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橋本聖子会長:東京五輪酒類提供中止 !
組織委に判断委ねられた「委託業者」は困惑 !
橋本聖子会長のプロフィールとは ?
(www.nikkan-gendai.com:2021年6/27(日) 9:06)
◆酒類提供中止の件 !
日刊ゲンダイ:「恥ずかしながら、寝耳に水でした。組織委さんが発表した酒類提供中止の件ですが、実は私どもも当日の記者会見で知った体たらくで……」
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こう言葉を詰まらせたのは、スポーツ観戦にさらなる付加価値をもたせることを事業とするSTH Japanのマーケティング部の担当者だ。
同社はセレブ向けに1枚600万円超の五輪チケットも販売する、組織委の委託業者でもある。
◆橋本聖子会長の見解:
21日、大会組織委の橋本聖子会長は、五輪会場の酒類提供について「現在の一般的ルールを鑑み、検討中」と発言。翌22日は丸川珠代五輪相が閣議後に「大会の性質上、ステークホルダーの存在がある」と言った。ところが、世論の反発が大きいとみるや一転。橋本会長は23日の記者会見で、突如として会場内での酒類提供中止を宣言した。
これはセレブ向けの高級チケット「ホスピタリティパッケージ」を販売するSTH Japanも無関係ではない。さまざまなプランが用意されるこのコースのパンフレットには「厳選されたシャンパン、日本酒、ビール」などの記載があった。そのため、会場の記者が「(酒類提供がなくなったことでチケット料の)一部返金などはあるか」と尋ねたが、会見の司会を務めた組織委職員は「委託した事業者が我々のチケットをもとに自ら展開しているものだから、どのように判断されるかは事業者に任せる」と、判断を委託業者に丸投げしたのだ。
◆お酒は重要な要素 ?
冒頭のコメントは“パス”を受け取った、委託業者の反応だ。STH Japanの担当者はさらに続ける。
「前々からコロナ対策や観客数の結論なども分かり次第、早め早めに教えてほしいと申し入れはしていましたが……。組織委さんもいろいろと対応に追われていたのでしょうけど……。
昨晩(23日)、組織委に協議を申し入れており、価格を含めてどうやって対応していくべきか、上層部がやりとりを進めております。今のところ我々、現場の方には下りてきていない状況で……。
やはり、お酒は重要な要素で、ご飯との兼ね合いもありまして……。
メーカーにも結論が出次第、お伝えしなければ……。お客さまからもお問い合わせがありますが、事情をお話し申し上げて、しばしお時間を頂いております。ご購入者さまの不利益にならないよう、対応していきます」
組織委のこの「丸投げ」をどう思うか、という質問に対しては、「実は、報道各社からの問い合わせは、一度組織委を通すように言われていますので、私情は差し控えさせてください」とのことだった。
(参考資料)
○橋本聖子会長のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
橋本 聖子(はしもと せいこ、1964年(昭和39年)10月5日生まれ。56歳。)は、日本の政治家、元スピードスケート・自転車競技選手。参議院議員(5期)。現在、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長、同理事[1]を務めている。
戸籍名は、石ア 聖子(いしざき せいこ)。
スピードスケートおよび自転車競技でオリンピック日本代表として出場。アルベールビル冬季オリンピックスピードスケート女子1500m銅メダル。東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣、女性活躍担当大臣、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)、自由民主党参議院議員会長、公益財団法人日本スケート連盟会長、公益財団法人日本自転車競技連盟会長、公益財団法人日本オリンピック委員会副会長を歴任した。
◆略歴
北海道勇払郡早来町(現:安平町)の牧場で生まれ育つ[2]。祖父母は開拓者で、父方は宮城県三本木町から、母方は奈良県十津川村から入植した[2]。4人兄弟の末子。
父親の方針で3歳でスケート開始。小学3年の時、腎臓病にかかり、2か月間入院。2年間スポーツを禁止される[3]。
中学3年の時、全日本選手権を初制覇の後、駒澤大学附属苫小牧高等学校に入学。全日本スプリント、全日本選手権で優勝。以後、10年間にわたって全日本選手権を制覇。高校1年で世界選手権の日本代表に史上最年少で選ばれる[4]。
原因不明の呼吸器系の病気にかかり生死の境をさまようが、後に全日本選手権で「4種目完全制覇」を達成。
1983年、高校卒業後、富士急行株式会社へ入社。1994年、富士急行株式会社退社。
30歳のときに自由民主党の当時の幹事長だった森喜朗から「参議院議員に出馬をしないか」とすすめられる[2]。1995年、第17回参議院議員通常選挙の比例区に自民党から立候補し初当選。
国会議員とスポーツ選手の二足のわらじを履く。日中は議員活動、早朝、深夜にトレーニングを行う[2]。午前3時に起きて自転車に乗り、昼間に国会議員としての活動をして、夜9時すぎから2時間のウエイトトレーニングという日課を繰り返し、土日の地方講演には自転車で移動をするなどして練習に充てていた。
1996年、現職国会議員としてアトランタオリンピックの自転車競技2種目に出場するも、12位と9位に終わる。この経験はスポーツの振興や人材育成に取り組む上で大きな財産になった[2]。現役スポーツ選手続行の体力があると自負していたものの、国会議員としてのオリンピック出場が政界とスポーツ界の両方から批判をされたことを理由に「両方の世界を傷つけた」としてスポーツ選手としての現役引退を決意する[5]
1998年、一般人の男性(警察官)と結婚。
