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倉本聰・脚本家:「死に顔がね、本当に綺麗で…」八千草薫さんの訃報受けすぐ対面 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2019 年 11 月 01 日 21:43:50: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 倉本聰・脚本家:「死に顔がね、本当に綺麗で…」

    八千草薫さんの訃報受けすぐ対面 !

    八千草薫さんのプロフイールとは ?

(headlines.yahoo.co.jp:スポーツ報知:2019年10/29(火) 6:04より抜粋・転載)

◆八千草薫さん:「すい臓がん」のため死亡 !

 宝塚史に残る娘役で、映画「宮本武蔵」、ドラマ「岸辺のアルバム」など日本を代表する名女優として活躍した、八千草薫(本名・谷口瞳)さんが、10月24日午前7時45分、「すい臓がん」のため、都内の病院で死去していたことが、28日、発表された。

88歳だった。八千草さんと半世紀にわたる親交を持ち、多数の出演ドラマを手掛けてきた、脚本家の倉本聰氏(84)が、スポーツ報知の取材に応じ、故人をしのんだ。

 24日朝に訃報を受けると、すぐに病床に駆けつけて、亡きがらと対面したという。

「死に顔がね、本当に綺麗(きれい)で…。美しさだけではなくて、八千草さんの心の綺麗さも表れていたような顔でした。遺言では、『死に顔は、誰にも見せないで』って言っていたそうですけど…僕、ちょこっとだけ見ちゃった」。亡くなってもなお、美しいままだったと明かした。

 今年1月、八千草さんが、「やすらぎの刻〜道」の降板を、発表する直前の最後の撮影にも、立ち会った。「だいぶ前から、覚悟はしていましたけど…悪いとは聞いていたので」。

八千草さんは、7月に北海道富良野市の倉本氏の自宅を訪れ、10月10日にも入院先の病院で最後の対面をした。亡くなるわずか6日前の、同18日にも電話で会話をした。

「昔の…懐かしい話をたくさんしました。最後まで、はっきりと話をされていて、『11月までもたないかもしれませんよって、お医者さんが言うんですよ』なんてこぼしてました」

◆倉本聰氏:49年間にわたって出演作を手掛けた !

 1970年のTBS系ドラマ「マイホーム’70」から「やすらぎの刻〜道」まで、49年間にわたって出演作を手掛けた。代表作「うちのホンカン」(1975〜1981年)は、八千草さんを当て書き(演じる役者を決めた上で脚本を書くこと)して執筆した。

1977年に、北海道に移住したことも。八千草さんが深く関わっている。

「僕、金がなかったので、最初、土地は、八千草さんと一緒に買ったんです。後で、八千草さんは、『やっぱり遠いから来られないです…』って、八ケ岳に家を建てられましたけど…」。

後の代表作、「北の国から」などにつながった。「優しい時間」のタイトルは、八千草さんのエッセー集の題名から付けた。

 「八千草さんくらい、ずっとかわいくて、綺麗な人はいませんでした」。多数の名女優と親交がある倉本氏が、惜しむほどの美貌(びぼう)は、最後の最後まで変わらなかった。

(参考資料)

    八千草薫さんのプロフイール !

(ウイキペディアより抜粋・転載)

 八千草薫(やちぐさ・かおる、1931年1月6日[1] - 2019年10月24日[2])は、
日本の女優。

大阪府出身。宝塚音楽学校卒[1]。所属事務所は柊企画。愛称はヒトミ、ヒトミちゃん(本名に由来)。公称身長154cm。

◆来歴

幼少時に父を亡くし、母一人・子一人で育つ。思春期がちょうど戦時中であり、自宅も空襲で焼け、「色のある」「夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれた[3]。

聖泉高等女学校(現:プール学院中学校・高等学校)在学中に宝塚音楽学校に合格し、1947年に宝塚歌劇団入団(同期には淀かほる、百ちとせらがいる)。宝塚入団時の成績は50人中19位[4]。

