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  追悼・田村正和さんの際立ったプロ意識と私生活を見せない美学(桧山珠美)
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投稿者 青木吉太郎 日時 2021 年 5 月 23 日 16:36:30: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

  追悼・田村正和さんの際立ったプロ意識と私生活を見せない美学(桧山珠美)

      田村正和さんのプロフィールとは ?

(www.nikkan-gendai.com:2021年5/23(日) 9:06配信)

【桧山珠美 あれもこれも言わせて】

 田村正和の先月3日の訃報が伝えられたのは18日。ちょうど「大豆田とわ子と三人の元夫」を見ていたら速報が流れたのだが、そういえば、松たか子と父娘役で共演したドラマ「じんべえ」もあったとぼんやり思い出しつつ、あのドラマもこのドラマもと思い出していたら、大豆田どころではなくなった。
24時間365日「田村正和」を演じる“二枚目スター”の凄み 40年以上前の懇親会で目撃
(城下尊之)

■大原麗子との美男美女の共演は絵になった !

 記憶の中の田村正和は真っ白なアーガイル編みのとっくりセーター(今ならタートルネック)を着ていて、それがなんともお美しく……。「冬の雲」(TBS系)というドラマだった。思えばイケメン好きは子供の頃に正和オーラを浴びてしまったからではないか。仲雅美が歌う挿入歌「ポーリュシカ・ポーレ」がヒットしたので記憶している人もいるはず。子供には難しい人間ドラマで内容は覚えていないが、田村正和の二枚目ぶりは妙に記憶に残っている。その後「眠狂四郎」という当たり役を手に入れた。
 いわゆるメロドラマにも多く出演。「離婚ともだち」や「くれない族の反乱」など相手役は大原麗子が多かったように思う。まさに美男美女、絵になる2人だった。
 1984年、TBS系の「うちの子にかぎって…」の教師役でコミカルな役に挑戦。それが見事にハマり、「パパはニュースキャスター」「パパとなっちゃん」「カミさんの悪口」につながる。
 フジテレビ系では井上陽水の「リバーサイドホテル」を主題歌にした「ニューヨーク恋物語」で二枚目役もまだまだイケることを証明、後に「古畑任三郎」となる。

■「やり切った」と語った引き際の鮮やかさ !

 2018年「眠狂四郎 The Final」を最後に表舞台から遠ざかったが、本人は試写で見て「こりゃダメだと思い、オンエアは見る気もしなかった」と語った。「もうやり切った」と親しい人に語っていたといい、引き際も鮮やかだった。
「徹子の部屋」は19日に急きょ「追悼・田村正和さん」を放送した。過去に出演した3回分をダイジェストしたが、プライベートは一切見せない田村の素が見られ、貴重な時間となった。
「ミヤネ屋」も取り上げていたが、途中で「紀州のドン・ファン」絡みに変わったのは残念。センスを疑う。
 プライベートは一切明かさず、セリフは全部覚え、NGなし。徹底したプロ意識と自分の美学を貫いた。今はSNSで私生活を流し、フォロワー数に一喜一憂するような俳優ばかり。プライベートを切り売り、庶民化する俳優って魅力ある?
 フジは追悼で「古畑任三郎」のイチロー出演回と松嶋菜々子出演回を放送したが、どうせなら第1話の中森明菜の回から全部放送して欲しい。下手な新作よりよっぽど視聴率も稼げるはず。(敬称略)
(桧山珠美/コラムニスト)

(参考資料)

○俳優の田村正和さんのプロフィールとは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

田村 正和(たむら・まさかず、1943年〈昭和18年〉8月1日生まれ。77歳。2021年〈令和3年〉4月3日[2])は、日本の俳優。東京都世田谷区生まれ、京都府京都市右京区出身[3]。成城大学経済学部卒業[2]。所属は、自身の個人事務所である新和事務所[4]。
阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれる。異母弟に俳優の水上保広。家族は妻(一般人女性)と娘[4]。

◆経歴

☆幼少期から松竹時代:
京都から世田谷へ移住、9歳で父阪東妻三郎を亡くす[3]。1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際に勧められて、同映画の端役として出演する[3]。その後、1961年松竹大船と専属契約[3]。9月、成城学園高校在学中に映画『永遠の人』で本格デビュー[3]。1965年『この声なき叫び』で初の単独主演、以降1966年に大学を卒業するまで学業と並行して映画、テレビドラマに出演した。この間1963年『花の生涯』からは5年連続でNHKの大河ドラマに出演した。

☆松竹退社から1970年代TV時代劇を中心に活躍

1966年にフリーとなる[3]も脇役ばかりが続く。当時は地味で暗い風貌であったことや、声があまり通らないことなどから成功には程遠かったものの、やがて1970年に出演したテレビドラマ『冬の旅』で改めて存在を認識され[5]、人気に火が付いた[6]。以降次第に繊細な二枚目青年役を中心にテレビドラマでの活躍が目立つようになる。 1972年『新・平家物語』では崇徳天皇を演じたがこれ以降大河ドラマには出演していない。同年テレビ時代劇『眠狂四郎』で茶の間の人気を得た[3]。『眠狂四郎』、1977年NHK時代劇『鳴門秘帖』、1979年『赤穂浪士』など、特に陰影の濃い哀愁ムードの風貌は女性ファンを引き付け[3]、「憂愁の貴公子」とさえ呼ばれることもあった[7]。
1978年のテレビ時代劇『若さま侍捕物帳』に出演、これまでと違う役どころに悩んだが[3]、これが一つの転機となり、以降は、軽やかで明るい役柄にも挑戦、これまでのイメージとは異なる作品に多く出演するようになった[3]。
1979年映画『日本の黒幕』に出演、以降1993年まで映画には出演せず、テレビと舞台のみに出演した。

