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  作家の半藤一利さんが老衰で死去、90歳 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2021 年 1 月 14 日 18:24:15: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

   作家の半藤一利さんが老衰で死去、90歳 !

      半藤一利さんのプロフィールとは ?

(www3.nhk.or.jp:2021年1月13日 20時27分)

昭和史の研究で知られ、戦争などをテーマに数多くのノンフィクション作品を発表してきた、作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが亡くなりました。90歳でした。
半藤一利さんは、昭和5年に東京で生まれ、東京大学文学部を卒業後、出版社の文藝春秋に入社して、「週刊文春」や「文藝春秋」の「編集長」などを歴任しました。
探偵のような鋭い目で歴史を探究する「歴史探偵」を名乗り、昭和史などをテーマに数多くのノンフィクションを発表してきました。
昭和20年8月15日の玉音放送に至る、24時間を綿密な取材で再現した、「日本のいちばん長い日」などの作品で知られ、昭和の歴史を読みやすい文章でつづった「昭和史」は、ベストセラーになりました。
昭和14年に起きた、旧ソビエト軍との軍事衝突、ノモンハン事件での旧日本軍のエリート参謀の無謀な作戦ぶりを批判した、「ノモンハンの夏」で、平成10年に、山本七平賞を受賞したほか、平成27年には、優れた文化活動に携わった、個人や団体に贈られる、「菊池寛賞」に選ばれています。
また、NHKの「その時歴史が動いた」など歴史番組に多く出演し、わかりやすい語り口で解説をしてきました。
関係者によりますと、12日、東京 世田谷区の自宅で、倒れているのが見つかり、その後、死亡が確認されたということです。

◆死因は老衰、家族のみで葬儀 !

文藝春秋によりますと、半藤一利さんは12日正午ごろ、自宅で「老衰」のため亡くなったということです。また、葬儀は、家族のみで執り行うということです。

◆歴史家・秦郁彦さん:「昭和史の第一人者」

半藤さんと長年、昭和史の研究に取り組んでいた、歴史家の秦郁彦(はた・いくひこ)さん(88)は、「ともに東京大学で学生だったころに知り合い、卒業後も、半藤さんが『文藝春秋』の編集長を務め、私は記事を寄稿するといった、編集者と作家の関係だった。
また、昭和史を中心とした、歴史探究を行う活動を長年続けていたが、半藤さんが、去年の初めに体調を崩したため、中断を余儀なくされ、回復したら活動を再開しようと約束していた。
半藤さんは、昭和史を一般の人にもわかりやすくかみ砕くとともに、学術的に遜色のない内容として伝え、高い評価を受けていた。
その背景には、事実の究明に厳格な姿勢があって、歴史を深く広く見つめていて、まさに昭和史の第一人者だったと言える。残念でほかなりません」と話していました。
また秦さんは、「ジャーナリストとして、イデオロギーを超えた中立な視点で、歴史の謎や課題を検証する姿勢を持っていた。昭和史については専門家と並ぶほどの知識を持ち、編集者として一緒に仕事をした、松本清張や司馬遼太郎からも一目置かれていた。また、その知識を一般に広めたことも半藤さんの大きな功績だ」と話しました。
そのうえで「人間としても魅力的で、歴史について議論していても、半藤さんがその場にいると口論やけんかになることはなく、みんな楽しそうだった。長年、語り合ってきた仲間を亡くし、体の一部が持っていかれたようなさびしさがある」と半藤さんをしのんでいました。

◆保阪正康さん:「近現代史を『足で書く』先駆者だった」

半藤さんとの共著が多く、親交が深かったノンフィクション作家の保阪正康(ほさか・まさやす)さん(81)は「近現代史を『足で書く』先駆者だった。歴史を事実で語らしめるために、その時代に生きていた人たちがどういう気持ちで戦争と向き合ったのかを取材したり、資料をあさったりして徹底的に事実を解明しようとする実証主義的な方法を確立した。この道をきちんと守っていくことが日本にとって大事だと思う」と話しました。
そのうえで「半藤さんは、東京大空襲を経験をしたが、『自分だけが特殊な経験をしたと思われたら困る』と言って、長年、そのことをあえて口にしていなかった。15年ほど前からは意図的に語るようになったが、それは、『戦争体験をした人が亡くなっていき、戦争が現実にどんなものかを知らないで議論しているが、これほど危険なことはない。話す人がいなくなったことで戦争が軽く考えられては困る』という思いからだった」と述べました。
半藤さんと保阪さんは、上皇さまの退位の前に上皇ご夫妻との懇談を重ねていて、去年11月、保阪さんが半藤さんに電話で相談したところ、「もう疲れた、体がもたない」などと話していたということで、「体の状態がよくないことは聞いていたので心配していたが、亡くなったと聞いてすごくショックを受けた」と話しました。
そして保阪さんは最後に、「半藤さんが歩んできた道を私たちはきちんと継いでいくよ、つないでいくよ、だから安心してくれと言いたい」と話していました。

(参考資料)

作家・半藤一利さんのプロフィールとは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

半藤 一利(はんどう・かずとし、1930年〈昭和5年〉5月21日生まれ2021年〈令和3年〉1月12日死亡。)は、日本のジャーナリスト、戦史研究家、作家。近現代史、特に昭和史に関し人物論・史論を、対談・座談も含め多く刊行している。

