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秋篠宮様: 眞子さまと小室さんが「結婚する事を認める」
幕末の天皇の深層・真相は ?
(www3.nhk.or.jp:2020年11月30日 12時49分)
皇位継承順位1位の「皇嗣」の秋篠宮さまは、30日、55歳の誕生日を迎えられました。これを前に、記者会見に臨んだ秋篠宮さまは、眞子さまと小室さんについて「結婚することを認める」と述べられました。
秋篠宮さまは、誕生日を前に、お住まいのある赤坂御用地で記者会見に臨まれました。
この中で秋篠宮さまは、今月8日の「立皇嗣の礼」を振り返り、「昨年から行われていた即位礼関連の一連の儀式が終了したことに安堵しております」などと話し、「皇嗣」となった心構えについて、「以前と変わらず一つ一つのことを大切に務めていきたい」と述べられました。
感染拡大によって始めたオンラインでの活動について尋ねられると、秋篠宮さまは、「有効な手段だと思いますし、顔が見えてお互いにやり取りをすることができるというのは、非常に便利であると考えます」と語る一方で、「対面で話すのとは少し違う、難しさを感じることはあります」と話されました。
そして、人々と直接触れ合う機会が減る中での皇室の果たす役割について、「非常に困難な状況にある人、そしてその人たちを支援している人たち、そのことをできる限り理解することに努め、心を寄せていくことではないかなと思います」と述べられました。
一方、秋篠宮さまは、長女の眞子さまと、婚約が内定している小室圭さんの結婚に関する質問にもこたえられました。
眞子さまが、今月、小室さんとの結婚について文書でお気持ちをあらわされた際、秋篠宮ご夫妻が二人の気持ちを尊重されたと側近が説明したことについて、秋篠宮さまは、「それは結婚することを認めるということです」と述べられました。
そして、「憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります。本人たちが本当にそういう気持ちであれば、親としてはそれを尊重するべきものだというふうに考えています」と続け、今後のスケジュールについては、「これから考えていくということになると思います」と述べられました。
眞子さまと小室さんの婚約内定をめぐっては、小室さんの母親の金銭トラブルなどが週刊誌などで相次いで報じられていて、秋篠宮さまは、「感じとしては決して多くの人が納得し喜んでくれている状況ではないというふうに思っています。娘も恐らく同じ気持ちを持っていると考えております」と話されました。
そして、小室さん側が全く対応していないわけではないとしながらも、それが見える形になることが必要だとし、「実際に結婚するという段階になったら、今までの経緯も含めてきちんと話すということは、大事なことだと思っています」と述べられました。
◆加藤官房長官:「静かに見守っていきたい」
加藤官房長官は、午前の記者会見で、「眞子さまのご結婚について、秋篠宮さまのお考えを述べられたものと受け止めているが、政府としては、今後とも静かに見守っていきたいと考えている」と述べました。
また、記者団が、「娘を持つ父親として、結婚は当人どうしだけでなく、周りの納得があった方が好ましいと思うか」と質問したのに対し、加藤官房長官は、「多くの方に受け入れられ、お祝いされる方が好ましいということは、一般論として、親としては当然なのではないかと思う」と述べました。
(参考資料)
T 幕末・維新の革命の真相は ?
