰・屈辱外交を強いられることになる。
自民党・宮沢政権は突然、戦後堅持してきた『政経不可分』の原則を放棄、『政経分離』を宣言する。
4月13日武藤外相が、領土とは別に支援と明言。
4月14日宮沢首相が18億ドルの対ロ2国間支援を表明。
4月19日小和田外務事務次官「今までのように『政経不可分』という言葉を使い続けることは誤解を招く」と指摘。
4月21日政府は事実上『政経分離』へ解釈を統一することを決定。
会談後、クリントンがエリツィンに日本人のイエスは要注意と忠告したメモが発見された。ステファノポロス大統領主席報道官は「日本人を信用するなというメモについて知っていることは」と記者団から追及され「全くの誤解」で「日本人の礼儀とエチケットについてちょっと注釈を加えただけだ」と必死に応対した。
7月東京でサミットが開催された。積極的に経済支援を行うべきだと迫る西側各国に対して日本は孤立した。各国がロシア支援に積極的だったのには理由がある。日本だけが有名無実のココムに縛られる中、各国はゴルバチョフ前政権の時代から積極的に企業が進出していたからだ(シェブロン社、イーストマン・コダック社、ジョンソン&ジョンソン社、ナビスコ社、アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド社)。自国の企業を救済するために日本に金だけ出させようとしたのだ。結局日本は、ロシアと西側各国に金を巻き上げられただけで『北方領土』ひとこと『政治宣言』に入れることができなかった。クリントンの忠告を忠実に守ったエリツィンは一島も返すことなく、議長国日本がまとめた434億ドルの経済支援を手に入れた。しかもエリツィンが感謝したのは、7か国中最大の資金貢献をした日本ではなく、渋る日本を動かしたアメリカだった。
この年の12月、それまで領土返還交渉を主導してきたクナーゼ外務次官が更迭され、専門外の韓国へ大使として転出した。
クナーゼは90年9月、ゴルバチョフ政権のシンクタンクIMEOの日本部長として「歯舞・色丹の返還を約束した共同宣言を速やかに実行すべき」と提言。
エリツィン政権の誕生と共に外務次官に抜擢された。
91年9月25〜27日択捉、色丹、国後の各島を訪問。「ロシア外務省は共和国市民の死活的利益を考慮する必要があると同時に、日ロ関係の客観的現実にも導かれねばならない」とロシア外務省の姿勢を住民に説明。色丹島では「色丹、歯舞の2島返還の可能性が排除されているわけではない」と慎重な言い回しで2島返還の可能性にも言及した。
91年10月2日『モスクワニュース』紙に「1956年に約束した島を日本に返還すべき時が来た」とコーズィレフ外相の名で寄稿し、領土返還への世論作りを始めた。
人民代議員大会では、北方領土問題で妥協的な姿勢を取る必要があると文書で代議員たちに訴えた。
領土返還につながる明るいニュースはすべてクナーゼからもたらされてきたのだ(そのあとに必ず地元や保守派が反発しているという情報もくっ付いてはいたが)。しかし領土返還によるメリットがなくなるとクナーゼが外務次官に留まる理由もなくなった。そこで北方領土交渉に関与できない韓国大使に島流しにされたのだ。
93年末にはエリツィン政権による領土交渉は終わっていたのだ。もっと正確に言えば東京サミット直後には終わっていた。ロシアはコーズィレフ外相が92年3月に来日したとき「二島先行返還」を提案している。しかし東京サミット後の93年10月エリツィンが来日したときには、これが秘密提案だったため提案自体がなかったことにされてしまっていた。もうこの頃には、現在まで続く、返す気もない形だけの交渉に変わっていたのだ。
ロシアにとって北方領土問題は、クリントンが介入する前は、国を存続させるためにも避けては通れない問題だった。それが、東京サミットで大規模な経済支援が決まっただけでなく、その後の経済協力も領土問題とは絡めないと日本政府が表明したことで領土問題という障害は完全に取り除かれたかたちとなった。その後の交渉は、日本政府の顔を立てて儀礼的に付き合っているにすぎないのだ。
日本人の「イエス」要注意 ロ支援で米大統領忠告
米政府は「誤解」と否定
