http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/14287.html
Tweet |
俳優・渡哲也さん、病と闘った壮絶な俳優人生 !
被災者や小児がんの子供を励ます !
渡哲也さんのプロフィールとは ?
(news.yahoo.co.jp:2020年8/14(金) 21:15配信)
2020年8月10日に78歳で亡くなった俳優の渡哲也さんは頑健そうな外見とは裏腹に、30代からしばしば大病に苛まれ、病と闘いながらの壮絶な俳優人生だった。
その一方で、震災の被災者や小児がんの子供たちを支えるなどのボランティア活動に積極的に参加し、励ましのエールを送り続けた。
■一時は「俳優人生が終わった」と覚悟
身長180センチ、空手二段、「第二の石原裕次郎」のキャッチフレーズ。日活待望の大型新人として売り出された。デビュー当時のお披露目会見では、記者やカメラマンの前で瓦5枚を叩き割り、硬派のタフガイぶりを見せつけた。
だが、しばしば病魔にとりつかれた。1974年、大河ドラマ「勝海舟」の主役になったが、肋膜炎で降板。肝機能不全なども併発して9か月の長期入院。75年、映画「仁義なき墓場」の撮影中にも体調を壊し、東大病院に5か月も入院した。医師がプロジェクトチームを組んだが、何の病気かわからず、薬の副作用に苦しんだ。『渡哲也 俺』(柏木純一著、毎日新聞社)によると、のちに膠原病と診断されたという。
1989年、「ゴリラ・警視庁捜査第8班」では、ヘリコプターから着地するシーンで左足の筋を損傷。無理して撮影を続行したこともあって悪化し、その後は足を引きずって歩くなど後遺症が残った。
1991年には直腸がんが見つかった。すでに「部分切除」の域を超えていた。直腸を25センチにわたって切り取り、人工肛門になった。一時は、「これで自分の俳優人生は終わった」と覚悟したという。その後も別の小さながんの手術をしている。
さらに2015年6月に急性心筋梗塞で入院し、手術を受けていた。
■真っ直ぐな生き方を貫く
近年は、家族や夫婦愛などをテーマにしたヒューマンな作品が多かった。12年にTBSが制作した日中国交正常化40周年記念のドキュメンタリードラマ「強行帰国〜忘れ去られた花嫁たち〜」では、中国孤児の定住に尽力した日本人浪曲師、国友忠役を演じた。朝日新聞の取材にこう語っている。
「中国戦線で日本兵だった国友さんが、戦後、私財をなげうって残留婦人の帰国を裏方で支える。他人のために生きるその姿に、共感した」「人間の生き様、男としての生き様を感じさせる役ならば、役の大小にかかわらず、善人悪人にかかわらず、今までやらせていただきました」
自身も真っ直ぐな生き方を貫いた。日活から、経営危機がうわさされていた石原プロにあえて移り、敬愛した石原裕次郎さんの闘病時は、最側近として終始付き添った。「もしものときは、自分も殉じたい」と漏らしたほど。
阪神大震災や東日本大震災では、石原プロの俳優たちを引き連れ、被災地での炊き出しにかけつけた。毎日新聞社が1996年から始めた小児がん征圧キャンペーン「生きる」には率先して協力し、小児がんの子どもたちを励ますイベントに出演し続けた。がん生還者ということだけではなかった。
4 人兄弟のうち、長男の兄と4男の弟と幼少のころに死別するというつらい経験もしていた。
■「自分のことは何を書かれても構わない」
両親ともに旧家の出身。父は頑固一徹の明治男で厳しく、母は竹久夢二の画から抜け出てきたような評判の美人だった。渡さんはその両方の資質を受け継いでいた。
寡黙で、毎日新聞の柏木純一記者が97年に刊行した『渡哲也 俺』が唯一の自伝とされる。2年半がかりの丹念な取材。渡さんからの注文は一つだけだった。
「自分のことは何を書かれても構わないが、他人を傷つけたり迷惑をかけたりすることだけは避けて欲しい」
同書で、俳優の高倉健さん(故人)は、渡さんのことを、こう語っていた。
「家族や石原プロなどを全部背負い、様々なシガラミに縛られながら、辛いこと、やりたくないこと少なくないにちがいないと推察しますが、嫌な顔ひとつ見せず、おくびにも出さず平然とやってらっしゃる。どこかで自分を捨てていらっしゃる…」
趣味は「たき火」。自宅の庭にブロックで小さな囲いをつくり、そこで枯葉や小枝を燃やし、ちらちら揺れる小さな炎と煙に手をかざす。柏木記者の問いかけに、「人生なんて、言ってみれば、流れる雲のようなものですから」と答えている。
渡さんが到達した心境を、柏木記者は「則天去私」(自我を超え、身を天地自然にゆだねて生きる)と評していた。
(参考資料)
○渡哲也さんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
渡 哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - 2020年8月10日[2][3])は、日本の俳優・歌手。本名、渡瀬 道彦[1](わたせ みちひこ)。
兵庫県淡路島出身[1]。株式会社石原プロモーション相談取締役。俳優の渡瀬恒彦は実弟。
