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箱根駅伝:駒沢大学が歴史的逆転V !
3分19秒差を10区・石川がひっくり返す ! 大八木監督「お前は男だ !」
駒沢大学とは ?
(news.yahoo.co.jp:2021年1/3(日) 13:28配信)
スポーツ報知:10区 逆転でゴールした10区アンカーの駒大・石川拓慎
◆報知新聞社後援 第97回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)復路(3日、芦ノ湖―読売新聞東京本社前、5区間=109.6キロ)
◆駒沢大学が創価大学を逆転して、優勝 !
学生3大駅伝単独最多22勝を誇る駒大が、10区で3分19秒差を逆転して、13年ぶり7度目の優勝を果たした。出場わずか4回目ながら初優勝を目指した創価大学のアンカー小野寺勇樹(3年)を、駒沢大学・石川拓慎(3年)が残り2・1キロ付近で逆転した。
序盤から攻めの走りを続けた駒大の石川。ペースの上がらない創価大との差をじりじり詰めると、残り2・1キロ付近でとらえ、一気にスパート。3分19秒、距離にして約1キロ以上あった差をひっくり返した。監督車に乗っていた大八木弘明監督も「やったね! お前は男だ!」とねぎらった。
往路を1位創価大と2分21秒差の3位で終えた駒大。6区花崎悠紀(3年)が区間賞の走りを見せたが、区間上位で走り続けるトップの背中をなかなかつかめなかった。
万事休すと思われたが、最終10区での大逆転が待っていた。
創価大学は、初期の1〜3回大会を除くと、5度目の出場だった、1926年の第7回大会で初優勝した中大を超えるスピード優勝を目指したが、史上18校目の箱根路の覇者とはなれなかった。
大会を主催する関東学生陸上競技連盟は新型コロナウイルス感染防止対策として、駅伝ファンに「観戦や応援目的での外出はお控えください」というメッセージを発信。例年、スタートの大手町は早朝から大観衆が詰めかけるが、この日は人影まばら。普段とは違う雰囲気の中、駒大が栄光のゴールを迎えた。―報知新聞社―
(参考資料)
駒沢大学とは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
駒澤大学(こまざわだいがく、英語: Komazawa University)は、東京都世田谷区駒沢一丁目23番1号に本部を置く日本の私立大学である。1925年に設置された。大学の略称は駒大(こまだい)、駒澤(こまざわ)。
概説:
道元禅師:曹洞宗の開祖
1200年 - 1253年
大学全体:駒澤大学は、日本の仏教宗派の一つである曹洞宗が1592年に設立した吉祥寺の学寮(吉祥寺会下学寮)を起源とする旃檀林(1657年命名)が発展した大学である。また駒沢キャンパスがある駒沢大学駅周辺は、高級住宅街があり、都内でも有数の治安の良い地域[1] であるとされる。
◆建学の理念
駒澤大学は「仏教」の教えと「禅」の精神を建学の理念、つまり教育・研究の基本とする大学である。[2]
仏教は、物事を正しく理解する「智慧」を獲得し、それを「慈悲」の心で周囲に役立てることを目指す。しかし、それらは外だけに向けられるものではなく「智慧」も「慈悲」も、自己を離れては存在しえない。そこで、本来の自己を見つめる「禅」の心が活かされてくる。己れの、内と外、体と心、それらをひとつにして道をきわめてゆくことを、道元は「身心学道」と表現した。
駒澤大学はいわば、この「身心学道」を、現代社会において実践しようとしている大学である。駒澤大学が養成しようとしているのは、常に本来の自己にたちかえりつつ、最新の学問を修め、現代の社会に活かしていく人材である。
駒澤大学の建学の理念をわかりやすく表現した言葉として、「行学一如」と「信誠敬愛」がある。
◆行学一如:
修行(実行・実践)と修学(学問・研究)は一体で、互いに影響し合って発展していくという禅の思想に由来する言葉。
◆信誠敬愛
大乗仏教に説く自利と利他の精神を敷衍して、自己を磨くには、誠の心をもってし、他者のために尽くすには、深い慈しみの心をもってすべきということ。
◆教育および研究
駒澤大学は創設の経緯から「仏教学部」を設置し、仏教研究を行う仏教学科と、禅学科を併設している。
近年では、2003年に日本唯一の医療健康科学部を開設し、診療放射線技師の育成を行っている。
2006年には、グローバル・メディア・スタディーズ学部を開設し、世界を舞台に活躍できる語学力と情報リテラシーを備え、メディアやコンテンツの本質を深く理解し駆使する力を備えた人材の育成に取り組んでいる。
◆学風および特色
スポーツで有名であり、主に陸上、サッカー、野球、ボクシング、空手が盛んである。
文化部では、吹奏楽部の活躍が目覚ましい。
○曹洞宗とは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。
◆洞山良价(悟本大師)
中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。
◆歴史:
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている[1][2]。また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑒慧能、638 - 713年)から採られている、という解釈がなされている[1](道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(? - 902年)につながる系統であったためである)。
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思−石頭希遷−薬山惟儼−雲巌曇晟−洞山良价−‥‥とつづく法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
◆中国における曹洞宗:
石頭希遷僧:洞山良价から5代下った大陽警玄(943年 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032年 - 1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された[3]。
次代の芙蓉道楷(1043年 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1089年 - 1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089年 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。
この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永璵(1285 - 1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた[3]。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081年 - 1149年?)、大明僧宝(1114年 - 1173年)、王山覚体(1121年 - 1174年)、雪巌慧満(1136年 - 1206年)を経て、金代に万松行秀(1167年 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕(? - 1274年)、耶律楚材(1190年 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215年 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
◆日本における曹洞宗:
道元:日本仏教における曹洞宗は鎌倉時代に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、1226年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、
洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗玨 - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元
となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムとしての宗派を否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268年 - 1325年)とその後席峨山韶碩(1275年 - 1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった[4]。 曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
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