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石破茂議員は終わったのか ?憲政の神様の言葉を胸に「人生の本舞台は常に将来に在り」
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投稿者 青木吉太郎 日時 2020 年 12 月 30 日 17:00:13: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

   石破茂議員は終わったのか ? 憲政の神様の言葉を胸に

   「人生の本舞台は常に将来に在り」【特別インタビュー】

     石破茂元幹事長のプロフィールとは ?

(www.nikkan-gendai.com:2020年12月30日 9時26分)

「石破茂は終わった」。自民党総裁選で3位に沈み、そんな声も聞かれた。2021年秋にも再び総裁選が行われる。菅総理がそのまま続投となるのか、それとも……。ズバリ、石破氏の本音を探った。
石破茂氏はどこへ…悲愴の派閥会長辞任から立て直せるのか ?
  ◇  ◇  ◇
 ――総裁選から3カ月経ちましたが、この間、どんなことを考え、行動してきましたか。
 できたばかりの新政権で、キャッチフレーズは「国民のために働く」です。国民が「俺たちのことを本当に理解してくれているな」「誠実に働いてくれているな」と思ってもらえるようにしなきゃいけない。私も自民党の一員として、掛け値なしにそう思いますね。
 
――菅総理については?

 当面は安全運転に徹する、というようにお見受けします。書いたものばかり読んでいるじゃないかとか、いろいろ言われているようですが、アドリブでうっかり失言してしまうよりは、はるかにいいでしょう。やはり官房長官と総理は違うので、一定程度は慣れのようなものも必要でしょうし、年が替わって、4カ月なり、5カ月になるとだんだんご自身のカラーが出てくるのではないかな、と思っています。

 ――総裁選後に派閥(水月会)会長辞任を表明しました。

 国民の意識、あるいは自民党員の意識と、国会議員の意識に、どこか乖離がある。これは一体、どういうことなんだろうね、とずっと思っているんですよ。党内総主流派、派閥がそれぞれの領袖を総理に推さない、代わりにポストを得るというスタイルが増えています。それが自民党の活力をそいでいるのではないか、ではどう変えたらいいのか、そもそも派閥って何だろう、ということを私自身考えてみたかったということもあります。

◆自民党は下野時の反省を忘れてはいけない

 ――2021年秋にまた総裁選があります。水月会は会長不在のまま存続するようですね。石破さんの決断を待とうということかなと思いますが、次の総裁選についてどうお考えですか。
 われわれ衆議院議員の任期が10月まで、総裁任期が9月まで、まだ9カ月もある。この時点で「次もやります」っていうのは変だし、その時、何がどうなっているのか分からないのに「私は絶対にやりません」と言うのも変でしょう。9月(2020年)に菅さんや岸田さんと戦った総裁選では、演説にしても質疑応答にしても、自分なりに納得できるものでした。外交政策、憲法、財政政策、社会保障政策と私なりに一つの完成形みたいなものを持って臨んだつもりでした。それをもう一度、きちんと検証しようと思っています。

 ――検証ですか?

 野党がダメなのをいいことに「どうだ俺たちはすごいだろう」って言っていてもしょうがないでしょう。それよりも、自民党が下野して旧民主党に政権を渡さなければならなくなった時の反省を、もう一度原点とするべきです。

民主党政権の3年3カ月、私は政調会長や予算委員会筆頭理事、幹事長という立場でしたが、多くの議員・党員とともに、自民党はどういう政党であるべきか、本当に考えに考え抜きました。そして、自民党は勇気をもって闊達に真実を語る党であろう。

連合でも、平和団体でも、たとえわれわれと立場を異にしたとしても、あらゆる組織と協議する党であろう。そして、国会を公正に運営し、政府を謙虚に機能させる党であろう。こういう結論を得て、党綱領を新しく決めたんです。その原点を忘れてはいけない、そう思っています。

 ――メディアなどで「石破さんはもう総裁選を諦めた」などの報道が流れたりもしますが、諦めたわけではないのですね?

