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当時の日本国民は東日本大震災のもたらした地震と津波により多数の人命と財産が失われたことに嘆き悲しみながら、福島原発の復旧工事の様子を知らせるニュースに一喜一憂していた。しかし、すぐに地震・津波の被害と原発事故の被害の違いを思い知らされることになった。
地震・津波で家屋を失った人たちはやがてボランティアの助けと政府の補助の下に昔の家の敷地跡に家を建て始めた。今度は壊れたり、流されたりしないようにコンクリートの家を建てるものもいれば、昔と同じ木造の家屋を建てるものもおり、昔の面影は無くとも街並みが出来ていった。
福島県浜通から原発事故で家を離れた人々は、家屋は無事であっても二度とそこに戻ることはなかった。当時の政府は自分達の努力によって原子炉の溶融という最悪の状態を回避したと自画自賛していたが、原子炉からの放射能漏れを完全にとめることは出来なかったからである。あたりに飛散した放射性物質を完全に除去するには費用が掛かりすぎると考えた政府は、健康上の安全を守る為と称して50キロ圏内に関係者以外の立ち入りを禁止した。住民の多くもマスコミの伝える放射能の恐怖に恐れおののき、わずかの補償金を手にして西日本の各地へと散らばって行った。一部の住民が検問を掻い潜ると、放射能に汚染されているという理由で隔離された。
解体することも困難な状態の原発に近付けるのは防護服に身を固めた保守要員だけである。田畑は草が生い茂るに任され、やがて樹木が茂り始め、森となった。植物は成長の過程で炭酸同化作用によって炭酸ガスを吸収するときに、空気中の放射性物質をも取り込み、やがて植物自体が放射能を放出するようになった。森に住むあらゆる生物が放射能の影響を受けた。あるものは成長を早め、あるものは巨大化し、新しい未知なる生物が生まれた。
鳥は50キロ圏外の里山に飛来し、森で食べた植物のタネを糞と一緒にばら撒いた。ある寒い夏は森の中の食料に不足した虫が飛来し、田畑を荒らしたので、農民は耕作を諦めた。そして、森はますます広がっていった。政府は森の拡大を防ぐ為にいろいろと手を尽くしたが、その拡大をとめることは出来なかった。福島県の浜通りに生まれた放射能汚染された森はやがて中通りへ広がり、隣接する他県へと広がっていった。日本は北日本と西日本に分断された。国力は衰え、諸外国の援助が頼りになり、やがてそれらの国の保護下に置かれた。
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- 投稿可能になりました。本番投稿をお願いします。 管理人さん 2011/3/25 17:30:03
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