入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としたが、1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫(紫の上の少女時代)を内・外面とも見事に表現し、絶大な評判と人気を博した。以降は美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡、同年から劇団内に新設された映画専科に所属した。1951年の『虞美人』、1952年の『ジャワの踊り子』にも出演している。

宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなしており、当時の『お嫁さんにしたい有名人』の統計で、たびたび首位に輝いた[1]。

1957年5月31日付[4]で歌劇団を退団。最終出演公演の演目[4]は花組公演『みにくい家鴨の子/王春讃歌』。

退団後はテレビドラマでのおっとりとした良妻賢母役が好評で、多くの作品に出演。一方、『岸辺のアルバム』での家族に隠れて不倫する主婦役では従来のイメージを覆し、テレビドラマ史に残る名作となった[1]。

私生活では1957年に映画監督の谷口千吉と結婚した。人気・好感度絶頂の八千草と、親子ほどの年の差があり、しかも3度目の結婚となった谷口の組み合わせは当時、多方面で話題・波紋を呼んだ(夫婦に子はなかったが、おしどり夫婦として知られ、結婚50年目となった2007年に死別するまで連れ添った)[1]。

2010年3月中旬にドラマの撮影中に転倒し、右膝蓋骨を負傷。当初は全治3週間と診断されていたが症状が悪化し、5月開催の第19回日本映画批評家大賞授賞式を欠席した[5]。

2014年、古巣・宝塚歌劇団創立100周年を記念して設立された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人の一人として殿堂入り。

2017年の末に膵臓にがんが見つかり、2018年1月に手術を受ける[6]。予後は良好でドラマ収録や舞台『黄昏』の主演もこなしたが、2019年に入って肝臓にがんが見つかったため、2019年4月放送開始予定のドラマ『やすらぎの刻〜道』の主演を降板し、休業して治療に専念する[7]。

同年2月9日に発表した[6]。5月26日、理事を務める日本生態系協会のイベントに出席、がんを発表後初めて公の場に登場した[8]。

2019年10月24日午前7時45分、膵臓がんのため東京都内の病院にて死去。88歳没[9][2]。

◆人物・エピソード

「宝塚時代の経験が、仕事はもちろん、趣味の山歩きでも活きている」と述べており、自然環境保全審議会委員を務めたこともある。

穏やかな外見とは裏腹に、『赤い疑惑』では、主演の山口百恵のスケジュールの都合で細切れ断片的な収録を余儀なくされたことに納得できず、自ら途中降板するなど、仕事に妥協しない厳しい一面も持っている。

宝塚歌劇団に入団した戦後間もない頃に東京公演で銀座を訪れた際、『お寿司が食べたいわぁ』と何気ない発言が食料事情の逼迫していた当時は周囲から顰蹙を買ったことも。

映画『蝶々夫人』は、有名なオペラとして世界各地で上演されているが、日本文化の描かれ方がめちゃくちゃで、映画を通じて、世界に正しい日本文化やこの作品の情景を伝えようという旨で制作された。

そのため、日本家屋のセットはすべて日本から空輸して、現地(チネチッタ)で渡伊した日本人スタッフ(東宝のスタッフ)が組み立てた本格的なもの。衣装なども空輸した。もちろん、八千草もヒロイン像にふさわしい「日本人女性の象徴」としてのキャスティングである。

また、八千草と共に助演で出演した東郷晴子、伊吹友木子、鳳八千代、淀かほる、梓真弓、筑紫まり、朝日奈世志子ら当時の宝塚歌劇団生徒17名も渡伊した。1954年8月19日に八千草と共に寿美花代がヴェネツィア国際映画祭に参加するために、羽田空港から渡伊した。続いて、同年10月2日、生徒一行も羽田空港からエールフランス航空に搭乗してイタリアへ出発。

生徒一行がローマのチャンピーノ空港に到着した模様や映画撮影中の模様を伝えるニュース映画(モノクローム)が現存する。そして、全撮影を終了して、同年11月12日に午後10時羽田空港着のエールフランス航空機で一行は約40日ぶりに帰国した。

