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「3 密」が流行語大賞に ! 小池都知事“ワンワード政治”の歴史と危うさ
小池百合子氏の深層・真相は ?
(www.nikkan-gendai.com:2020年12/2(水) 9:26配信)
【小池知事「伏魔殿都政」を嗤う】#13
さすがは「言葉の人」の小池都知事である。新型コロナが席巻した今年、「3密」が2020年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれたのは当然と言えば当然だろう。小池知事自身、これで2005年の「クールビズ」のトップテン入りに続き、2度目の受賞となった。正確に言えば、「クールビズ」は当時、環境大臣だった小池知事の発案ではなく、一般公募による標語だが、受賞者は小池知事だった。目立ちたがりなのは、15年前から変わっていないのである。
ところが、そんな小池知事が過去に受賞を辞退したことが一度だけあった。2016年、都知事選で初当選した小池知事が都議会自民党を仮想敵と定めて攻撃材料に選んだのが、築地市場の豊洲市場への移転問題だった。
11月に迫った移転の延期を表明した直後、図らずも豊洲市場の建物下にあるべき「盛り土」がなく謎の地下空間が存在していたことが発覚。メディアは連日、「盛り土」という土木専門用語を報じた。
当時、東京都中央卸売市場の次長に着任した私は、異動した途端に盛り土と地下空間の大混乱に巻き込まれた。そして騒動がヒートアップする中、同僚とともにこんな替え歌を破れかぶれの心境で口ずさんでいた。♪モリドォ、イズミニィ、カーコーマレテー♪
■「盛り土」は私じゃない
それはそれとして、同年11月、市場当局に知事サイドから連絡が入った。「盛り土」が流行語に選ばれたというのである。関係者は一瞬、自虐的な喜びに包まれたが、小池知事は「私じゃない」と受賞を辞退してしまった。確かに「盛り土」をすると決めた上で、それをしなかったのは小池知事ではない。だが、それにしても残念なことをした。
翌17年になっても、小池知事の流行語大賞的な勢いは止まらない。この年、トップテン入りした「○○ファースト」は都議会議員選挙で圧勝した「都民ファーストの会」(都ファ)なくしては語れない言葉である。だが、個人的には、それよりも「排除します」を選んでほしかったと心底、思っている。
「都民ファ」圧勝の余勢を駆った小池知事は、自ら希望の党を立ち上げ、一気呵成に国政に打って出ようとした。その矢先、民進党(当時)議員の受け入れをめぐって、つい口を滑らせて出てきたのが「排除します」発言だった。
政治的には、リベラル派を丸呑みするのは余りに無節操であり、党首としては当然の発言だった。しかし、都民・国民は、このワンワードに政治家「小池百合子」の本性を見てしまったのである。言葉の政治家「小池百合子」が自ら発した言葉で自らの冷血さ、非情さを白日の下にさらしてしまうとは、なんと皮肉なことであろうか。
■最悪の裏切りワード「ダ・イ・ジョ・ウ・ブ」を忘れるな
実は「排除します」発言よりも、小池都知事の非情さを端的に言い表したワンワードがある。
それは何か。市場移転問題の際、築地女将さん会の代表者に、小池知事がささやいた「ダ・イ・ジョ・ウ・ブ」だったと私は確信している。
「排除します」発言から半年後の18年5月、小池知事は、神田明神の祭りを訪れていた。築地市場(当時)と神田明神とは切っても切れない関係にある。市場内に設置された水神社は神田明神から分祠されたものだからである。
女将さん会は、生粋の移転反対派だ。市場当局が豊洲移転を進めようとする中、彼女たちは一縷の望みを小池知事に託していた。当時、小池知事は、仮移転(いったん豊洲に移転して築地を整備した後、再び築地に戻ってくる)案を模索していた。
懐刀の特別顧問に至っては、築地市場の現在地再整備は可能との見解を示していた。築地に残りたい一心の女将さん会は、小池知事から声をかけられ歓喜した。知事は確かに「ダ・イ・ジョ・ウ・ブ」と言ったのだ。大丈夫、私に任せておいて、築地は守りますから。彼女たちには、小池知事がそう言ってくれたものと受けとっただろう。
しかし、その後の事態は、まったく逆の方向に推移していく。18年10月、築地市場は83年の歴史に幕を下ろし、今は更地と化している。豊洲移転そのものは、市場当局を含めた役人の取組みによるところが大きいが、「ダ・イ・ジョ・ウ・ブ」と女将さん会に心優しい言葉をかけ、「築地は守る」と基本方針でぶち上げておきながら、自分を信頼・信用していた人たちを裏切っても痛痒をまったく感じない。これが、政治家「小池百合子」の笑顔の裏に隠された、本当の姿である。
裏切りの一言、「ダ・イ・ジョ・ウ・ブ」を忘れてはいけない。「3密」大賞受賞で浮かれている場合ではないのである。(澤章/東京都環境公社前理事長)
(参考資料)
○小池都知事の記事:「カイロ大学・首席卒業はウソ !」
学歴詐称疑惑 ! 元同居人が詳細証言
(bunshun.jp:2020/05/27)
週刊文春 2020年6月4日号:編集部:
7月5日に迫る東京都知事選。小池百合子都知事の圧倒的優位と見られているが、そこで改めて注目されるのが、小池氏の「選挙公報」に書かれる経歴だ。
◆小池さんはカイロ大学を卒業していない !
