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沖縄県知事選:現職の玉城デニー氏,2回目の当選 !
2022年9月12日
現職と新人の3人による争いとなった沖縄県知事選挙は11日投票が行われ、アメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設反対などを訴えた現職の玉城デニー氏が2回目の当選を果たしました。
沖縄県知事選挙の開票結果です。
玉城デニー、無所属・現。当選。33万9767票。
佐喜真淳、無所属・新。27万4844票。
下地幹郎、無所属・新。5万3677票。
立憲民主党、共産党、れいわ新選組、社民党、地域政党の沖縄社会大衆党が推薦した現職の玉城氏が、自民・公明両党が推薦した元宜野湾市長の佐喜真氏らを抑えて2回目の当選を果たしました。
玉城氏は、沖縄県うるま市出身の62歳。
タレントとして活動したあと、沖縄市議会議員や衆議院議員を経て、4年前の沖縄県知事選挙で初当選しました。
玉城氏は選挙戦で、アメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設反対や子どもの貧困対策などに取り組んだ実績を訴えました。
その結果、立憲民主党や共産党などの支持層を固めたほか、いわゆる無党派層の支持も集めました。
投票率は過去2番目の低さ
沖縄県選挙管理委員会によりますと、沖縄県知事選挙の確定投票率は57.92%で、前回・4年前の選挙と比べて5.32ポイント低くなり、過去2番目の低さとなりました。
沖縄県知事選挙で投票率が最も高かったのは、昭和51年の82.07%で、平成2年の選挙までは70%台から80%台で推移してきました。
しかし、平成14年の選挙で57.22%とこれまでで最も低い投票率となり、それ以降は前回まで4回連続で60%台となっています。
期日前投票者数 2回目の訂正
沖縄県選挙管理委員会は知事選挙の期日前投票を済ませた人の数を35万1942人と発表していましたが、12日の朝早くになって5人少ない35万1937人だったと訂正しました。
期日前投票者数の訂正は11日の午前に続き、2回目です。
玉城氏「県民の思いが1ミリもぶれていないという結果」
玉城氏は「本当に身に余る県民の皆様からの信頼と『これからも頼むぞ』という、その希望を託していただいたことに、改めて心から感謝を申し上げる。間違いなく今回は、辺野古の新基地建設は大きな争点だった。過去2回の知事選挙、県民投票の7割以上の反対の声、そして、今回の私の2期目の再選。県民の思いが1ミリもぶれていないという結果だと受け止めている」と述べました。
*玉城 デニー(たまき デニー、1959年〈昭和34年〉10月13日 - )は、日本の政治家、元タレント。沖縄県知事(公選第8代)。本名は玉城 康裕(たまき やすひろ)[2][3][4]。
衆議院議員(4期)、自由党幹事長兼国会対策委員長、沖縄市議会議員(1期)などを歴任した[5][6]。なお、知事業務上、法的効果を伴う行政文書には本名を使用している[7]。
来歴
米国統治下の沖縄、中頭郡与那城村(現・沖縄県うるま市)出身[8]。沖縄の米軍基地に駐留していた米兵の父と伊江島出身の母の間に生まれたアメラジアンである[9]。父の母国である米国に渡航することを前提に母親から「デニス(Dennis)」と名付けられるが、結局母は先に帰国した夫を追うことはなかった。小学校4年生のときに家庭裁判所に申し出て、「康裕(やすひろ)」に改名した。「デニー(Denny)」は子供の頃からの愛称であった[2]。母親は「基地特需」で沸く沖縄において、生活費を稼ぐために住み込みで働く。そのため玉城は10歳まで母親の友人宅に預けられ、そこで育った[10]。
与那城村教育区立与那城小学校、与勝事務組合立与勝第二中学校、沖縄県立前原高等学校、上智社会福祉専門学校(福祉主事任用課程)卒業[11]。福祉関係の臨時職員、インテリア内装業、音響関係の会社勤務などを経て、30歳のときにタレントとして独立。琉球放送ラジオ(現在のRBCiラジオ)の人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティや[12]、1998年7月にスタートした沖縄市エフエムコミュニティ放送の「OKINAWAミュージック・タペストリー」の総合プロデュースとパーソナリティ[13]、イベントの司会などを務めた。ラジオでは沖縄語を駆使し、高齢者から絶大な支持を受けた[14]。
2001年12月、周囲から翌年4月に控えた沖縄市長選挙[15]への立候補を促される。選挙も政治も何もわからなかった玉城は琉球放送の職員に相談したところ、嗅ぎ付けた新聞社に翌日の朝刊に「玉城デニー、沖縄市長選挙出馬へ」と記事にされてしまう。当時玉城は月曜日から金曜日まで朝8時半から11時までの帯番組「玉城デニーのすまいるスタジオ」を担当していたが、その日で番組を降りることになった。母親からは「人の口車に乗って馬鹿だね」と言われ、鬱々とした日々を送る[2]。
2002年5月に一念発起し、その年の9月の沖縄市議会議員選挙への立候補を決意[2]。史上最多得票でトップ当選を果たした[16]。2004年6月には下地幹郎らが旗揚げした政策集団「そうぞう」に参加した[17](後に「そうぞう」が政策集団から政党そうぞうに改組された際は参加せず)。
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