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小泉大臣、萩生田大臣が靖国神社参拝 ! 昨年に続き終戦の日に !
第二次大戦・日米戦争等の深層・真相は ?
(www.asahi.com:2021年8/15(日) 8:58)
朝日新聞:終戦の日の8月15日、小泉進次郎環境相と萩生田光一文部科学相、井上信治科学技術担当相が東京・九段北の靖国神社を参拝した。
菅内閣の閣僚では、13日に西村康稔経済再生相と岸信夫防衛相が参拝している。
一方、菅義偉首相は玉串料を納めたといい、首相周辺は「私人の立場で、私費で奉納と聞いてる」と説明している。
参拝後、記者団の取材に応じた萩生田大臣は、玉串料を私費で納め、「文部科学大臣、衆院議員、萩生田光一」と記帳したと説明。「先の大戦で尊い犠牲となられた先人の御霊に謹んで哀悼のまことを捧げ、改めて恒久平和への誓いをしてきた」と述べた。
小泉大臣は記者団の取材に応じなかった。萩生田大臣と小泉大臣は安倍内閣の閣僚だった昨年の終戦の日にも参拝している。
井上氏は記者団の取材に私費で玉串料を納め、「衆議院議員、井上信治と記帳した」と述べ、「しっかり平和を守っていくというお誓いをいたしました」と話した。
15日は鷲尾英一郎・外務副大臣も参拝し、記者団の取材に「個人としての参拝」と述べた。
靖国神社には太平洋戦争などの戦死者がまつられている。
戦争当時の指導者で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」とされた14人が合祀(ごうし)されており、中国や韓国などが閣僚の参拝を問題視している。
韓国外交省は15日、終戦記念日に菅義偉首相が靖国神社に玉串料を納め、菅内閣の閣僚が相次いで参拝したことについて、「深い失望と遺憾の意を表する」とのコメントを発表した。
同省は「日本の責任ある人々が、歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すべきだ」と主張した。そうした姿勢により、「未来志向的な韓日関係の構築や、周辺国の信頼を得ることができる」とした。
(参考資料)
T 第二次大戦・日中・日米戦争勃発の真相は、世界大恐慌後、英米の謀略だった !
副島隆彦・船井幸雄の主張:
国民党と中国共産党を和解させて、抗日統一戦線をつくらせ、日本を敗北させようとしたことは、世界大恐慌後、景気回復のため、世界大戦誘導を狙う、英国と米国の裏の戦略でもあった(日本を、戦争に駆り立てたのは、米国による、石油禁輸措置だった。
日本は、資源確保のために中国等東南アジアに侵攻した)。特に、米国は、英国を追い抜いて、世界覇権国になるという、英国に内密の戦略のため、大戦後・対ソ連との戦いのため、1930年代から、日本占領・支配・収奪を狙って、長期的に準備していた。つまり、日本政府・陸海軍首脳は、英国・米国・ソ連・中国共産党の仕掛けたワナに嵌められて、無謀な大戦に突入したのだ。マッカーサー元帥は、この日本首脳を、12歳並と言った。自民党体制(官僚機構・財界・マスコミ・御用学者・御用評論家も含む)は、アメリカが裏から思い通りに支配するために、強力なアメリカ主導で作ったものである
(『昭和史からの警告』。
U 日本国民には知らせない、第二次大戦・日米戦争の真相とは ?
(ヤコブ・モルガン著「山本五十六は生きていた」より抜粋)
○負けるべきして始まった太平洋戦争の真相 !
1.白人種は元来戦闘的、侵略的、謀略的
2. 平和に生きたい日本民族と略奪が日常の米英等民族
(1)王国滅亡の原因:外敵の侵入・悪政・売国奴の存在
(2)王国・帝国の崩壊過程で
ユダヤ金融財閥が子分を権力者に育成 !
17世紀におけるイギリスの清教徒革命、18世紀のアメリカ合衆国建国、フランス革命、19世紀の日本における明治維新、そして20世紀の辛亥革命、ロシア革命、さらにドイツ、オーストリア、トルコ、大日本帝国の崩壊である。
世界中の王国、帝国を倒壊していく過程で新たな権力の座についた「世界支配層」ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンは、打ち続く戦乱で鍛えられた白人層を世界征服のための先兵として駆使してきた。*補足説明:フリーメーソンは秘密結社の事である。フリーメーソンの人数は全世界で600万人超である。
マクロ的に見ればヨーロッパやアメリカの白人層は相対的に国力を増大し、白人間の熾烈な闘争によって鍛えられた戦闘力でアフリカ、中近東、中南米そしてアジア太平洋地域へと侵入、その旺盛な物質的欲望と覇道主義によって世界の分割に乗り出したのである。
16世紀から20世紀初頭に至る白人帝国主義国家による世界各地での残虐非道な植民地支配は、弱者である被支配地域に深い傷跡を残したが、その真実のすべては決して明らかにされることはない。その暴虐のすさまじさは、殺された人民の数もさることながら、地球規模で略奪された文化遺産や美術品の量を見ても明らかであろう。大英博物館やルーヴル博物館などはそれを証明している。
残虐行為を働くものはその戦慄的行動の当事者であると同時に、「情報の管理者」でもある。大地が血の海となっても「血は一滴も流れなかった」とウソの発表する。だが真実の一端はごくわずかの生存者によってもたらされ、語りつがれるのである。
アジア・太平洋地域では、19世紀から20世紀中頃にかけて多くの悲劇がもたらされた。白人種によるアジア人種への圧迫と領土的、民族的支配によってである。19世紀中頃、アジアおよび太平洋の広大な領域はほとんど植民地としての徹底的な支配を受けた。
“ 白人帝国の世界分割支配を陰で操ったのは国際ユダヤ勢力(イルミナティ)であり、その実行組織であるフリーメーソン”である。
V 12月8日、太平洋戦争開戦(下)…発表までの“緊迫の秘話”
(news.yahoo.co.jp:2020年12/8(火) 5:00)