その後、同年12月28日に八千草が帰国した。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なヨーロッパ行きとなった。映画制作費は当時の約2億円。

1977年、ヤマハ・パッソルの広告に起用。前年、ホンダが商品化した原動機付自転車ロード・パルは、ソフィア・ローレンを起用して爆発的ヒット。競争相手であったヤマハ発動機は、あえて日本人女優である八千草薫に白羽の矢を立てた。

当時、八千草は免許を所有していなかったため、ヤマハの免許センターで取得。実際の撮影は、オーストラリアで行った。「やさしいから好きです。」というキャッチフレーズは、ヤマハとホンダの販売競争(HY戦争)を激化させるきっかけにもなった[10]。

◆映画

宝塚夫人(1951年)、目下恋愛中(1951年)、メスを持つ處女(1951年)

昔話ホルモン物語(1952年)、一等社員 三等重役兄弟篇(1953年)

千姫(1953年)、プーサン(1953年)看護婦・織壁さん

旅はそよ風(1953年)、金さん捕物帖 謎の人形師(1953年)

かっぱ六銃士(1953年)、喧嘩駕籠(1953年)、誘蛾燈(1953年)

今宵ひと夜を(1954年)、若い瞳(1954年)、宮本武蔵 大ヒット。※DVD発売)お通 役

蝶々夫人 Madama Butterflyで主役の「蝶々さん」役。

続宮本武蔵 一乗寺の決斗(1955年)、夏目漱石の三四郎(1955年)

くちづけ(1955年)、へそくり社長(1956年)、決闘巌流島(1956年)

乱菊物語(1956年)、続へそくり社長(1956年)、愛情の決算(1956年)

白夫人の妖恋(1956年)、殉愛(1956年)、世にも面白い男の一生 桂春団治(1956年)

雪国(1957年)、生きている小平次(1957年)、新しい背広(1957年)

銭形平次捕物控 八人の花嫁(1958年)、東京の休日(1958年)

現代無宿(1958年)、旅姿鼠小僧(1958年)、喧嘩太平記(1958年)

大江戸千両祭(1958年)、濡れ髪剣法(1958年)、弥次喜多道中記夫婦篇 弥次喜多道中双六(1958年)

グラマ島の誘惑(1959年)、孫悟空(1959年)、森の石松幽霊道中(1959年)

槍一筋日本晴れ(1959年)、天下の大泥棒 白浪五人男(1960年)

ガス人間第一号(1960年)、新・夫婦善哉(1963年)、こんにちは赤ちゃん(1964年)

団地・七つの大罪(1964年)、侍(1965年)、日本侠客伝 浪花篇(1965年)

美しさと哀しみと(1965年)、忍びの者 伊賀屋敷(1965年)

悪名無敵(1965年)、大殺陣 雄呂血(1966年)、古都憂愁 姉いもうと(1967年)

わが恋わが歌(1969年)、朝霧(1971年)、男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年)マドンナ役

田園に死す(1974年)、アフリカの鳥(1975年)、アサンテ サーナ(1975年)

不毛地帯(1976年)、星と嵐(1976年)、ブルークリスマス(1978年)

英霊たちの応援歌 最後の早慶戦(1979年)、ハチ公物語(1987年)

226(1989年)鈴木たか役、いつか どこかで(1992年)、宮澤賢治 その愛(1996年)

天国までの百マイル(1997年)、サトラレ(2001年)、阿修羅のごとく(2003年)

交渉人 真下正義(2005年)、しゃべれどもしゃべれども(2007年)

きみにしか聞こえない(2007年)、しあわせのかおり(2008年)

ガマの油(2009年)、ディア・ドクター(2009年)、引き出しの中のラブレター(2009年)

日輪の遺産(2011年)、明日に架ける愛(2012年)ツナグ(2012年)

舟を編む(2013年)松本千恵役、くじけないで(2013年)- 主演・柴田トヨ 役

ゆずり葉の頃(2015年)- 主演・小河市子 役


 

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