 先日、相模原市(神奈川県)で行われた「尾崎行雄(咢堂)杯演説大会」に行ったんです。「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄は相模原の出身なんですね。当選25回、94歳まで衆議院議員を務めたのですが、失意のどん底だった73歳の時に突如、天から言葉が降りてきてひらめいた。「人生の本舞台は常に将来に在り」と。

そこから彼はまた気を取り直して、一生懸命活動するわけです。「石破茂はもう終わった」とか「死んだ」とか報じられましたが、「勝手に殺すなよ」って話で、人がどう言おうと関係ない。自分が「俺はここまでだ」と思った時が終わりなんだと。私は自分が終わったとは思っていませんし、それでいいということじゃないですか。

◆青い鳥なんてどこにもいない !

 ――他党との連携の可能性はあるのでしょうか?

 かつて自民党を離党し、新進党の結成に参画しました。河野洋平総裁の下で、自民党は憲法改正を棚上げと決めるなど、本来の自民党ではなくなったと思いました。一方で当時の小沢一郎氏は新進党で、憲法は改正せねばならん、消費税は引き上げねばならないと、本来自民党が言うべきことを言っていた。これこそ真の保守だと、当選回数の若かった私はすごく共感したわけです。

だけど全然違った。あれほど人生で挫折を感じたことはありません。結局、自民党に戻りました。青い鳥なんてどこにもいないんです。自分の原点は自民党であって、みんなで自民党を良くしていかなきゃいけない。

「石破、早く離党しろ」みたいなメールもいっぱいくるけれど、どうもこの人たち自民党員じゃないなって(笑い)。そして、国が危機に瀕した時に対応できる自分であるかどうか。誰と組むとかにはあまり興味がないです。
(聞き手=小塚かおる/日刊ゲンダイ)

▽いしば・しげる 自民党衆議院議員。1957年生まれ。鳥取県出身。慶大法卒。79年三井銀行(現三井住友銀行)入行。86年衆院選で全国最年少(28歳)初当選。防衛相、農相、政調会長、幹事長などを歴任。鳥取1区選出。当選11回。

◆秋の総裁選は「乱立・乱戦」になる !

(ジャーナリスト・鈴木哲夫)

 石破氏の総裁選挑戦は4回目だったが、敗戦後、石破氏が私に語った本音には過去3回にはなかった深いショックを感じた。
「若かりしときに改革をやりたいと自民党を飛び出し、復党させてもらったが、党内は出戻りの私に冷ややかだった。あのときもつらかったが、いまあのとき並みにつらい」
 つらさには理由がある。今回ポスト安倍に向かっていままでにない努力をしていたからだ。

石破氏は2021年の総裁選へ向けて、二階俊博幹事長に頻繁に接触し、多くの若手議員らとも会い、いずれは官房長官だった菅義偉氏とも会うつもりだった。弱点と言われてきた苦手な人間関係の根回しを必死で重ねてきていた直後の敗北だったのだ。「虚無感や自己嫌悪も重なっている」と石破派議員は話した。

 だが、終わりではない。派閥会長辞任についても「もう総裁選は諦めた」との見方も出ているが違う。辞任の狙いは、自らの充電にもある。会長でなければ与野党、財界、全国各地、自由に人に会える。新たな人脈や支持基盤をつくるためだ。

 実はある席上、永田町関係者が、石破氏が胸ポケットから出して見ていたスケジュールの紙をのぞき見して驚いた。
「びっしり。ある日は分刻み。経済団体主催の会合や土日は地方、あと政治家や経済人と懇談なども書かれているのが見えた。とにかく年内は空白がまったくない。動いているんだなあと」

 さらに会長辞任は「首相を目指す最後の戦いに突っ込んでいくために、ついてきてくれる同志のみで再結束をはかりたい。そのためには自分がいったん閥務から身を引いて、派閥議員だけで意思確認をしてもらうため」(前出の石破派議員)でもあるのだ。 菅政権内部は取材すると決して盤石ではない。「菅・二階・安倍・麻生」の複雑な対立構図も顕著になってきた。

