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サンカ
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1628.html
投稿者 島唄 日時 2011 年 5 月 10 日 16:03:18: ZW97PFZHjT5Lg
 

日本の歴史を背景にした「サンカ」である筈はなく、あの男の顔は大和民族では有り得ず、あの軽薄さといい加減さは半島特有。
http://www.asyura2.com/0505/senkyo11/msg/283.html
投稿者 救国の草莽の志士 日時 2005 年 8 月 10 日 16:16:10:

現代日本とサンカ
http://www.asyura2.com/07/social4/msg/373.html
投稿者 野田隼人 日時 2007 年 5 月 13 日 16:54:33

【八切史観】天皇とサンカの関係・アラブ世界とユダヤ、日本との関係 (日本には3名の「天皇」がいる)
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/567.html
投稿者 ジオン兵士 日時 2004 年 2 月 05 日 10:05:00:

“鬼とは何か‥‥天領と部落”
http://www.asyura2.com/0601/test12/msg/489.html
投稿者 あー、もとサンカところて…ん偽皇太子コーヒー噴いた 日時 2006 年 9 月 19 日 06:52:52

サムライさんから出口王仁三郎がサンカではなかったかという話が出てきた。

何度かは話題にしたことがあるが、このサンカの存在すら知らない人が多いと思う。また、本当のところを誰も明らかにしていない。「漂浪の民、サンカ」、と聞いた時にはなぜか大きなロマンを感じ、ネットや本でそれらを探したものである。結局、一番真実に近いと思えたのは八切止夫氏だった。

彼は名古屋出身で、しかも住んでいたのが中心部、中区の本重町だった。彼はなんと、サンカに預けられて育ったのだと言う。主に、庄内川などの堤防沿いで暮らし、川で魚をつり、竹篭などを売り歩き生活をしていたのだとか。

いったい彼等が発生した原点とはなんだったのか。八切氏によれば、百済が日本を支配した時、原住民やそれまでの支配者である新羅の人民は時の政府に服従することを拒否し、山へ逃れ、自由な生活を営むようになったと言う。従って、サンカの発生はおおむね7世紀あたりという事になる。

現代では部落問題のタブーと同一視され、大きな誤解をまねいているが、一番大きな違いは、サンカの人間には戸籍がないことに尽きる。明治政府は徴兵制と税金の徴収のため、国民全員に戸籍を作ることにした。江戸末期まで弾左エ門配下のエタたちは戸籍に入っていなかった。政府は彼等にまともな戸籍を与える代わりに、彼等の独占的な職業特権を取り上げることにした。

この話はとても難しいのでこれ以上ここでは取り上げない。しかし、それでも戸籍に入ることを拒み、山や川で生活していた人民は相当な数に上ったはずだ。この時以降、サンカは不法無国籍人間になったのである。

サンカ小説といえば三角寛が有名だ。しかし、彼はサンカの実態を知りながら、真実を偽っていた。明治政府になって以降、警察を発足させたものの、犯罪の検挙率は低迷し、世論では警察を非難する声が高まっていた。こまった警察は、犯罪が起こるたびにサンカを検挙し、冤罪事件をでっち上げた。

そのために警察官としてサンカを調べていた三角がサンカをいかにも犯罪組織だったように書き上げたのだ。

さて、日本の歴史の中ですっぽり抜け落ちているこのサンカだが、八切さんによればシノガラという全国組織があるという。その親分は「大元さま」と呼ばれる。裏の天皇だと言う。

スイス銀行の個人口座には日本人の大口口座が三つあると言う。一つは天皇、そしてもう一つは某法華経宗教団体の代表、そして最後に大元様だという。

その組織は私の推測だが、高句麗出身者が多数を占めているはずだ。日本の支配階級はほとんどが百済と唐の出身で、一番多数を占める高句麗人は歴史からまったく抹殺されてしまった。私の知る限りでは秀吉、家康はサンカもしくはサンカ系である。二人は小牧・長久手の戦いで戦いながらお互いが同じ戦法を使うことに気付き仲間だった事を知った。だからそれ以降二度と戦う事をやめたのだ。