☆1980年代:ホームドラマでのブレイク

1983年スペシャル時代劇版『乾いて候』が好評であったため[8]、1984年連続版『乾いて候』が製作され、田村三兄弟が共演して話題となった[3]。また同年『うちの子にかぎって…』(TBS系列)に出演し、それまでのイメージを完全に覆す三枚目の役[3]、田村にとってターニングポイントとなった[3]。ちょっと頼りない優柔不断で生徒に振り回される小学校の先生役が見事にはまり大ヒット。
続けて『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』『パパは年中苦労する』など数々のコメディドラマに主演した。以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し成功をおさめている。
1988年には田村がとても気に入っているという『ニューヨーク恋物語』に出演、同じ役を長く演じるのを嫌う田村としては珍しく、田村の願いで[9]、2005年にはスペシャル版が製作された。

☆1990年代以降

恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ、夫婦ものでは悩み多きコミカルな夫、55歳を過ぎてからは頑固で涙もろい父親役など、幅広い役柄で主演し、テレビドラマ界での主演スターとしての地位を築いた。
1990年年末時代劇スペシャル『勝海舟』(1990年、NTV) に主演するも、急病のため前半部と終盤のみの出演となり、代役は弟・亮となった[10]。
1993年映画『子連れ狼 その小さき手に』に出演し、1979年の日本の黒幕以来のスクリーン復帰を果たし、アクションよりも、親子愛にテーマを置いた拝一刃を演じた[3]。また同映画の写真を使用した自身初の写真集が発売された。
1994年から放送の刑事ドラマ『古畑任三郎』役では、和製刑事コロンボとも言える新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった[5] 。古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、辞退していた。その後、『古畑任三郎』第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞した。
2007年、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け[11]、映画『ラストラブ』に出演、14年ぶりの映画出演となった[12]。
2009年『そうか、もう君はいないのか』で第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞を受賞、「信じられません。私が参加いたしましたこの作品が東京を遠く離れたモンテカルロの地で皆様方のご高覧を拝しただけでも大変光栄なことでございますのに、このような賞を頂けるなんて・・・。実は私事ではありますが、この数年俳優業の難解さと私自身の能力の間で大変悩んでおりました。
したがってこのような賞をいただけることが私には全く信じられないことなのです。この度のこの栄えある賞が私のそう長くはない俳優人生においておおいなるエネルギーになってくれることを祈っている次第です」と受賞の喜びを語った[13]。
2018年、『眠狂四郎 The Final』に出演。「狂四郎というのは自分の出生に大変なコンプレックスを持っている男なんですけど、今回少しだけ明るい光が入ってくるような部分もあります」と述べた[14]。円月殺法のシーンだけで3日をかけて撮影され、「『眠狂四郎』は大事な作品です」とも語った[15]。しかし放送前に試写を見た田村は、これではダメだと痛感しオンエアを見る気にもならなかったと2018年4月発売の写真週刊誌『FRIDAY』の取材に語っている[16]。これが俳優業からの引退を示唆するかの様なコメントだったことから、一部のマスコミで引退宣言などと報道された。一方田村とは旧知の仲である八木康夫が、伴一彦らとの対談で田村について「確かにやり切ったとは感じている様だが、報道の内容は正確なものではなく、田村自身は一言も引退とは言っていない、また今後絶対に何かに出演しないと言っている訳でも無い。今の田村と何か新しい作品をやりたい。」と話していた[17]が、当作品が生前最後の出演となった[18]。
2021年4月3日16時20分、心不全のため、東京都港区の病院で死去[19][20]。77歳没。

◆人物

父、兄弟:田村は幼い頃、なんとなく父親のしている仕事をしたいと思っていた。そしてそれを知った父、阪東妻三郎が大変喜んだと語っている[21]。また「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた[22]。
父とは普通の親子の様に手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったとも語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語った[4]。兄弟の中で最も父親と性格が似ていて、字も似ているという[23]。
2003年1月14日にNHKで放送された、阪東妻三郎没後50年を偲ぶ番組『駆けよ! バンツマ』では、一般人の次男・俊磨も含めた田村4兄弟が勢ぞろいし、父の思い出について対談する貴重な映像が見られた。京都で撮影の際には、父阪東妻三郎と兄高廣の眠る墓を訪ねる[24]。
弟・亮は正和について「まじめ過ぎる、テレビではプライベートな部分は見せない」と分析、また兄弟で会っても仕事の話をすることはまず無いと明かしている[25]。

◆プライベート

1977年当時「月に何度か飲みに出かけるが、女の人が居る様な店には行きません」と対談で答えている[47]。
プライベートで、他人の前では決して食事をしないというエピソードがある[48]。
好きな酒はビール[38]、またソフトクリームが好きだと明かしている[49]。既に、自身の墓を建立している(いわゆる「寿陵」)[50]。
休日は家で部屋にこもり音楽を聴いたり、酒を飲んで過ごすことが多く、専属美容師を自宅に呼んでいる[51]。
子供は苦手であるが、犬は好きで、犬にはすごくなつかれるとも語っていた[4]。
ロバート・デ・ニーロの出演作品を好み、作品を借りてきてもらったりしていた[4]。
コンピューター音痴で、携帯電話も所有していたが、家に置いていた[38]。しかしiPadは活用している[52][51]。
運動のために自転車に乗っている[38]。また毎日30 - 60分ほど散歩をしている[53]。
時代小説を好んで読んでいる。とりわけ聖徳太子や織田信長が好みのようで、織田信長を演じてみたいと度々語っていた[38]。
NHKの『ブラタモリ』が好きだと、『徹子の部屋』に出演時に明かした[51]。
―以下省略―

 

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