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大河ドラマ:「麒麟がくる」第二話「齋藤道三の罠」あらすじと感想 !
主人公の明智光秀の深層・真相は ?
(enjoy2525.com:2020年1月27日より抜粋・転載)
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」・2回目の放送が終了しました。
1回目の視聴率は、関東も関西も19%超え。
この19%超えは、「真田丸」の19.9%以来4年ぶりの快挙。
老若男女問わず、かなり好印象を持たれた様子で、ひとまず安堵♪
私が気になった衣装の色も、沢山の人が「色がチカチカする」などと投稿があったようですが、これについては「時代考証」に則した形で決めているといった回答がありました。
ということは、今まで観てきた時代劇こそが、地味すぎたってこと!?
歴史も少しずつ変わっているということが、ここでも実感できました。
そしてとくに高評価だったのが、川口帰蝶です。
彼女のまっすぐな視線に大絶賛 !
すでに代役ではないという声が、ここ1週間、聞こえていました。
ところで、齋藤道三が「嫁にやった娘・・・」と言ったのを覚えていますか?
この時帰蝶は、美濃の守護・土岐頼純に嫁いでいました。
齋藤道三は、土岐頼純の家来に過ぎず、立場は守護代ですが、実験は道三が握っていたようです。
堺で鉄砲を買い、京で名医を見つけて美濃に戻るという道三との約束を守り、明智光秀(長谷川博己:はせがわ・ひろき、1977年3月7日生まれ、42歳)は、望月東庵(堺正明)と、駒(門脇麦)を連れて、美濃に戻る道中にあります。
しかし行く手には、美濃侵略をもくろむ、織田信秀(高橋克典)の大群が迫ってきます。
齋藤道三が、これを知って、光秀や嫡男・斎藤義龍が反対する中、籠城を決めました。
この戦いを加納口の戦い、または井ノ口の戦いといいます。
織田信秀は、齋藤道三の本拠地、岐阜城のすぐ近くまで攻め入っています。
そしてこの籠城こそが、道三が仕掛けた「罠」だったのです。
敵を欺くには、観方から ! を地で行く作戦で、織田信秀の軍を打ち破った齋藤道三。
その戦いで、侍大将の首二つを、ノルマとされた、明智光秀は、力のかぎり戦います。
しかし、討った侍大将が、叔父に似ていたことで、首を取ることを躊躇した。
そして思うのです。
「これが侍の誉れか !? こんなことが……」
一方、戦いに勝った、斎藤道三は、娘の嫁ぎ先だった、土岐頼純を毒殺した。
齋藤道三は、毒殺が得意技ですが、ここでもか !?
史実とされているものが、正解だとは言いきれないのが、現実です。
もしかしたら、こういうこともアリだったのかもしれませんね^^;
色は相変わらず鮮やかで、重厚さは希薄な気がしますが、それも登場人物を今まで掘り下げてきたからこそだと思います。
一緒にテレビを観ている家族に、「この人はね・・・」と説明したくなりましたが、それはやめました。
ドラマに集中していたいからという理由と、人それぞれの見方があるからとうのが理由です。
私のブログを読んでくれている人なら、きっと「ここ、違うなぁ」とか、「この人、キャラこれで良いの」とか、思ってくれていると思います。
2月1日の、第3回「麒麟がくる」を楽しみに待ちましょう。
まだまだ、歩き始めたばかりの、明智十兵衛を、一緒に応援していきましょうね !
(参考資料)
主人公の明智光秀とは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
明智光秀(あけち・みつひで、生年未詳 - 1582年7月2日〈天正10年6月13日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも[10]、致命傷を受けて自害した、ともされる[11]。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。
光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう[注釈 9]。妻は妻木煕子。その間の子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽『絵本太功記』や歌舞伎『時桔梗出世請状』をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。
生涯・織田家仕官以前
清和源氏の土岐氏支流[注釈 10]である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている[13]。
生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である[1]。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある[1]。また、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している[14](この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。
生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城とも言われる[15][注釈 11]。少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている[1]。このほかに近江国出生説もある[18]。井上優(滋賀県教育委員会文化財保護課主幹)は、江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性を指摘。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある[19]。
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族[注釈 12][注釈 13]で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われる[注釈 12]。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状[注釈 14]がある[22]。
2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である[23]。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で[24]、光秀自身が「高嶋田中籠城之時」に語った内容を含んでおり、永禄9年10月20日(1566年12月1日[注釈 1])に米田貞能(米田求政)によって作成された写本である[23]。
その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産や刀傷の対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている[24]。
確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日[注釈 1])に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられる[23]が、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられるのも理解しやすくなる[25]。
その後、義輝の弟・義昭が姉婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れた。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で同年8月29日(1566年9月12日[注釈 1])に出兵したことで流れた[注釈 15]。
義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日[注釈 1]。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した[27]。
2 回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している[28]。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている[29]。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される[30]。斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある[31]。
小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする[32]。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる[注釈 16][12]。
なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことである[34]。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四職家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている[12]。
ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある[35]。また、永禄の変で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者の進士晴舎の子の進士藤延だけが生き残り、改名して進士藤延が明智光秀になり、光秀妹の妻木は義輝の側室小侍従、光慶は義輝の子の尾池義辰だと小林正信は主張している[36]。
本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい[12][1]。
信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分であり[28]、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している[37][注釈 17]。
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