(欧州財閥による日本支配が実態)
サッスーン財閥(ロスチャイルド巨大財閥の子分)の代理人としてグラバーが登場します。
この長崎に来た武器商人トーマス・グラバーは、日本を支配するためには、武家政権が最大の障害であり、武士の支配の総元は、徳川幕府だと認識します。
徳川幕府の統治を完全に転覆しないと日本は自分たち英国・巨大財閥のものにならない。
そこに、嘉永6、7年(1853〜54)、アメリカの「ペリー艦隊」が来て、無理に日本を開国させ、欧米列強が日本に入り込みます。
グラバーは、日本の武家の政治を転覆するためにいろいろな「策謀」を巡らします。
ところが、孝明天皇は、朝廷と武家と一体になり、日本全国民が一致して西洋の不当な侵略、日本支配に対抗して、日本を守らなければならないという「公武合体策」を唱えます。
そして、孝明天皇の妹宮である和宮が、14代徳川家茂(1846〜66)将軍に嫁ぎます。
これでは埒が明かないというので、グラバーは、薩摩と長州に内訌して、薩長の軍隊と徳川の軍隊を全面的な内戦に持ち込んで、日本を中国のようにバラバラに解体する「植民地支配」を目論んだのです。 その最大の障害が、尊皇攘夷主義者・孝明天皇だったわけです。
そして、慶応2年12月25日(西暦では1867年1月)に「孝明天皇弑逆事件」が起こりました(「弑逆(しいぎゃく)」とは、臣下が主君を殺す大悪のこと)。
翌、慶応3年(1867年)1月9日には、睦仁親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、さらに、慶応4年(1868)8月27日に即位式をあげ「明治」と改元されました。
ところが、この睦仁天皇も16歳くらいでしたが、言うことを聞かなかったのです。
英国の手先・薩長になびかず、徳川幕府と朝廷が一致して、日本を守るという、孝明天皇の政策を改めなかったのです。
そこで、睦仁天皇も邪魔だということで「弑逆」されて、行方がまったくわからなくなったのです。
・・・・ 大室寅之祐((おおむろとらのすけ:南朝系子孫と勤皇派は主張)という名前の人物を「睦仁にすり替えて」詐称しているからです。
日本国民が、「孝明天皇弑逆事件」の真相を明らかにして、それ以降の日本には、歴史的正統性が存在しないということを、明確に日本人が認識する・・・ということが必要ではないかと思うわけです。
*孝明天皇弑逆説:山陰基央、徳富蘇峰、山岡荘八、鹿島昇、大田龍、鬼塚英昭、
加治将一
なお、明治初期・中期、京都の公家、有力市民の多くは、孝明天皇弑逆を知っていた。
U“裏切られた、三人の天皇” ―明治維新の謎
(soejima.to/boards/sirogane:副島隆彦より抜粋・転載)
鹿島 昇(かしま のぼる))”の、まえがき部分、におきます、引用、甚大紹介、です。(2004年、10月、20日、午後、10時、40分、ocr、+、打ち、の、ログ!)) 投稿者:・白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/10/23(Sat) 18:47:08
☆英国・巨大財閥の奴隷・岩倉具視や木戸、伊藤、
山縣、大久保の日本乗っ取りを明治維新として捏造 !
いまだこの話を著者にしていないが、そんな時私は儀幸にも本書の原稿を読む機会を与えられた。
著者(鹿島 昇)は、私と同職の弁護土なので職業柄、論理と論証を尊ぶ。といってもそれは決して三百代言的な詭弁ではない。
著者は、かつて早大研究室で、刑法の研鑽を積み、研究者として未来を嘱望されただけあって、およそ歴史学に、聖域もタブーも認めず、ただひたすら真実のみを追及する。
それだけならば、どうということもないのだが、さらに著者は、稀に見る独創的な洞察力の人である。この著者の特性は、かつて、檀君朝鮮北倭論を展開するにあたって、見事に結実し、私の目の鱗がストンと落ちたものであったが、本書を一読して、著者のそのような資質が、本書においても、遺憾なく発揮されていることを知った。
☆幕末・明治時代の「官学合同の偽史シンジケート」
維新以降の「官学合同の偽史シンジケート」によってすでに常識となっている明治維新とその聖なる天皇の像が、著者の真実に迫らんとするあくなき洞察力によって粉微塵に破壌され、しかもその論理と論証によって次々に展開する新史観はことごとく首肯せざるをえない説得力を持つ。
☆孝明天皇、その子睦仁、大室寅之祐の明治天皇の謎
本書のなかで著者が展開する史観は、三人の天皇、すなわち孝明天皇、その子睦仁、及び実は大室寅之祐の明治天皇は、或いは、明治維新を推進した岩倉具視や木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、大久保利通たちに暗殺され、或は裏切られた、悲しい存在であったという事実である。
☆天皇親子を暗殺、身代わりを明治天皇にすり替え、歴史を捏造 !
まず孝明天皇は、長州藩の忍者部隊によって、「暗殺」され、その子陸仁も即位後直ちに「毒殺」された。そして、睦仁の身代わりになった明治天皇は実は南朝の末孫という長州力上隊の「大室寅之祐」であり、孝明天皇の子ではなかったというのである。
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