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  大河ドラマ:本能寺の変 !織田信長の死角は「ガバナンス」軽視 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2021 年 2 月 07 日 17:15:45: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

   大河ドラマ:本能寺の変 !

    織田信長の死角は「ガバナンス」軽視 !

    企業トップ解任劇と同じ道

(news.yahoo.co.jp:2021年2/7(日) 15:15)

本能寺の変(1582年、天正10年)に関する研究が進んでいる。織田家のナンバー2だった明智光秀は、新しい人事政策や担当分野の政策転換などで追い詰められ、謀反しようとする主君を家老の斎藤利三が強力に支援した。企業のトップ解任に通じる造反劇の経緯を追った。

※ガバナンス:(「統治」を意味する。すべておさめること。)

◆トップ解任を実現させるのは実務メンバー

 三越・岡田茂社長の解任(1982年)、関西電力・芦原義重名誉会長の退陣(87年)、住友銀行・磯田一郎会長の引退(90年)、フジサンケイグループ・鹿内宏明議長の追放(92年)……カリスマ的な経営者が、取締役会の緊急動議で失脚させられるケースは少なくない。21世紀に入ってからも、百貨店業界の名物社長が、不本意な辞任を余儀なくされた事例があった。ただ解任を成功させるエンジン役は根回しなどを担当する実務メンバーだ。次期社長や解任動議の発案者ではなく、もっと下位の役職者らがカギを握る。
 三越・岡田社長の解任へ向けて最初に動いたのは、代表権を持つ常務だったとされる。住友銀行で部長会の意見をとりまとめ、「磯田引退」へ巽外夫頭取(当時)の背中を押したのは、西川善文常務(後の頭取)だったと、同氏が自著で述べている。トップとの人間関係が近すぎず、中堅層の考えも取り入れられる立ち位置の方が、組織の問題点や弱点が見えるのかもしれない。

◆京都市内に拠点、情報を把握していた明智光秀 !

 本能寺の変では斎藤利三が実務を担った。歴史研究の桐野作人氏は「利三は変事前夜の亀山城での謀議に参加し、先陣として本能寺を攻め、信長の供養という名目で寺社への献金を取り仕切った」と指摘する。明智軍団のエンジン役だ。戦国時代に、優秀な腹心が主君の意思決定を左右する例は少なくない。例えば光秀の前に信長へ造反した荒木村重だ。謀反を疑われた村重は、信長への弁明のために安土へ向かう途中、与力大名の中川清秀に「今さら弁解しても信じてもらえず、安土で処罰されるだけ。いっそ謀反に踏み切った方が良い」と説得されたという。そのまま本拠地に帰って籠城した。
 「光秀本人が信長襲撃を最終的に決断したのは2日前」と桐野氏が推測する理由は、その日がわずかな家臣団を連れて本能寺に入った当日だからだ。京都市中に光秀は屋敷を所有しており「手薄な警備の状況は容易に把握でき、確実に信長を打倒できるという確信を得たはずだ」と桐野氏はみる。利三が報告したのかもしれない。

◆明智光秀がこだわった ?行動経済学のサンクコスト

 最近研究が始まった「乙夜之書物(いつやのかきもの)」という史料に、桐野氏は注目する。奇襲に参加していた光秀の家臣が語ったとされる内容だ。亀山城の謀議では、主君の光秀が家臣の利三を待ちかね、到着すると、わざわざ手を取って出迎えたという。当日の襲撃も、実際の戦闘は利三らに任せ、本陣は京都南部に置いたとしている。桐野氏は「詳細な分析はこれからだが、利三への完全な信頼と、信長の手勢が少人数なことを把握している様子が読み取れる」と話す。
 それでも21世紀の我々は、光秀の行動に不合理なものを感じてしまう。行動経済学的な視点を援用して考えてみるのも一法だろう。440年前の出来事だけにアカデミックな実証分析はできないが、光秀の思考法がうっすらと見えてくるかもしれない。
 近江・坂本城の根拠地を失っても、後で2カ国を受けとれるならば、中央を離れても領地は大幅に増える。それに拒否反応を示すのは、プロスペクト理論における損失回避の心理が働いたという可能性は残る。後に羽柴(豊臣)秀吉が反転攻勢してきた時、利三は坂本城への撤退を進言したが光秀は拒否した。坂本城は当時安土城に次ぐ名城で、軍事的には利三案がベストだった。桐野氏は「京都の明け渡しは政治的に不利だと考えたのだろう」と推測する。本能寺の変時から積み上がっていたサンクコスト(埋没費用)にこだわって、光秀は判断を誤ったのかもしれない。
 行動経済学は、伝統的な経済学では説明しきれない「人々が時には経済的に不合理な選択もする」ことをを研究するために生み出された。現代人の消費行動などを分析するが最近は応用分野が広がっている。牧野邦昭・摂南大教授は行動経済学の理論を用いて、太平洋戦争を決断した旧軍部ら指導者層の背景を立証した。

