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大河ドラマ:本木雅弘、染谷将太、川口春奈…
「麒麟がくる」は脇役が目立ちすぎか ?
明智光秀が「主人公」に向かない理由は ?
主人公の明智光秀の深層・真相は ?
(Yahoo!ニュース:2020年4/26(日) 11:30配信)
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が始まって、3カ月が過ぎた。評判は上々で、視聴率もまずまずだ。が、SNSではこんな声も出ている。
「主人公の影がうすい」、「主役は誰だっけ」
ちなみに、主人公は明智光秀で、演じているのは長谷川博己。本能寺の変で有名な光秀だが、前半生は謎に包まれており、使えるエピソードがほとんどない。
そのせいか、第14話「聖徳寺の会見」も斎藤道三(本木雅弘)と織田信長(染谷将太)を中心に描かれた。婿である信長が舅の道三を驚かせ、実力を認めさせる話だ。光秀の役回りは、事前に相手を盗み見しようとした道三に、どれが信長かを教えるというもの。また、第13話「帰蝶のはかりごと」は道三の娘で信長に嫁いだ帰蝶(川口春奈)がこのサプライズ会見の影の仕掛け人だった、という話である。
とはいえ、これが「江〜姫たちの戦国〜」(2011年)のスタッフなら、史実などお構いなしに光秀を目立たせただろう。主役に上野樹里を起用したことから「のだめ大河」とも呼ばれた「江」は、主人公がどこでもドアでもあるかのように神出鬼没に活躍して、歴史上の事件に絡んでいくというファンタジックな作品だった。
「麒麟がくる」のスタッフも、光秀の前半生が謎なのでいくらでも自由に描けるはずだが、さほど荒唐無稽な展開にはしていない。歴史に対して謙虚なのだろう。
もちろん、光秀が目立たないからといって、物語がつまらないわけではない。道三や信長、豊臣秀吉、徳川家康、松永久秀といった史実(といっても、司馬遼太郎の小説「国盗り物語」と同名大河ドラマあたりの影響も色濃いが)の上でもキャラの立った英雄たちの群像劇として飽きさせない仕上がりになっている。これで光秀も後半生になれば、使えるエピソードも増えてくるので、より濃密なドラマになっていくはずだ。
ところが、である。ここで、ある疑問が浮かぶ。そもそも、光秀が主役ってどうなのか、はたして大河の主人公としてイケているのか、という疑問だ。
まず、光秀には華のある出世譚がない。信長に取り立てられたのも、朝廷や幕府との調整能力が買われたものだし、ドラマ映えする派手な武功に乏しい。その点、草履を温めるところから始まって、墨俣一夜城、金ケ崎の退き口、高松城水攻めなどへと手柄がきらびやかに続く秀吉とは雲泥の差である。
そのかわり、本能寺の変という大博打をやって、三日天下であっけなく散るという、いわば一発屋的魅力があるのだが、それが今ひとつ人気には結びついてこなかった。源義経や楠木正成、新撰組や西郷隆盛のように、判官びいきの恩恵もほとんど受けていない。歴史ファンが偉大なる敗者として抱くシンパシーは、同じ戦国人でも石田三成のほうが上だろう。
これはやはり、三成が主家と忘れ形見のために戦ったのに対し、光秀が主殺しによって天下を得ようとしたという印象の違いが大きい。そして、光秀はそのあたりも含め、イメージが全体的に暗い。昨年暮れに、歴史学者の本郷和人もNHKの特番でこんな指摘をしていた。
「ともかくあんまり自分の気持ちに正直に動くような人ではありませんね。一回全部、自分の気持ちを押し殺して、行動に移っていく」(「あの日あのときあの番組 大河ドラマで探る 明智光秀の魅力」)
同時代の宣教師、ルイス・フロイスが書いた「日本史」にも、光秀が信長に対し「誰にもまして喜ばせ、逆らうことがないように心がけていた」という一節がある。気まぐれな主君に過剰適応して、無理を重ねていたことが想像される。
こうした本郷やフロイスの分析とシンクロするのが、後半生のエピソードだ。比叡山の焼き打ち命令に不本意ながら従ったとか、感染症に倒れて死にかけ、看病してくれた妻が亡くなったとか、丹波攻略で自分の母親を人質に使うことまでしたのに、それが信長の方針に反したことから見殺しにしてしまったというものまである。
さらに、本能寺の変の数カ月前には、武田滅亡をめぐる失言が信長を怒らせ、暴力的な折檻を受けてしまう。前出の特番では、過去4作の大河でこの話が描かれた場面が連続放映された。どのケースも光秀側に立つといたたまれない気分にさせられる。
大河史上、光秀は「太閤記」(1965年)から「麒麟がくる」まで計16作に登場しているが、半世紀以上も脇役に甘んじてきたのはこの視聴者をいたたまれなくさせるキャラに起因するのではないか。
というのも、大河の主人公はもっぱら、明るくマイペースで、最後に負けてもどこか爽やかだったりする。今後、光秀らしさが出てくれば出てきたで、感情移入しにくい視聴者も少なくなさそうだ。
では、それを演じている長谷川はどうなのか。そのキャリアで記憶に新しいのは、連続テレビ小説「まんぷく」でのヒロインの夫役だ。じつはこのとき演じた役のモデル・安藤百福は秀吉型のヒーローだった。
それこそ「鳴かせてみようホトトギス」の精神で世界初の即席めんやカップめんを発明し、実業家としても大成功する。その偉業をめぐる妻との協力関係は、39年前の大河「おんな太閤記」のそれにも似ていて、そういうところがウケたのだろう。
つまり、長谷川は攻めの芝居もできるのだが「麒麟がくる」では受けの芝居を優先しているように思える。キャラの立った英雄(および、帰蝶のような女傑)たちに振り回されながらも、飛躍の機会を待っている状態だ。
言い換えれば、SよりMっぽいスタンスなのだが、光秀自体そういうイメージだから、これでもいい。むしろ、このドラマは主人公のMっぽいもどかしさを楽しむべきものなのではないか。
ただ、このもどかしさには最近の大河全般が抱える問題も影響している。国民的ドラマである以上、主役は特に、現代にも受け入れられる価値観を持っていなくてはならないという問題だ。
たとえば「天地人」(2009年)の主人公・直江兼続は平和を好む愛の武将として描かれた。愛という文字をあしらった兜をかぶっていた史実からだが、その由来は愛宕信仰だとする説が有力で、現代的な愛を意識していた可能性は低い。
しかし、最近の大河ではあのような描き方が望ましいのである。