辻田真佐憲 (近現代史研究者):以下は、前回投稿の続きです。
■「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」
と言われたアナウンサーは……。さて、この歴史的な大本営発表については、テレビの歴史番組などで聞いたひとも多いでしょう。しかし、じつはその音声は、当日午前7時のものではなかったといいます。ラジオ局(日本放送協会)でその発表を読み上げたアナウンサー、館野守男の証言を聞いてみましょう。
8日ごとに繰り返し放送され、レコードや映画にも使われた録音盤は、実は、昭和16年12月8日午前7時に放送されたものでなく、確か二度目に繰り返して放送した時のものである。最初の放送は、まったくの突然だったので、録音係の方で間に合わず、その前半が欠けて終わっていたように憶えている。
館野はそのことを裏付けるように、開戦の発表がいかに唐突だったかについて、つぎのようにも証言しています。
午前7時直前、私が7時からのニュース原稿を持ってマイクの前に待機していると、スタジオの扉をあらただしくあけて、報道部の一人が飛び込んで来た。
「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」
といって、走り書きの原稿を渡してくれた。すぐ臨時ニュースのチャイムを鳴らし、
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」
まず2回繰り返した。そして走り書きの原稿の字を追い追い読んだのである。
なんと、いきなり渡された原稿を読んだら、それが開戦のニュースだったというのですね。これには、館野も驚いたはずです。
現在残されている音声は、北朝鮮のアナウンサーとまではいかないまでも、けっこう勇ましいものです。ところが、そのときは読むので精一杯だったので、まるで「お通夜の放送のように沈んだもの」になっていたのではないかと、館野は振り返っています。
■「早速書き取ったのが開戦の発表文である」「書きながら私の手は震えた」
この館野に手書きの原稿を渡した、同局報道部の田中順之助がまた手記を残しています。これを読むと、本当にギリギリのタイミングだったことがよくわかります。
7時5分ぐらい前であろうか、電話のベルが鳴った。指揮室の当番をしていた和田信賢アナウンサーからの電話で『たいへんだ、たいへんだ! すぐ原稿をとってくれ』とあわてた声が聞こえた。早速書き取ったのが開戦の発表文である(中略)。書きながら私の手は震えた(中略)。
やっと『放送OK』が来たので、放送原稿をつかんで隣接したスタジオへ飛び込んだときはもう時報のポンポンという音が始まり、館野アナウンサーの前に原稿を置いたとたん、ポーンと7時を知らせる音がした。これでは、録音盤が残っていないのも納得です。
なお、ここまで慌ただしくなった背景には、大本営陸軍報道部につめていた同局の永井順一郎が、報道局ではなく、放送の緊急対応を行う指揮室に原稿を送ってしまったこともありました。あまりの大ニュースに、気が動転してしまったのかもしれません。
■あの有名な映像もあとから撮影されたものだった?
12月8日の大本営発表については、映像も残っています。それは、陸軍の軍人が両手で紙をもちながら、緊張の面持ちを隠せず、いささか甲高い声で発表文を読み上げているものです。こちらもテレビの歴史番組でよく使われますから、見たことがあるひとも多いでしょう。
じつはこの映像、やはり当日午前6時のものではありません。あまりに突然の発表だったので、その歴史的な瞬間を録画する準備ができていなかったのです。そのため、今日残っているのは、ニュース映像のためにわざわざ再現されたものでした。
そうだとすると、この軍人はずいぶん緊張しているなと感じるのではないでしょうか。そう、この陸軍報道部長・大平秀雄は、口下手で、会話を好まず、たとえ再現でも固くなってしまうひとだったのです。
部下だった平櫛孝は、その人となりを率直に記しています。
大平は生来内向型で、人と話すことも好きでなく、また話下手で、むしろ部隊長、参謀長の適格型であった。お世辞にも報道部長に適格とはいえない性格で、陸軍省詰の記者や来訪出入の外部の人との折衝も好きでなかったようだ。
■口下手な軍人が報道部長に就いてしまった理由
では、どうしてマスコミ対応をする報道部長にそんなひとが就いてしまったのでしょうか。
もとより、陸軍もバカではありません。報道部長には、それまで外向的で、宣伝に秀でたひとがついていました。ところが、前任者の馬淵逸雄(このひとも『報道戦線』という著作があるほど宣伝のプロでした)が、東条英機陸相の不興を買い、突如として左遷されたのです。そのため、すぐに適格者を得られず、人事上の都合で、口下手な大平が報道部長に就いてしまったのです。
大平にとって運が悪かったのは、そこで太平洋戦争の開戦を迎えてしまったことでしょう。彼はその後も、まるではじめて人前で発表する中学生のように、ガチガチに緊張した姿で大本営発表を読み続けなければなりませんでした。
海軍には、雄弁家で知られた平出英夫(海軍報道部課長)がいましたから、陸軍側は緒戦の宣伝でどうしても一歩遅れをとってしまいました。
その状態が改善されたのは、遅れて1942年3月のこと。後任の陸軍報道部長・谷萩那華雄は明るく、冗談をよく言うひとでした。これでようやく陸軍は海軍と張り合えるようになり、「谷萩漫談、平出講談」という言葉まで生まれました。大平も報道部から離れられて、ホッとしたことでしょう。ちなみにその従弟には、「あーうー」で知られる大平正芳首相がいたりします。
いずれにせよ、大本営発表が国民のもとに届くまでには、このような人間ドラマがあったのです。太平洋戦争開戦のこの日、そんな歴史に思いをはせてみるのも、悪くないのではないでしょうか。
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