小池氏には、1992年に日本新党から政界に打って出て以来、幾度となく疑惑の目を向けられる「学歴詐称」疑惑がある。これについて、ノンフィクション作家の石井妙子氏が、小池氏とカイロで共に暮らし、小池氏のカイロ大学生活を誰よりもよく知る元同居人女性の早川玲子さん(仮名)から詳細な証言と当時の手帳や写真などの資料提供を得て取材をし、「小池さんはカイロ大学を卒業していない」との詳細な証言を得た。
小池氏はこれまで、72年にカイロ大学文学部に入学、76年に卒業したと自著やインタビューで語ってきた。
◆小池百合子:カイロ大学での試験に落第した !
だが、小池氏が卒業したと主張している1976年7月、カイロ大学での試験結果が発表された際、落第し、ふさぎ込んでいた彼女の様子が、早川さんの記憶に強く残っている。当時2人が同居していたアパートの同じ階にはカイロ大学文学部の教授が住んでいた。思いつめた小池氏は「どうしたらいいのか、聞いてくる」と部屋を飛び出したが、戻ってくると、早川さんにこう言った。
「あなたは最終学年じゃないから、追試を受ける資格はないって。そう言われた」
◆小池百合子:最終学年に進めなかった !
1976年時点で、最終学年に進むことすらできていなかったのだ。
そんな小池氏だが、直後の76年秋、彼女を取り上げたサンケイ新聞(10月22日)と東京新聞(10月27日)は、小池氏へのインタビューをもとに「カイロ大学卒」と紹介している。
経緯をめぐる早川さんの証言は詳細を極めた。76年9月下旬、小池氏は父親から「大急ぎで日本に帰ってこい」との連絡を受けて、すぐさま日本へと帰国。そして11月、カイロに戻ってきた小池氏は、早川さんに新聞を見せた。
「目を疑いました。『カイロ大学を卒業した小池百合子さん』と書かれていたからです」
早川さんが「そういうことにしちゃったの?」と尋ねると、小池氏は「うん」と答えたという。
これまで学歴詐称疑惑が浮上するたびに、小池氏は卒業証書を一部メディアで公表し、噂を否定してきた。前回の都知事選前にも『とくダネ!』(フジテレビ系、2016年6月30日放送)で卒業証書を示している。しかしこの卒業証書自体にも、前述の新聞記事と矛盾する記述があり、石井氏によるカイロ現地取材では、さらなる疑問点も浮上した。
◆学歴詐称は、公職選挙法の「虚偽事項公表罪」に該当する !
小池氏に質問状を送ったが、締め切りまでに回答は得られなかった。
◆小池氏と舛添要一氏との熱愛 !
5月28日(木)発売の「週刊文春」では、早川さんの証言で明らかとなった、カイロ大首席卒業の真相、エジプト現地取材をはじめ100人を超える関係者の証言をもとに書かれた石井氏の新著『女帝 小池百合子』(文藝春秋刊)で明かされた秘話、小池氏と舛添要一氏との熱愛などを詳報している。
当時、桝添氏(1948年〈昭和23年〉11月29日うまれ、71歳)は、大藏官僚だった、片山さつき氏(現参議院議員)との離婚が、1989年成立した。
桝添氏は、40代前半で、小池氏(1952年〈昭和27年〉7月15日生まれ、67歳)は40歳が目前に迫っていた。
桝添氏が1990年に建てた、北海道白老町の別荘に、桝添氏と小池氏は、連れだって出かけていた
(知人)。
○小池百合子知事のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
小池 百合子(こいけ ゆりこ、1952年〈昭和27年〉7月15日 生まれ、67歳)は、日本の政治家[4]。東京都知事(第20代)。
アラビア語通訳者[5]、ニュースキャスター[5][6]を経て、1992年に政界へ転身した。
テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』キャスター(初代)[5]、参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、総務政務次官(細川内閣)、経済企画総括政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣)、環境大臣(第5代・第6代・第7代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣(第2代)、自由民主党広報本部長、自由民主党総務会長(第49代)、自由民主党国際人材議員連盟会長、都民ファーストの会代表、希望の党代表(初代)などを歴任した。
◆来歴・生い立ち
兵庫県芦屋市生まれ。芦屋市立岩園小学校、甲南女子中学校を経て、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部、ソフトボール部、ESS部に所属。高校在学中、神戸市で貿易商を営んでいた実父の小池勇二郎が石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて、1969年12月に実施された第32回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から無所属で立候補したが落選している[7]。実母は赤穂の塩田地主であった小川家の出身。
甲南女子高校卒業後に関西学院大学社会学部に入学するものの、父親の会社の都合で家族が東京都、六本木に引っ越す[7]。「国際連合の公用語にアラビア語が加わる[注釈 1]」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにし、1971年9月に大学を「中退」して父親の貿易先でもあったエジプトへ留学。
“朝堂院大覚”こと松浦良右の資金援助で両親もカイロ市で日本食レストランを経営した[7]。カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語: American University in Cairo)でアラビア語を修め、カイロ大学に移って1976年10月に卒業した[1][8]。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたこともある[9][注釈 2]。
なお、自身の著書においてカイロ大学を「首席で卒業」としているが、真偽は定かでない[10]。
ジャーナリストの山田敏弘がカイロ大学教授のアーデル・アミン・サーレに取材して在籍記録を調べたところ小池が1976年にカイロ大学文学部社会学科をグッドの成績で卒業した記録が残っており、サーレは「カイロ大学は今でも4人に1人は留年するが、彼女は4年間で卒業している。
これはすごいこと。10月に卒業したことになっているが、普通は7月卒業なので、2か月遅れたのは、卒業前にも補習を受ける必要があったからだろう。相当に大変だったのではないか」と話していたという[11]。
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