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伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会いたいと思われて、後を追って黄泉の国に行かれ、殯斂(もがり)のところにおいでになった。
伊弉冉尊は御殿の戸を上げ出で向かい、生きていたときのように出迎えられて共に語りあわれた。
伊奘諾尊は仰せられた。
「あなたが愛しくてやってきた。愛しいわが妻のみことよ、私とあなたとで造った国は、まだ造り終えていない。だから私のもとへ帰ってきておくれ」
伊弉冉尊が答えて仰せになった。
「残念なことです、わが夫のみこと。いらっしゃるのが何とも遅すぎました。私はもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。そして私はもう眠ろうとするところです。けれども愛しいあなたが、わざわざ訪ねてきてくださったことは恐れいります。ですから帰りたいと思いますので、しばらく黄泉の神と相談してみましょう。私を見ないでください」
こうおっしゃって女神は、その御殿の中に入っていかれたが、その間が大変長く、男神は待ちきれなくなってしまった。
伊奘諾尊は見てはならないという願いを聞かれなかった。そのとき暗かったので、左の御髻(みずら)に挿していた湯津爪櫛(神聖な爪櫛)の、太い歯の一本を折り取って、手灯として一片の火をともしてご覧になった。
今の世の人が、夜ひとつの火をともすことを忌み、また夜、櫛を投げることを忌むのは、これがその由来である。
伊弉冉尊は、死体がふくれ上がって蛆がたかっていた。
その上に八種類の雷があった。
頭には大雷(おおいかずち)、胸には火雷(ほのいかずち)がおり、腹には黒雷(くろいかずち)がおり、陰部には列雷(さくいかずち)がおり、左手には稚雷(わかいかずち)がおり、右手には土雷(つちいかずち)がおり、左足には鳴雷(なきいかずち)がおり、右足には伏雷(ふしいかずち)がいた。
伊奘諾尊はたいへん驚いて仰せられた。
「私は思いがけないひどく汚い国にやってきた」
そうして、急いで逃げ帰られました。
伊弉冉尊は恨んで仰せられた。
「約束を守らず、私を辱しめましたね。あなたは私の本当の姿を見てしまわれた。私もまた、あなたの本当の心を見ました」
伊奘諾尊は恥じられて、出て帰ろうとするとき、ただ黙って帰らないで誓って仰せになった。
「縁を切ろう」
伊弉冉尊は泉津醜女(よもつしこめ)を遣わして、追いかけさせて留めようとした。
伊奘諾尊は剣を抜いて後ろを振り払いながら逃げた。そして髪に巻いていた鬘草(かつら)の飾りを投げられると、これは葡萄になった。醜女はこれを見て、採って食べた。食べ終わると、また追いかけてきた。
伊奘諾尊はまた、右の髪に挿していた湯津爪櫛を投げた。これは筍(たけのこ)になった。醜女はそれを抜いて食べた。食べ終わるとまた追いかけてきた。
伊奘諾尊はそこから逃げられたが、その後には、八種の雷神が千五百の黄泉の兵を率いて追跡してきた。そこで帯びている十握の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げ走られた。
伊奘諾尊は、大樹にむかって放尿された。これが大きな川となった。泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡ろうとする間に、伊奘諾尊は逃げて黄泉平坂(よもつひらさか)に着かれた。
そこに生っていた桃の木の陰に隠れて、その実を三つ取って待ちうけ、投げつけたところ、黄泉の雷の兵はことごとく退散した。これが、桃を使って鬼を防ぐ由来である。
伊奘諾尊は、桃の実に詔して仰せられた。
「お前が私を助けたように、葦原の中国に生きるあらゆる現世の人々がつらい目にあって、憂い苦しんでいるときに助けてやるように」
そういわれて、意富迦牟都美命(おおかむつみのみこと)という名前をお与えになった。
最後に、伊弉冉尊自身が、泉都平坂(よもつひらさか)へ追いかけて来たときに、伊奘諾尊はその杖を投げて仰せられた。
「ここからこちらへは、雷の兵は来ることができない」
伊奘諾尊はまた、泉津平坂に千人引きの岩で、その坂道をふさぎ、岩を間に置いて伊弉冉尊と向かい合って、ついに離婚の誓いを立てられた。
その離別の言葉を交わされるとき、伊弉冉尊は誓って仰せられた。
「あなたには負けません」
そして唾をはかれた。そのとき生じた神を、名づけて日速玉之男神(ひはやたまのおのかみ)という。次に、掃きはらって生まれた神を泉津事解之男神(よもつことさかのおのかみ)と名づけた。
伊弉冉尊が仰せられた。
「愛しいわが夫のみこと、あなたがそのように別れの誓いをいわれるのならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ絞め殺しましょう」
伊奘諾尊は答えて仰せられた。
「愛しいわが妻よ、そのようにいうのならば、私は一日に千五百人ずつ生ませることにしよう」
こういうわけで、一日に千人の人が必ず死ぬ一方、一日に千五百人の人が必ず生まれるのである。
伊奘諾尊がこれによって仰せられた。
「これより入ってはならぬ」
そうして、三柱の神をお生みになった。その杖を投げられた。これを岐神(ふなとのかみ)という。名づけて来名戸神(くなとのかみ)という。
また、その帯を投げられた。これを長道磐神(ながちいわのかみ)という。
また、その履(くつ)を投げられた。これを道敷神(ちしきのかみ)という[または煩神(わずらいのかみ)といい、または開歯神(あきくいのかみ)という]。
伊弉冉尊を、黄泉津大神という。また、伊奘諾尊に追いついてきたので、道敷大神(ちしきのおおかみ)と呼ぶ。
また、その黄泉の坂を塞ぐ岩を、道反大神(ちがえしのおおかみ)と呼ぶ。また、塞いでいる岩を、泉門塞之大神(よみどもさやりますおおかみ)という。また、塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)という。
伊奘諾・伊弉冉の二神が、また、その妻と泉津平坂で相争ったとき、伊奘諾尊が仰せになった。
「はじめあなたのことを悲しみ慕ったのは、私の気が弱かったからだ」
このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申しあげていった。
「伊弉冉尊からのご伝言があります。“私はあなたと既に国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私は、この国にとどまって、ご一緒には参りません”といわれました」
このとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)もまた、申しあげることがあった。
伊奘諾尊は、これをお聞きになり、ほめられた。そうして去られた。
今の人が忌むことに、先に妻が死んだとき、夫が殯(もがり)のところを避けるのは、これが始まりであろうか。
そのいわゆる泉津平坂というのは、また別のところにあるのではない。ただ死に臨んで息絶えそうなときをこういうのであろうか。出雲国の伊賊夜坂(いふやさか)であるともいう。
伊弉冉尊は、出雲国と伯耆国との境にある、比婆之山(ひばのやま)に葬った。
伊弉冉尊は、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神の御魂を祀るのには、花の時期に花をもってお祀りし、鼓・笛・旗を使って歌舞してお祀りする。
http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/yaku/inyou.html
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