来歴:島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ[4][5]。父親は日立に勤務[6]、広島県呉市の軍需工場などを転々として、日立の安来工場に勤務していた時、当地出身の渡の母と結婚していた[4][5]。戦時中の1943年[6]、父親は任地の日立呉工場を退職し[6]、実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った[4]。
出身を淡路島にしているのは、日活に入ったとき石原が神戸市生まれなので、淡路島の方がイメージ的にいい、という判断で決めたからだという[4][5]。終戦後の物資不足で長男と四男は亡くなった[6]。淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校(6年間の寮生活)[7]、青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部 (流派は日本空手協会・松濤館流)に在籍し、青山学院大学・空手道部OB会長・渡瀬道彦の札もかかっていた。空手弐段。柔道初段。
大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。
弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した[8]。
1965年(昭和40年)3月『あばれ騎士道』で宍戸錠とのW主演でデビューし、この作品で、エランドール賞新人賞を受賞し、2作目の『青春の裁き』で単独主演しオープニングクレジット映像では空手の型・約束組手を披露し、本編での複数相手の乱闘シーンでは飛び蹴りや二段蹴りを連発し正拳突きで止めを刺すなど空手部キャプテンの実績を生かした作品になっている。
但し殺陣師から「そんなに腰を落としちゃスクリーンでの見栄えが悪い」として腰高に直され不本意な空手になってしまった、と述懐していた。同期で活躍しているのは太田雅子 (後の梶芽衣子)。
1966年には監督鈴木清順 脚本川内康範 『東京流れ者』に主演し主題歌「東京流れ者」も歌っている。
吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』で第17回ブルーリボン賞新人賞を獲得。 また裕次郎2世と言われたことから、リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演。
1968年(昭和43年)舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は渡の日活時代の代表作となった。
渡は『東京流れ者』や『無頼シリーズ』などで、一躍日活ニューアクション時代のスターとなったが、1971年、日活のロマンポルノ路線への転換にともない、1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した。
その後、東映など映画会社数社から渡の引き合いがあるものの、石原への尊敬の念などから、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社[9]。
1971年(昭和46年)9月封切の『さらば掟』を手始めに『ゴキブリ刑事』、『野良犬まで』などの松竹、東宝の作品に主演、準主演で出演をした。また連続テレビドラマにも出演する中、1974年(昭和49年)、大河ドラマ『勝海舟』の主演に抜擢された。
しかし収録中に肋膜炎になり入院。第9回までしか出演出来ず途中降板となる。なお代役は松方弘樹が務めた[10]。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発し入院は9か月に及んだ[10][11]。一方で前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇し、1974年の年間シングルチャートで7位を記録。オリコンセールス:77.4万枚[12]、累計150万枚を売り上げ[13]、全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲となった。渡の体調も秋には回復し、年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場した。
1974年(昭和49年)、再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり[14]、特に弟・恒彦をスカウトした[15]岡田茂東映社長(当時)が「高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と熱心に誘い[14]、渡自身も「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない」と強く東映入りを希望したため[14]1975年(昭和50年)に渡は東映入りの報道もされた[14]。
