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共同通信調査:森組織委会長「不適任」59% ! 菅内閣支持38% !
森喜朗会長のプロフィールとは ?
(news.yahoo.co.jp:2021年2/7(日) 18:40)
◆森喜朗会長:「不適任」59%
共同通信社が6、7両日に実施した全国電話世論調査によると、女性蔑視発言をした東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長に関し、会長として「適任とは思わない」との回答が59.9%に上った。「適任と思う」6.8%、「どちらとも言えない」32.8%だった。
◆菅内閣の支持率は38.8% !不支持:45.9%
菅内閣の支持率は38.8%で前回1月調査から2.5ポイント続落し、初めて40%を割り込んだ。
不支持率は3.1ポイント増の45.9%となった。
◆大坂なおみ:森会長発言は「少し無知」
新型コロナワクチンを「接種したい」と答えた人は63.1%、「接種したくない」は27.4%だった。
◆政党支持率:
自民党:36、7%、立憲民主党:8、5%、公明党:3、5%、共産党:4、0%、
日本維新の会:5、3%、国民民主党:1、3%、社民党:0、4%、
NHK受信料を支払わない方法を教える党:0、5%、
支持する政党は内:37、6%。
回答は固定電話510人、携帯電話513人。
(参考資料)
○森喜朗会長のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋転載)
森喜朗(もりよしろう、1937年〈昭和12年〉7月14日 生まれ。83歳。)は、日本の政治家。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長。
衆議院議員、文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、内閣総理大臣(第85・86代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党幹事長、自由民主党総務会長、自由民主党総裁(第19代)などを歴任した。
◆経歴
政界入りまで:2001年3月25日、父の墓参りに訪れた森。
石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜と、妻の薫(1944年11月病死)との間に、長男として生まれる。小中時代はいじめの常連で何度も職員室に引っ張られたと講演で回顧している。中学時代の教師は森が悪いことをして交番に連れて行かれると、警官の前で森を怒鳴り、殴りつけた。父親の立場を慮って貰い受けに来た手前、必要だったものらしく、自転車の後ろに森を乗せて帰る途中「頭が痛かったら先生の背中にこすりつけろや」と言ってくれたと言う。
こうしたやりとりから師弟の情愛が生まれ、その教師は後年森が立候補する頃には教組の幹部になっていたが「お前のお陰で教組を辞めなきゃいかんようになった。今まで自民党にだけは入れないできたが、とうとう自民党に入れることになってしまった。困った奴だ」と森に協力した。その後恩師は石川県中学校長会の会長になったという[注釈 1]。
◆ラグビーへの思い入れと挫折
本人によれば上述のように勉強は出来なかったが、子供の頃より生涯に渡って強い関心を持ち続けることになったのがラグビーである。『森喜朗全人像』『あなたに教えられ、走り続けます』『自民党と政権交代』など森の著書やインタビューによれば、ラグビーに最初に興味を示したのは父の茂喜であり、戦時中トラック島空襲後同島に派遣された際には、部下を引き連れて捕虜と試合に興じて人心掌握にも有効活用したと言う[注釈 2]。
戦後の1948年(昭和23年)、喜朗が小学5年生の時分に早稲田大学のラグビー部がOBである父を頼って根上町に合宿に来た。この時の練習試合を見て喜朗はラグビーに興味を持ち、早稲田大学に入りラグビーをやろうと決意し、練習に励むようになった。元々根上町からは学区制度上、ラグビー強豪で進学校の石川県立金沢二水高等学校には進学できなかった。
そこで、金沢市立高岡町中学校(現金沢市立高岡中学校)に越境入学し、根上町から汽車通学していた。高岡町中学校にはラグビー部がなく、バスケットボール部に所属していた。中学校卒業後金沢二水高校に進学し、ラグビー部に入部。ラグビー部のキャプテンを務め、北陸三県大会で富山県立魚津高等学校と決勝戦にすすんだものの敗退した。
その活躍から、父の知人であった当時の早稲田大学ラグビー部監督大西鉄之祐の薦めで 、早稲田大学第二商学部に入学する。しかし、全国から集まった強豪選手の中で、練習は過酷を極め、文化の違いもあり精神的にも参ってしまい、吐血のため通院したところ、胃潰瘍と診断された。医者から半年間練習を休むように言われた。半年もの間練習を休めばラグビー選手として終わりだと悟った森は入学から4ヶ月で退部を決心する。同時に、自分がラグビー部の推薦により大学へ入学した点を重く見て退学を決意するが、大西監督に「バカもの!」「ラグビーだけが大学じゃないぞ、森君。
縁あって早稲田に入ったんだ。早稲田精神を身につけて少しでも世の中の役に立つ人間になろうと君は思わないのか。将来、ラグビーに恩返しができるような立派な人間になってみろ」と叱責され、退学を思いとどまった[2]。