◆「本能寺の教訓」をいかした、豊臣秀吉・徳川家康

 「信長の第1のミスは京都に要塞=居城を築かなかったことだ」と桐野氏は断言する。
本能寺を取り囲まれた織田信長は、脱出もできず、戦闘は短時間に終了したというのが最近の学説だ。軍事的な拠点で抗戦すれば違った展開もあり得ただろう。この教訓をいかしたのが、後の天下人なった豊臣秀吉だ。光秀に勝利した後は、山崎城、妙顕寺城、聚楽第、伏見城と、晩年まで京都郊外か市中に堅固な城塞を保持した。
 もっと大きなミスとして桐野氏は「織田家の領国支配を規定する分国法(法)を制定しなかったこと」を挙げる。ガバナンス軽視だ。稲葉一鉄と光秀がヘッドハンティング巡って争った一因は、織田家に規定が存在しなかったためとされる。戦国大名の武田氏や今川氏は成文化した法律を定めたが、織田家では信長自身が、「法」で終生変わらなかった。
 昭和のミリオンセラー作家・司馬遼太郎は「国盗り物語」の中で光秀に「織田家では信長のみが優れている」と語らせている、恐らくその通りだっただろう。しかしその結果は、信長の裁定や判断を不当と幻滅させて、不信感の増大から信長一人を打倒すれば良いといった考えを生じさせかねなかった。この点を反省したのが徳川家康だった。家康は大名だけでなく朝廷や公家らも法的に拘束する多くの「諸法度」を定め、約260年間続く徳川幕府の基礎を固めた。(松本治人)

○本能寺の変:明智光秀を決起させた「転職エグゼクティブ」

(bizgate.nikkei.co.jp:2021/2/6)

トップ解任――。本能寺の変(1582年、天正10年)は、440年前の「カリスマ経営者」追放劇だ。絶対的な権力者を強制的に交代させる際、成否を分けるのは次期リーダー本人よりも、腹心や協力者の働き次第というケースが少なくない。現代の企業社会ならば取締役会での事前の多数派工作、戦国時代ならば反対派を圧倒する戦場の指揮がポイントとなる。明智光秀の決起を促したとみられるキーパーソンが、家老の斎藤利三だ。一般には知られていないが軍事、行政、外交に優れた手腕を発揮した「エグゼクティブ転職組」だった。最新の史学研究などから真相を探った。

※エグゼクティブ:経営幹部。重役。転じて、高級。ぜいたく。

◆「黒幕説」はほぼ否定、明智光秀単独説が有力に

 豊臣秀吉、徳川家康、足利義昭(15代将軍)、近衛前久(前関白)、朝廷、キリスト教イエズス会――。本能寺の変に関しては、光秀が外部から使嗾(しそう)されたという「黒幕説」がついて回り、何らかの形で疑われた人物・組織は多い。しかし歴史研究家の桐野作人氏は「21世紀に入って史料に基づいた研究が進み、黒幕説はほぼ否定されている」と話す。桐野氏は心理的に信長に追い詰められた光秀と、明智家中ナンバー2の斎藤利三が企画・実行したとみる。当時の公家の日記には「日向守内斎藤蔵助、今度謀反随一也」とした記述が残っているという。本能寺の変直後から首謀者のひとりとみられていた。
 斎藤利三は信長と同世代。桐野氏は「明智家に迎え入れられる以前は、織田家に属した西美濃三人衆・稲葉家の客分格だった。四国・三好家や美濃・斎藤家に仕えた可能性もある」という。武勇で知られた存在だった。蒲生氏郷(後に会津92万石)とのエピソードなどが伝えられている。氏郷は若い頃の戦場で、利三のアドバイスに従って大きな戦功を立て、信長の目に留まったことが出世のきっかけとなった。
 戦国時代は産業・技術革命の時代でもあった。軍事面では鉄砲が量産され、攻城戦に鉱山技術や土木工法が応用された。利三は現代のIT技術者のように引く手あまただっただろう。「活躍できるより大きな舞台を求めて、最終的に明智家へ移ったのではないか」と桐野氏は推測する。戦場の指揮だけではなく、行政面でも領国内の重要拠点である丹波・氷上地域を担当した。