当時の東映は俊藤浩滋が高倉らを伴い独立しようとしたお家騒動があった[14][16][17]。元々、1973年の『仁義なき戦い』で菅原文太をスターダムに押し上げた広能昌三役も最初にキャスティングされたのは渡であったが[18][19]、この時期、渡は体調が優れず実現に至らなかった[4][16][18]。
1974年暮れ『脱獄広島殺人囚』、「新仁義なき戦いシリーズ」とも渡は出演要請を受けたが諸問題で断り[14]1975年2月、東映実録ヤクザ路線の極北といわれる『仁義の墓場』[20]でようやく東映初出演、初主演した。
同作公開後、岡田社長は「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げ[21]、この年4月の『大脱獄』で高倉健と[22][23]、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太と競演させ[24]、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』として映画化)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(映画化されず)で主演させ、"東映スター渡"をイメージ付けようとしたが『仁義の墓場』撮影後、再び病に倒れ[22][25]渡は結局東映と専属契約を結ばず[21]。
先の『大脱獄』は、最初は高倉健、渡哲也、五木ひろしの三大共演を予定していたが[16]、五木がギャラ問題で降り、代わりに抜擢されたのが菅原文太で[16][26]、高倉、渡、菅原という三大共演の可能性もあり、実際に三人の名前の書かれたポスターも製作された[27]。
渡が入院したため三大共演はおろか、渡と高倉、渡と菅原[28]。の共演も永遠に実現することはなかった[21][23]。この1975年は、東宝系の芸苑社製作で今井正監督の水上勉原作『その橋まで』の映画化の主演も受けていたがこれも流れた[21][29]。入院は延べ2年半に及んだ[4]。
病み上がりで撮影中に体調が急激に悪化した『仁義の墓場』は[30]点滴を打ちながら演じる渡の負のエネルギーが、石川力夫の怨念が乗り移ったかのような迫力を持ち評価が高い[19][25]。キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では、日本映画歴代38位に選出されている。1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を獲得。
渡はこの後石原プロのテレビドラマに専念するため映画出演は一時的に撤退した。その後1996年、やはり岡田茂東映会長(当時)に促され[31]『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰した[31]。本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占している。
石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出[32]。渡にとって復帰第一作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映された。 これら刑事ドラマでの“角刈りにサングラス”というスタイルは渡のトレードマークとなった。
同時期に放送されていたTBS『クイズ100人に聞きました』では「サングラスと言えば誰?」の問題で渡哲也が圧倒的人数で第1位を獲得した。因みに第2位がルビーの指環でメガヒットを飛ばした寺尾聰で第3位が藤竜也であった。
渡は石原プロ再建に貢献し、石原の下で副社長も兼務していた。
1987年(昭和62年)7月17日に石原裕次郎が肝細胞癌のため、52歳で死去。10月、渡が石原プロの二代目社長に就任した。2005年(平成17年)に紫綬褒章を受章した。
2015年(平成27年)6月10日、急性心筋梗塞で緊急入院、手術を受けていたことが、7月17日に明らかになる[37]。約1か月で退院。11月10日、宝酒造「松竹梅」のCM撮影で仕事復帰(前年8月の同CM発表会見以来、1年3か月ぶり)[38]。
2017年(平成29年)3月14日、弟・恒彦が胆嚢癌による多臓器不全のため72歳で死去[39]。
4月1日、石原プロモーションの経営陣に復帰[40]。「相談取締役」の肩書きで相談役と取締役を兼任する。2020年(令和2年)8月10日午後6時30分、肺炎のため死去[2][3]。78歳没。渡の遺志により直後の発表はされず、石原プロ関係者には8月12日に死去が知らされ、一般への公表は家族葬が終了した8月14日に行われた。お別れの会なども、渡の遺志により行われない[41]。
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。