もう一人、利休だ。彼は信長の国家統一に協力するため全国のシノガラに声をかけた。なんと言っても竹製品を売るためには支配者に接近しなければいけない。利休は茶せんで大儲け、そして土師師の作る陶器で仲間の暮らしを応援した。

利休が秀吉に殺されたのは秀吉の出自を知りすぎていたからだろう。利休はシノガラを代表し秀吉にサンカへの援助を要請した。関白になり、天皇に成り代わろうとする秀吉がサンカとばれたら一大事。ということで、利休は殺された。

首相でシノガラだった人がいると聞く。私は疑問に思うが、そうなのかもしれない、公共投資は彼等を大いに潤すからだ。その点、小泉は正反対だな・・・・。

普通の人間として生きて行きたい人は多かった。シノガラ三代というのはシノガラから一般人に紛れ込み上納金を免除される(つまり縁をきるには)のに三代かかると言う意味である。

中には一部上場会社の社長になったものもいる。彼等はシノガラだったことを隠し、戸籍をごまかし上流社会に溶け込もうとする、しかし、大元様は上納金を要求する。その要求を拒むと総会屋を使い徹底的に攻撃を始める。総会屋というのはサンカと一体だと言える。

**の社長誘拐事件、**製菓の毒イリ事件、これは間違いなくサンカの事件だった。上納を断ったがために落とし前を付けたのだ。間違いなく身代金は払われている。警察でもこの事件は追及することはできないのだ。この被害にあった会社を調べればわかることで、佐賀県出身である。(二人は同僚だった。)

いまでもシノガラは表面にはでないが、絶大な力があると言われている。それを取り締まれないのは彼等が真実の歴史を知っているからで、現支配者階級の急所を握っているという事だ。さらに言うなら、今の政府が躍起になって戦っているのは、実はこの勢力なのだと考えると意外と世の中が見えてこないか?

私の研究している日本の歴史はまったく違うアプローチなのだが、最終的に登る道が違っていても到着する場所は同じところだ。そこへ到達すれば、部落問題の本質も、サンカの発生の歴史も、そして日本の成立の真実もはっきりするはずだ。根っこはわかっている、後はそれを展開して行くだけなのだ。

http://mayo.blogzine.jp/blog/cat6203655/  

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コメント
 
02. 2011年5月11日 21:53:35: sfZyaaE1PA
さて、昨日の小説を書くために一週間ほど下調べが必要だった。本当に時代小説を書く作家の人たちは大変なのだろうと感心する。しかし、私の小説はエッセンスであり、肉付けをすることでいくらでも量を増やす事が出来るのである。例えば天海と家康が江戸を出発し、熱海に行くまでで5枚にしろといわれれば、それはもちろん可能である。単に私がずぼらな事と、謎解きが主であるため、読者をじらさないために単純化してあるのと、単に私がせっかちなだけである。

昨日、秀吉が皇位継承に口を出したと書いたが(これは私の憶測であります。)、同じ様に信長も重大なミスを犯している。いくつかの理由で朝廷が信長を暗殺したと私は考えているが、ひとつはやはり秀吉と同じ様に皇位継承に干渉したことと思われる。

それは正親町天皇が在位しているにもかかわらずその子、誠仁親王を「今上皇帝」として、信長もそして家中の者にも徹底したのである。もちろん信長が鉄砲を融通してもらうため、キリシタンと親しく付き合っていることも許しがたい事だった。しかし、やはり信長は朝廷の力を侮っていたのである。天皇は自分のお庭番である光秀、家康と打ち合わせをし、丹波衆を中心とする光秀に暗殺を命じたのである。結局信長は足利幕府をつぶした時点で用済みだったという事だ。