この大西監督の言葉は森に大きな影響を与え、第9回ラグビーワールドカップの日本招致を成功させた2009年に受けたインタビューでは、「その言葉はいつもわたしの心の中にあり、こうして協会の会長を引き受けているのも、W杯日本招致に責任を持ったのも、少しでもラグビーに奉公できればとの思いからでした」と語っている[3]。
◆早稲田大学雄弁会への入会
結局、森は、早稲田大学ラグビー部こそ退部したが、郷里出身の早稲田大学大学院にいた先輩が森を見かね、雄弁会に入るように薦めた。森は2年生になると同時に雄弁会に入会し、やがて政治家を志すようになる。当時の雄弁会は現役の国会議員、特に野党の代議士が話をしに来てくれることが多く、国政の当事者に接することが出来るという恵まれた環境で生の政治を学んでいった。
森自身演説の練習も行ったがそれを聴衆の前で披露する機会は在学中には訪れなかった。
当時の雄弁会には、青木幹雄、西岡武夫(当時代表幹事会議長)、深谷隆司、玉澤徳一郎、小渕恵三などが揃い、部室は梁山泊の様相を呈していた。この時期は雄弁会の黄金期である。
なお、ラグビー退部後も、勉強も優秀だが練習のため授業に出られないラグビー部員達のために教授に掛け合うなど、同部との関わりは続き、教授達とも一緒に飲みに行き講話にじかに接していた。早稲田祭で後輩の学生達に語ったところによれば、森達は部室(会室)には毎日出ていたが、教室にはいかないことから「大学周辺居住者」と呼ばれていたが、必要な単位は4年間で全て取得したと言う[4]。
◆首相時代
アメリカ合衆国国防長官ウィリアム・コーエンと会談する内閣総理大臣森喜朗(63歳。2000年9月22日、東京都千代田区の総理大臣官邸にて)
アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュと会談する内閣総理大臣森喜朗(2001年、アメリカ合衆国のホワイトハウスにて)
2001年3月、森喜朗首相、小池百合子議員らとウラジーミル・プーチン・ロシア大統領に会う。
◆就任の経緯
2000年4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で、内閣総理大臣に就任した。清和会議員の総理総裁就任は福田赳夫以来22年ぶりであった。
このときの連立与党は、自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
森の首相就任は、当時の自民党有力議員5人(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれ、西側諸国の報道でも旧ソ連のクレムリン並みの密室人事と揶揄された。これらの論評に対して、森自身は「マスコミが密室と言いたがるだけ」と反論した。
詳細は「五人組 (自由民主党 2000年)」を参照
◆首相就任後
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという[23]。
政策では小渕政権の政治目標を継承することを重視し、小渕が学生時代から取り組んでいた沖縄問題の一つの到達点と目していた沖縄サミットを完遂や、小渕が望んでやまなかった景気回復を目指した。この他対ロシア外交、教育基本法問題なども小渕と森が最後に話をした4月1日に政治課題として意識していた[24] し、対アフリカ外交についても小渕が計画していたものであるとの指摘がある[25]。
首相としての最初の外国訪問地にはロシアを選択し、ソ連との親善に努めてきた父の遺骨の一部があるシベリアの日本人墓地へプーチン大統領とともに訪れた。
中央日報は徹底的に計算された行動であり、 プーチンは東方経済フォーラムで「我々の過去が未来に進むことを妨げてはいけない」と発言させ安倍晋三首相の意中を伝達する窓口を2013年以後は務めていてプーチン大統領とお互い「ヨシ」「ワロージャ」という愛称で呼び合う関係だと報道している[26]。
また、所信表明直後に前から予定されていた医師の診断を受けたところ前立腺にガンが発見された(後述)。そのため数々の「失言」が槍玉に挙がって批判がヒートアップする前から自分の政権は短命であると自覚しており、「何かきちんとのこさないといけないと思った」という[27]。
4年後の論座での証言では癌を理由に「就任時から1年で辞めることを決めていた」と述べた[28]。癌であることが発覚すると首相が二代連続して健康問題に晒されることになるため、森は抗がん剤で症状を抑えつつガン告知を黙ったまま首相を務めることにしたが、論座編集部は『自民党と政権交代』のあとがきで指導者という地位が持つ孤独性として印象的であると述べている。
『自民党と政権交代』では辞意についてプーチンと2001年3月にイルクーツクで行った会談で伝えたのが最初であった[29]。だが、その半年ほど前に『文藝春秋』でのインタビューにて小渕恵三から引き継いだ政治課題を達成したら総理を辞めてもよい旨を語っている[30]。
なお、総裁選を経て首相となった小渕については、マスコミを絡めて「小渕さんも随分口汚く罵られていましたよね。マスコミ攻撃までも引き継いでしまったようでした」と語っている。
また、この不規則登板の中終始バックアップしてくれた人物として政調会長の任にあった亀井静香を挙げ、首相辞任の際に「本当のことを言えず、彼のポストの手伝いも出来なかった」と述べている[31]。
―以下省略―
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