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「コロナ重症化の背景はタバコ ?」志村けん死去でテレビが伝えにくい”真実”
志村けんさんのプロフィールとは ?
(news.yahoo.co.jp:2020/4/1 )
多くの人々に愛された志村けんのあまりにあっけない死。死後に遺体が近親者が触れることもできないまま、袋づめされて荼毘に付されたことは、改めて新型コロナウイルスの怖さを思い知らせることになった。
志村けんの死で新型コロナウイルスがどのようにして肺に炎症を起こしていくのかが注目されている。
各テレビ局の情報番組などでは3月31日の放送でそのプロセスをくわしく説明していたが、
喫煙の習慣との新型コロナ重症化の関係が注目された。
以下、主な番組でこの点についてどのような説明があったのかを見てみよう。
ヘビースモーカーだった一面を指摘したフジテレビ『とくダネ!』
番組では52歳当時の志村けんのインタビュー(2002年4月23日『とくダネ!』)映像を放送。そのなかで志村がインタビューの最中にタバコをくゆらせる場面もあったのが印象的だ。
志村けんの兄・知之さんは「4年前に肺炎になってからお酒もだいぶ減らしてタバコも1日3箱吸っていたのが全然吸わなくなった」と話していた。
スタジオに出演した二木芳人・昭和大学特任教授は志村けんも受けた人工心肺装置のECMO(エクモ)の治療について説明しつつ次のように解説した。
(二木特任教授)
「特に若い方はこれで頑張っている間にだんだんよくなるというケースはあるんですが、やはりお年を召した方は難しい部分がある。
70歳というのはそれほど高齢でもないんですが、志村さんの場合、おそらくですね、
さきほどもちょっと出てきました。
お兄さんもおっしゃっていましたが、かなりヘビースモーカーで、今はお止めになっていたようですが、
少し肺にダメージがあったんじゃないかなと」
MCを務める伊藤利尋アナウンサーが志村けんの「過去の病歴」をまとめたボードを示しながら、50年来の親交があった歌手・女優の由紀さおりに尋ねている。
(伊藤アナ)
「確かに持病というのは言われるところで、志村けんさんは2016年に禁煙をされてということですが、
由紀さん、相当、おタバコは吸われていたようですね?」
(由紀さおり)
「そうですね。(『8時だョ!全員集合』『ドリフ大爆笑』などで)
一つのネタを作るのもすごく時間がかかって・・・
稽古をするからって、私たち(共演者が)呼ばれて待っているんですけれども
結局そこで何をどうやるかというのが決まらなくて、『ごめんね・・・』ということになって
私の場合はいかりや長介さんが口立てで、『こういうことでこういうことでこういうふうに持っていこうと思う』と。
『後でちゃんと台本を明日来たら渡せるようにするから』と言って、3、4時間待っても(ドリフの)ネタが固まらなくて、私たちは帰されるということがよくあったんです。
その考えている間、ずっとタバコをくゆらせているというか
そういう情景というのはいかりやさんも志村さんも本当に同じだった」
この後で伊藤アナがECMOに話題を移したので番組でのタバコの話はここで終わった。
このため、視聴者からみれば志村けんの新型コロナの重症化とタバコの関係についてはあまり明確に伝わらなかった。
一方、志村けんの死とタバコの関係を深掘りして放送したのがTBS『ひるおび!』だった。
タバコが新型コロナを重症化させた可能性を指摘したTBS『ひるおび!』
『ひるおび!』が伝えたことは明快だった。
ヘビーな喫煙によって人間の肺が炎症を起こして穴だらけになってしまうこと。
加えて喫煙者は新型コロナウイルスで感染しやすく重症化しやすくなることだ。
そして志村のように禁煙生活を4年続けていても大丈夫とはならないということも一般の人にとっては想定外の指摘だった。
ゲストの倉持仁医師(インターパーク倉持呼吸器内科院長)は新型コロナ肺炎について次のように解説した。
(倉持仁医師)
「”新型コロナ肺炎”の特徴は・・・新型コロナの患者さんの特徴は、CTを見ると肺の外側に一気に炎症が広がっている。本人に自覚がなくても急速に悪化する」
肺は右肺が上葉・中葉・下葉、左肺が上葉・下葉の5つに分かれている。
倉持医師によると通常の肺炎は5つある中の1か所で炎症を起こすもので多くても2か所だという。
ところが新型コロナ肺炎は5か所すべてで炎症を起こし、その外側が一気に炎症を起こすのだという。
番組では長年志村と親交があった歌手の由紀さおりが出演。
''志村けんが多いときには1日60本を吸うチェーンスモーカーだったこと''を明かした。
2016年に肺炎で入院した後には禁煙を続けていたという志村。
禁煙した後にも強く残ってしまうタバコの害に焦点を当てて、番組では専門家にも話を聞いた。
(恵俊彰キャスター)
「タバコってこれ、倉持先生、どうなんですか?」
(倉持仁医師)
「タバコの中にはいろいろな発ガン物質が含まれていたり、いろいろな物質が肺の奥まで入っていくんですけども、そうしますと、肺の中でいろいろな炎症が起こる。
炎症が起こるというのはどういうことかというと、肺の中にたくさん傷ができますから、
ウイルスにとっては非常に入りやすいですし、増殖しやすいですし、コロナウイルスもそういう性質を持つようですが、他の細菌でも、喫煙者の方は一般的に重症化しやすい。
あるいは、治りにくい。
あるいは、後遺症が残る、ということはよく見られることですから、やはりこれを機に、
ぜひ禁煙をしていただくといいと思います」
恵キャスターが”禁煙の効果”について質問をぶつけた。
(参考資料)
○志村けんさんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
志村けん(しむら けん、1950年(昭和25年)2月20日[1] 生まれ。- 2020年(令和2年)3月29日死亡。70歳)は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。
ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続け、芸能界に大きな功績を残した日本を代表するコメディアンである。生前時は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属していたが、同じザ・ドリフターズのメンバーで、2004年(平成16年)に死去したいかりや長介と同様に没後もイザワオフィスに籍を残している。
1972年までの旧芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)[5]で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。
◆来歴
小学校教諭だった父・憲けん司じ(1918年(大正7年)〜1973年(昭和48年))と母・和かず子こ(1919年(大正8年)〜2015年(平成27年))の三男として、東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。2人の兄(長男・知とも之ゆきと次男・美み佐さ男お)は大学を卒業して公務員になったが、自身は大学へ行かず、異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父の名前から取ったものである。
父は厳格な人物で、彼の支配する家庭は重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来た。志村は「その時だけは父も声を出して笑っていた」と語っており、その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。志村が中学生だった頃の父は、校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。
東村山市立東村山第二中学校在学中は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、同高の第1期生となる。中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった。同高ではサッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍した。
◆付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り
1968年2月[6]、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。
由利徹、コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、断られている)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。
1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った[7]。
加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度脱走し[注 2][注 3]、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。
1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー[注 4]。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎えるが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅した。
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した[注 5]。当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。
1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格した。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入[8][9]、及びすわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと[10]、加藤の推薦により若手の志村が起用された[注 6]。
当時、志村は24歳だった。
◆その後
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなっていった。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものだった。
1998年12月30日、『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』後半部では、加藤と共に出演した。
一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた[注 9]志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した。自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。
その後、「鉄道員」出演以降は一部の声優業を除いて映画には1度も出演した事が無かったが、2020年12月に公開される予定の映画『キネマの神様』にて菅田将暉とダブル主演を務めることが告知され、これにより『鉄道員』以来約20年ぶりに映画出演を果たす予定であった。しかしながら、新型コロナウイルスに感染したことで辞退を余儀なくされ、結局出演を果たせぬまま2020年3月29日に合併症の肺炎で死去した[12]。
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