秀吉は鉢屋というサンカの親分であり、毛利とは通じていたのである。おそらく信長の下にスパイとして送り込まれていたやはりサンカの千利休から、朝廷の意向の連絡は受けていたはずである。

秀吉が天下を取り、その後、後陽成天皇が即位する。後陽成天皇は秀吉の子供(養子といわれるが・・・)である智仁親王のために宮家を創設し(八条宮(桂宮)家や清華の広幡家となる)、順調に行けば彼が次の天皇になった可能性が大きいのである。
wiki によれば、そこのところを「関ヶ原の戦い直後、後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えた。そこで、時の天下人である徳川家康に譲位の旨を打診したが、家康は智仁親王が秀吉の猶子であることから反対した。そして結局、皇位は慶長16年(1611年)に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなったのである。」となっているが、じつは家康は天皇のお庭番だったからこれはあり得ない話で、真実は後陽成は皇位を智仁親王に譲りたくないから豊臣政権を終らせたと考えるのである。ただし、秀吉の子供が天皇になる資格はあったのではないか、あるいは関白になれた以上、正史に伝えられている秀吉の出自が間違っていると考えるのは当然である。つまり、秀吉の実母、あるいは実父がそれなりの人だったと私は考えるのである。

天皇家が当時、まったく無力で貧乏だったと正史は伝えているが、それを真に受けてはいけない。太古から現在に到るまで、天皇家は影のお庭番を使って自由自在に武家を動かし、影の実力者として君臨していたのである。
このような歴史観を持つ人は少ないだろうけど、万世一系という以上、それらに対抗する勢力を排除してきた実力があったのである。

「タカス」を調べていて、知らないうちに水戸家を調べることになり、そしたら徳川家には徳川慶喜家と徳川宗家があることがわかった。一般的に見るなら仲がいいとは思われない。また、お万の方の出自はなんと桓武平氏の血流のようであることもわかった。これも意外であった。
徳川は過去の研究で、源氏もしくは新田系だと考えている。しかし、家康はそれを承知の上で平氏系の家系に水戸家を与えたのだ。そして、徳川家と朝廷が争うことがあったら水戸家は迷うことなく朝廷のために働けと遺言したという。これは不思議なことである。

徳川家の血流は何度も変わっている。家康の血は家光の頃に入れ替わり、そして吉宗の時、紀州へ移り、それから何度も移った結果、最後は水戸家で終わった。細かいことは私にはわからない。ただ、客観的に見るなら、紀州には恨みが残ったのではないかという事である。

秩父宮妃や高松宮妃はいずれも水戸人脈であり、慶喜系と言えよう。私の推論では水戸家はお庭番の役割を担っており、幕末の外圧の中、大政奉還をするために動き出したように見える。もちろん八百長である。それに抵抗したのが井伊大老だろう。調べればわかることだが、松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により 安政5年(1858年)4月23日、直弼は江戸幕府の大老に就任したのである。

さあ、ここに大きな対立軸が見出せる。私が探しているのはこのような対立軸で、日本の支配者層がどのように分断されたのかを調べることである。源氏や平家、北と南、仏教と神道、紀州と水戸・・・・いくらでもでてくる。
しかし、その中で亡びる寸前、白い布に身を託し、きわどく生き残り、最後に天下を握った「お万」の血はもう少し調べていかねばなるまい。
お万が家康に見初められるあたりの事情を知りたいな。他にもたくさん調べることがある。わかるといいのだが・・・。
ところで、よくよく考えてみると、紀州藩のそもそも始まりは家康の10男頼宣で、よく考えたらこれはお万の子供じゃん。つまり、系図が正しいとすればほぼ全部お万から出てる?えー?その割にはあまり知られてないな。不思議だ・・・・・ぶつぶつぶつ・・・・。

http://sibanokuni.exblog.jp/i3/2/


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