2021年秋の総裁選は、乱立・乱戦と私は見る。コロナ禍の中でのそんな権力闘争に嫌気が差す国民や自民党員が推すのは、まっとうな石破氏ではないか。

(参考資料)

石破茂元幹事長のプロフィールとは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

石破 茂(いしば しげる、1957年〈昭和32年〉2月4日生まれ。63歳 )は、日本の政治家。 慶應義塾大学法学部法律学科卒業。自由民主党所属の衆議院議員(11期)、自由民主党水産総合調査会顧問。血液型B型[2]。

防衛庁長官(第68代・第69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)、内閣府特命担当大臣(地方創生)、さわらび会会長、無派閥連絡会顧問、自民党たばこ議員連盟副会長、水月会会長などを歴任。

父は、建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣などを歴任した石破二朗[3]。愛称は「(イシバシ・)ゲル」。

◆経歴・出生、学生の頃

出身地については鳥取県八頭郡八頭町出身[4]、東京都生まれ[5]の説がある。父は建設官僚の石破二朗。父二朗が1958年に鳥取県知事になったので、茂に東京の記憶は全くない[5]。茂の出生時、父・二朗は48歳であり、二朗の秘書を務めていた高岩迪資によれば、自身の高齢の恥ずかしさから二朗は病院へ行きたがらず、高岩が代理で病院へ出かけていた。そのため病院側は、高岩が茂の父親と間違えたことがあったという[6]。

母親は、自身が国語教師だったということもあり、教育熱心な人物だった[5]。小学校の頃は毎晩1時間程度、偉人伝の朗読をさせられた[5]。鳥取大学教育学部附属中学校を経て、慶應義塾高等学校に進学した。

1979年、慶應義塾大学法学部法律学科(新田敏ゼミ[7])卒業[4]。慶大2年在学中に、全日本学生法律討論会で第一位[4]。

◆銀行員の頃

1979年、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行[4]。石破の三井銀行入行に関して、三井信託銀行社長を務めた鳥取県出身の土井正三郎は、「昭和五十三年初夏の頃石破(二朗)さんから令息・茂君の就職について相談を受けたことがありました[8]。

そのとき私は本人の志望会社を認められることを強調し、たまたま入社志望会社の人事担当役員が古くから親交がありましたので、石破(二朗)さんと一緒に訪ねたこともありました[9]。

又、令息の学業、クラブ活動の成績等は極めて優秀、希望通り採用内定し、その通知を受けられた、ご両親のご安堵の程が察せられたことを想起しています[10]」と述べている。東京都中央区にある本町支店に配属[4]。

◆衆議院議員

1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した[11]。1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった[4]。

なお鳥取県全県区からは田中派の平林鴻三が選出されていたが石破は1985年2月27日に田中角栄が脳梗塞で倒れた後、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄と通じ中曽根派から立候補した[12][注釈 1]。以後9期連続当選。

1988年9月2日、リクルート事件をきっかけとして武村正義、鳩山由紀夫らとともに政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成する[13][14]。
1990年の第39回では鳥取県全県区でトップ当選する。1990年、衆議院農林水産委員会理事に就任。1992年、宮澤改造内閣で農林水産政務次官。

1993年の宮沢内閣不信任決議を巡っては、与党の一員でありながら賛成票を投じるが、離党はせず、直後の第40回衆議院議員総選挙では、無所属で出馬し、再びトップ当選する。
1993年、細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けた後、自民党を離党。同じく自民党を離党した西岡武夫らと共に改革の会を結成した。

その後自由改革連合を経て新進党結党に参加。しかし、1995年に国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。

1997年3月、自由民主党に復党。
2000年、第2次森内閣で農林水産政務次官に任命される。
2001年、第2次森改造内閣で防衛庁副長官に任命される。
―以下省略―


 

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