今回の「麒麟がくる」も、聖なる獣・麒麟を平和の象徴に見立て「麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか……」(公式サイト)というテーマを掲げている。が、平和への意識を持たされているのはもっぱら光秀で、他の道三、信長、久秀といった人物はわりと自由に権力闘争に明け暮れている感じだ。
それゆえ、光秀は傍観者的というか、ちょっと浮いていて、現代人が中世的世界に迷い込んでいる雰囲気すらある。主役なのに、不自由にも見えるのである。
この流れだと、最終的には、光秀が凶暴化する信長に絶望して、自らが麒麟を呼ぶ英雄たらんとして本能寺の変を起こす、ということになりそうだが、その希望もすぐに潰えるので、視聴者に快感は残らない。最後まで、もどかしさは解消しないだろう。
とはいえ、これは判官びいきされない敗者・光秀をあえて主役にした大河の宿命でもある。能力的にも性格的にもギリギリのところで天下に届かなかった男のもどかしさ。いわば、主役の不自由性を楽しむことこそ、この王道のようでちょっと異端な大河ドラマの醍醐味なのかもしれない。
●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
(参考資料)
主人公の明智光秀とは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
明智光秀(あけち・みつひで、生年未詳 - 1582年7月2日〈天正10年6月13日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも[10]、致命傷を受けて自害した、ともされる[11]。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。
◆明智光秀は、清和源氏の家系 !
光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう[注釈 9]。妻は妻木煕子。その間の子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽『絵本太功記』や歌舞伎『時桔梗出世請状』をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。
◆生涯・織田家仕官以前
清和源氏の土岐氏支流[注釈 10]である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている[13]。
生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である[1]。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある[1]。また、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している[14](この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。
◆生地は岐阜県可児市
生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城とも言われる[15][注釈 11]。少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている[1]。
このほかに近江国出生説もある[18]。井上優(滋賀県教育委員会文化財保護課主幹)は、江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性を指摘。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。
岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある[19]。
◆明智光秀は、斎藤道三に仕えた !
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族[注釈 12][注釈 13]で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われる[注釈 12]。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状[注釈 14]がある[22]。
2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である[23]。
これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で[24]、光秀自身が「高嶋田中籠城之時」に語った内容を含んでおり、永禄9年10月20日(1566年12月1日[注釈 1])に米田貞能(米田求政)によって作成された写本である[23]。
◆明智光秀の叔母は、斎藤道三の夫人であった !
義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かない。
光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日[注釈 1]。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した[27]。
2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が、史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが、大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している[28]。
光秀の叔母は、斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が、光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている[29]。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される[30]。斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある[31]。
―以下省略―
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