◆「織田信長CEO・明智光秀COO」で運営した織田家

桐野作人氏:武蔵野大政治経済研究所客員研究員。戦国・安土桃山時代などに精通し著書に「本能寺の変の首謀者は誰か」(吉川弘文館)など
 外交面では長宗我部元親との縁戚関係を利用し、光秀の担当する対四国外交の実務面を受け持った。羽柴(後の豊臣)秀吉にも元親を紹介し、人脈作りを手伝ったという。準・プロ経営者ともいうべき働きぶりで、「光秀と利三は、斎藤道三を挟んだ何らかの縁もあったかもしれない」と桐野氏。ともに連歌や茶会に参加するなど文化レベルも共有し、上司・部下というより同志的な関係に近かった。
 織田家自体が鉄砲の大量採用を始め、大砲の使用、鉄製の大型船建造など最新技術を取り入れて急成長した当時の「ハイテク企業」だ。知将・能吏・教養人のイメージも持つ光秀は「個人的に鉄砲技術に優れ、琵琶湖上からの大砲攻撃を試みていた」と桐野氏。軍事テクノクラートであることが、織田家入りしてから4、5年で重臣の仲間入りし、さらに筆頭格まで上り詰めた光秀の原点といえる。天正年間に入って織田家は攻略地域別に重臣を配置する「方面軍」を組織した。北陸・柴田勝家、中国・羽柴秀吉、関東・滝川一益――。現代の事業部制、分社化をイメージさせる組織構成で、光秀が担当したのは本社機能が集中する近畿地区だった。
 京都周辺の「検地」(太閤検地の先駆け)や、正親町天皇が希望したという京都の「馬揃(そろ)え」イベントなど、織田家全体の重要施策の責任者にも任命された。信長が人事権を掌握するCEO(最高経営責任者)ならば、光秀はCOO(最高執行責任者)という立ち位置だ。桐野氏は「自分がナンバー2という意識を、光秀は強く持ったのではないか」とみる。
 ただ天正9、10年頃から情勢が大きく変化した。ひとつは信長の新たな人事構想だ。勝家、秀吉ら重臣には遠隔地で2カ国など大きな領地を与え、京都、安土城周辺の畿内は一回り若い世代に統治させるというものだった。信長にとって年長か同世代の重臣よりも、若い時分から長年身近に仕えさせた「信長スクール」の卒業生である側近層の方が、より使いやすいのは明らかだ。
 桐野氏は「まず秀吉の近江・長浜城は堀秀政に、前田利家の越前・府中城は菅屋長頼にという構想が進んでいたようだ」と話す。光秀も山陰地方などでの2カ国統治と引き換えに近江・坂本城が召し上げられる可能性があったと指摘する。桐野氏は「生え抜きの秀吉らは納得できても、途中入社組で、ほかの重臣より優位にあると思っていた光秀には、心理的ハードルが高かったのではないか」と推測する。

◆同じ織田家中からヘッドハント、激怒した、織田信長 !

 さらに四国政策を信長が180度転換した。信長と長宗我部元親との連携は天正6年頃から始まり、当初は四国制覇を目指し中央権力と結びつきたい元親と、宿敵の本願寺・毛利の背後をけん制したい信長とはウィンウィンの関係。嫡男の長宗我部信親は、正式に信長から「信」の1字をもらった関係で、取り持ったのが光秀や利三だった。ところが天下統一が現実になりつつある同10年に至って、信長が元親の勢力伸長に待ったをかけた。進行中の阿波侵攻の停止を命じたのだ。「織田氏の軍事的支援を受けずに独力で領土拡大してきた元親は、当然反発した」と桐野氏。
 光秀と利三は、カリスマ社長のムチャぶりを何とか協力会社に受け入れさせようとする担当役員・部下といった立場に置かれた。相手側の主張に正当性があることは百も承知で、説得を繰り返した。「今後も粗略にしないと光秀も言っているので静穏に収めてくれることが大事だ」と記した利三の手紙が残っていると、桐野氏は話す。現代でも使えそうな言い回しだ。その一方で信長自身は三男・信孝と重臣の丹羽長秀らに四国侵攻の準備を進めさせていた。
 難局が続く中で、今度は利三自身が信長の激怒を買った。ヘッドハントした人材に企業が厚遇を示すのは、本人の能力のみならず、さらに多くの人材を呼び寄せてくれることを期待しているからだ。440年前の利三も、自らの人脈をいかして優秀な武人を明智家へ引き抜いた。ただ問題は、かつて客分として仕えた稲葉家からのヘッドハンティングだったことだ。何度も持って行かれてはたまらない。稲葉一鉄は信長への訴訟を起こし、怒った信長はヘッドハントされた者の差し戻しと利三の切腹を命じた。天正10年5月と推定されている。
 信長は意外に思っただろう、光秀は徹底的に抵抗した。光秀にも言い分はあった。織田家中に明確なルールはなく、以前柴田勝家の家臣をヘッドハントした時は問題視されなかった。利三を外しては明智軍団は運営できない、何ものにも代えがたいといった切羽詰まった気持ちで、光秀は信長に直接抗弁したようだ。最後に利三は助命されたものの「光秀は信長から直接打ちたたかれたということが宣教師ルイス・フロイスの『日本史』や『稲葉家譜』など複数の記録に残されている」と桐野氏。変事の約半月前のことだったらしい。
 利三が「もうついて行けない」と信長打倒を決心したのは、この時期だった。ただ光秀には、傷害まがいのパワハラ行為を受けても、抜てきを受け続けてきた信長との深く長い人間関係があった。「最終的に本能寺の奇襲を決断したのは2日前」と桐野氏は推定している。(松本治人)


 

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