【ワシントン93年4月5日共同】
米政府は5日、クリントン米大統領がエリツィン・ロシア大統領との会談で、日本人のイエスは要注意と忠告したと報じられ、大きな反響を呼んだことに戸惑いを見せ、誤解解消に追われた。
定例会見で記者団の関心はクリントン発言に集中。バウチャー国務省報道官は、クリストファー国務長官が小和田外務事務次官に電話をかけ、どのようなやり取りの中で出てきたクリントン発言なのかを説明し、日本側に理解を求めたことを明らかにした。
ステファノポロス大統領主席報道官も「日本人を信用するなというメモについて知っていることは」と記者団から追求され「全くの誤解」で「日本人の礼儀とエチケットについてちょっと注釈を加えただけだ」と必死に応対した。
両報道官とも、クリントン大統領が@北方領土に関する日本の立場を米政府は支持するA対ロ支援で日本の積極的な取り組みを保証したーことが首脳会談での日本に関する会話の全体的な趣旨だったと改めて強調した。
クリントン大統領はエリツィン大統領に対し、多国間または先進7カ国による2国間の対ロ支援拡大で努力する意向を表明しているが、最大の資金源と目されているのは日本。このためイエス・ノー発言だけが取り上げられ、日米関係や対ロ支援に影響が出ることは本意ではない、との判断が米政府にあるとみられる。
首脳会談のメモに記載 地元テレビが報道
【バンクーバー共同】
問題となっているクリントン米大統領の日本人に関する発言報道は、米ロ首脳会談が開かれたバンクーバーの地元テレビUTVが4日報じた。
同報道によると、クリントン米大統領はエリツィン・ロシア大統領との3日夜の第2回首脳会談の席上「日本人がイエスという時はしばしばノーを意味する。大切なことは日本人にあなた方との関係でそのようにふるまわせないことだ」と忠告した、という。
この発言はUTVのリー・マロー記者が、会談が終わった後、会場のレストランのテーブルで見つけたロシア語のメモの中に記載されていたという。
同記者によると、メモの書き手は夕食を挟んで行われた会談のロシア側出席者とみられ、エリツィン大統領のロシア語演説原稿の裏に鉛筆でびっしりと書き込まれていた。
【ロシアが、北方領土「二島先行返還」を秘密提案】
ソ連が崩壊し新生ロシアとなった直後の92年3月、コーズィレフ外相が初来日し、外務省の飯倉公館で渡辺美智雄外相と会談した。日本側は、渡辺外相のほか、外務省の小和田恒事務次官、斉藤邦彦外務審議官、兵藤長雄欧亜局長らが出席した。この外相会談で、ソ連側が北方領土問題での秘密提案をしていたことがわかった。1・日ロ平和条約を締結して歯舞、色丹の二島を日本に返還する。2・国後、択捉の二島については平和条約締結後も協議を継続するとの「二島先行返還」案を秘密提案した。日本側は対応を検討し、提案を受け入れる前提として、「国後、択捉の将来の引き渡しが確約されないと条約は締結できない」と主張した為、交渉は決裂に終わった。複数の日ロ外交筋が明かした。
当時、ロシア外務省の一部には将来の四島返還に前向きな意見もあった。日本側は秘密提案を受け、「国後、択捉を日本の領土と確認し、何年か後に還してもらうことが可能だと思った」(日本外務省高官)という。
しかし、その後ロシア国内の政情が不安定になり、エリツィン大統領の政権基盤が弱まったことなどから、交渉は難航。93年秋に大統領の来日が実現したときには、すでに提案をめぐる交渉は決裂していた。
ソ連政府は、「二島引き渡し」を明示した56年の日ソ共同宣言の後、冷戦を背景に領土問題の存在すら認めなくなった。が、ロシア政府は冷戦終結を受けて西側諸国との新たな関係を模索。対日関係でも従来の方針を転換し、譲歩できる限界の妥協点として秘密提案を示した。提案は、交渉が実らなかったため、「存在しなかったことになっている」(日ロ外交筋)という。(2002.5.21日付け朝日コム参照) http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_54.htm
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