2000年8月、園田天光光以来51年ぶり、現役国会議員として2人目、参議院議員としては初の出産。これに先立ち、妊娠判明後の同年3月、出産による本会議欠席を認める参議院規則改正が行われ、事実上、国会議員の産休が制度化する。橋本は直前まで議員活動をし、入院後2時間で初の出産。
2015年、フランス共和国国家功労勲章シュヴァリエを受章[6]。
◆役職
1995年7月 - 第17回参議院議員通常選挙に比例区から立候補、初当選。
2000年7月 - 北海道開発総括政務次官就任。
2001年
7月 - 第19回参議院議員通常選挙に比例区から立候補、当選(2期目)
8月 - 参議院文教科学委員長就任。
2003年9月 - 自由民主党副幹事長就任。
2004年9月 - 自由民主党副幹事長退任。
2005年9月 - 自由民主党女性局長。
2006年6月18日 - 日本スケート連盟会長。
2007年7月 - 第21回参議院議員通常選挙に比例区から立候補、当選(3期目)
北海道トライアスロン連合会長/トライアスロン議員連盟 幹事長
2007年9月 - 2007年自由民主党総裁選挙で、立候補者・福田康夫元内閣官房長官の推薦人代表となる。
2008年9月 - 麻生内閣で外務副大臣に就任。
2012年12月 - 第2次安倍内閣で自民党参議院政策審議会長に就任。
2013年7月 - 第23回参議院議員通常選挙で比例区から立候補、当選(4期目)
2016年7月 - 自民党参議院議員会長に就任[7]。女性として初の自民党参議院議員会長であると同時に、就任の時点において閣僚経験のない初の自民党参議院議員会長である(現行憲法下での閣僚経験のない自民党参院議員会長としては野村吉三郎(第2代自民党参議院議員会長)以来およそ60年ぶりであった)。
2019年7月 - 第25回参議院議員通常選挙で比例区から立候補、当選(5期目)
2019年7月 - 自民党参議院議員会長を退任
2019年9月 - 第4次安倍第2次改造内閣で東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当、女性活躍担当、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)として初入閣。
2020年9月 - 菅義偉内閣でも東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当、女性活躍担当、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)再任。内閣総理大臣臨時代理就任順位第5位に指定された[8]。
2021年2月18日 - 内閣府特命担当大臣を辞任し(後任には丸川珠代が入閣し就任)[9] [10]、同日、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任(女性蔑視発言を受けて辞任した森喜朗元首相の後任として)[11]。19日に会長就任に伴い政治的公平性を期すため自由民主党に離党届を提出。22日に受理された。
◆スポーツ活動
オリンピック・日本の旗 日本・女子 スピードスケート
銅 1992 アルベールビル 女子 1500 m
1984年、サラエボ冬季オリンピック出場。当時スピードスケート女子全種目の4種目に出場したが、いずれも8位以内(入賞)には届かなかった(500m11位、1000m12位、1500m15位、3000m19位)。
1988年、カルガリー冬季オリンピックではスピードスケート女子全種目の5種目に出場し、全ての種目で日本記録を更新の上、入賞を果たす(500m5位、1000m5位、1500m6位、3000m7位、5000m6位)。但し3000mでは、同走の選手にクロッシングゾーンで本来譲られるべき走路(ほぼ同走時にはアウトからインに入るコースの選手が優先権)を、邪魔されてしまうアクシデントがあった(その同走選手は走路妨害を取られて失格)。さらに最後の出場種目だった5000mでは、レース終盤に苦悶の表情ながらも懸命に滑り続け、そして最後は完全に力尽きてしまい転倒してのゴールとなった(後に橋本本人は「あのゴール直後の転倒は私自身非常に恥ずかしく、スケート人生の中で一番悔いの残るレースだった」と語っている[12])。
同1988年、ソウル夏季オリンピックに自転車の代表選手として出場した。このため、関ナツエとともに、日本人として男女を通して史上初めて冬・夏両方のオリンピックに出場した[13]
1989年、世界オールラウンドスピードスケート選手権大会において、500m優勝を含む日本人初の総合銀メダル。
1992年のアルベールビル冬季オリンピックも女子スピードスケート全5種目出場。女子1500mでの橋本は、序盤から中盤まで積極的に飛ばし続け、終盤ラップタイムが落ちたものの屋外リンク自己記録の2分6秒88をマーク。結果3位入賞を果たし、日本人女性としては史上初となる冬季オリンピックで銅メダルを獲得する快挙を達成した[14]。1000mは5位入賞だった(他500m12位、3000m12位、5000m9位)。
1992年バルセロナオリンピック出場(自転車競技)。女子3000m個人追抜で11位。
1994年、リレハンメル冬季オリンピック出場。日本選手団の主将を務め、女子スピードスケートでは500mを除く4種目に出場。特に3000mでは、600m付近で当時世界記録保持者のグンダ・ニーマンの転倒に巻き込まれ、橋本自らも転んでしまい左肘と左脇腹に打撲傷を負うハプニングがあった。その後橋本の再レースが認められ、約1時間経過後の再レースでは当時の日本新記録となる6位入賞を果たした。5000mでも8位入賞だった(他1500m9位、1000m21位)。
1996年アトランタオリンピック出場(自転車競技)。女子3000m個人追抜で12位、女子2万4000mポイントレースで9位。
合計7回(冬季大会4回・夏季大会3回)のオリンピック出場は日本女子最多記録である(世界最多記録は8回出場のヨセファ・イデム、レスリー・トンプソン、ニノ・サルクヴァゼが保有)。
―以下省略―
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