◆来歴

先祖は長岡藩士。東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区)に生まれる。実父は運送業と区議をつとめる。近所に幼少期の王貞治が住んでおり顔見知りだった[1]。東京府立第七中学校に入学、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では逃げまどい中川を漂流し、死にかける体験をする[2]。茨城県の県立下妻中学校を経て、父の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎え、そこを卒業後東京へ戻る[3]。
浦和高等学校 (旧制) (学制改革のため1年間で修了) を経て、東京大学へ進学。大学ではボート部で活躍した[2][4]。東京大学文学部国文科卒業。
ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で1953年(昭和28年)に文藝春秋新社に入社した。同期入社に田中健五[5]。流行作家の坂口安吾の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、坂口に弟子入りしたと称している。続けて当時『連合艦隊の最後』などで人気を博していた軍事記者の伊藤正徳の担当となり、日本中の戦争体験者の取材に奔走し、『週刊文春』に無署名で「人物太平洋戦争」を連載した。
このときに歴史の当事者は嘘をつくことを学び、これらの経験が後に昭和の軍部を描いた作品を書く素地となった[2][3]。
社内で「太平洋戦争を勉強する会」を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催。ここから生まれた企画が『文藝春秋』1963年8月号に掲載された28人による座談会「日本のいちばん長い日」である。半藤は座談会の司会も務めた。
さらに取材して1965年に単行本『日本のいちばん長い日--運命の八月十五日』を執筆。売るための営業上の都合から大宅壮一の名前を借りて大宅壮一編集として出版された。単行本は20万部、角川文庫化されて25万部が売れた[3][1][6]。この他にも30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出す[1]。
『漫画読本』の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、『増刊文藝春秋』編集長に。ムック「目で見る太平洋シリーズ」「日本の作家百人」「日本縦断・万葉の城」を手掛けた。次いで『週刊文春』編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執る[2]。
1977年4月に『文藝春秋』編集長の田中健五と入れ替わる形で、田中が『週刊文春』編集長に、半藤が『文藝春秋』編集長に就任。新聞広告や電車の中吊り広告で「編集長が代わりました」と宣伝が打たれて話題を集める[7]。1980年には季刊誌『くりま』の創刊編集長となるが、2年後に第9号で休刊した[2][8]。
この間の編集長時代の13年ほどは本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていた[1]。
1993年、『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞を受賞。
出版責任者として「書き下ろしノンフィクション」シリーズを手掛け、1988年に全3巻の『「文芸春秋」にみる昭和史』を監修。専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し[2]、本格的に作家へ転身した。近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、「歴史探偵」を自称する[1]。活動の場をテレビにも広げており、NHK『その時歴史が動いた』など歴史番組にもよく出演している。
1998年、『ノモンハンの夏』で山本七平賞、2006年、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞。
2006年(平成18年)7月20日に『日本経済新聞』が「昭和天皇が靖国神社A級戦犯合祀に不快感」と報じた際には、元資料となった「富田メモ」(宮内庁長官を務めた富田朝彦の日記メモ)を、日本経済新聞社の記事化前に秦郁彦らとともに鑑定し、これを本物と断定した。
2009年に語り下ろしで出版された『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』は単行本で45万部、平凡社ライブラリーでは23万部の売れ行きを示した[9]。
2015年、第63回菊池寛賞受賞[10]。
2021年1月12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが発見され、死亡が確認された[11]。90歳だった。

◆人物

文藝春秋社内では『諸君!』を創刊してタカ派スキャンダル路線と言われた田中健五とは距離を保っていた[5]。原子力発電所については人間の手に負えない危険なものとして懸念してきた[12]。太平洋戦争(大東亜戦争)当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的である。昭和天皇については、当時の軍部による暴走を押し留めようとしたことを肯定的に評価しているが、昭和天皇の戦争責任についても否定していない。近年[いつ?]は、護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のが持論である。
当時の社内では昭和史と太平洋戦争を勉強する者は珍しく「お前は『半藤』ではなく『反動』だ」と言われたという[6]。
自身はこの言葉を、「歴史に逆行する」、「分からず屋の反近代主義者」という意味の批判と認識しており、戦争に詳し過ぎるゆえ危ない人間と見られていたと語っている[13]。
作家司馬遼太郎とは、半藤が『文藝春秋』編集者時代からの付き合いであり、親交が深かった。司馬の没後、関連論考・著書を発表した。また半藤は司馬が書こうとして書けなかった、『ノモンハンの夏』を執筆した。同じく長い付き合いのある秦郁彦や保阪正康との共著も多い。
日本近代史の歴史観において、「40年史観」を提唱している[14]。その主張は、明治以降の日本は40年ごとに興廃を繰り返しており、明治政府樹立から40年後である日露戦争で軍事大国化し、その40年後の第二次世界大戦で大敗し、さらに40年後にはバブル期の経済的絶頂をむかえ、バブル崩壊後の40年後には再び没落するという予測[15]。その理由として、戦争による悲惨さを経験した世代が入れ替わる期間が40年ほどであるためとしている[15]。
文春文庫ビジュアル版の「B級グルメ」シリーズでも記事を執筆している。

◆親族

妻の半藤末利子は、松岡譲(作家)・筆子(夏目漱石の長女)夫妻の四女で、漱石周辺に関する随筆を多く執筆している。
義祖父:夏目漱石(小説家)、義祖母:夏目鏡子(随筆家)
岳父:松岡譲(小説家)、義叔父:夏目純一(バイオリン奏者)
義叔父:夏目伸六(随筆家)、妻:半藤末利子(随筆家)
義姉:松岡陽子マックレイン(文学者)
このほかにも、夏目房之介(義従弟)など遠縁の著名人が多数いるが、ここでは半藤一利の親族に該当する者のみを図示した。

◆賞歴

1993年 - 第12回新田次郎文学賞 (『漱石先生ぞな、もし』)[16]
1998年 - 第7回山本七平賞(『ノモンハンの夏』)[17]
2006年 - 第60回毎日出版文化賞特別賞(『昭和史』)[18]
2015年 - 第63回菊池寛賞[19]
―以下省略―

 

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