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文化勲章受章者・哲学者・梅原猛さんが93歳で死去 !
プロフィールは ?
(www3.nhk.or.jp:2019年1月14日 12時06分より抜粋・転載)
日本古来の文化や思想を独特の視点で研究した哲学者で、文化勲章を受章した梅原猛さんが、1月12日、肺炎のため亡くなりました。93歳でした。
梅原猛さんは大正14年、仙台市に生まれ、京都大学の哲学科を卒業したあと哲学者としての道を歩みました。
その後、立命館大学や京都市立芸術大学で教授を務めて、日本の歴史や文化、思想を独特の視点で読み解いた多くの著作を発表し、その学問は「梅原日本学」と呼ばれました。
中でも、法隆寺の建立について独自の解釈をした「隠された十字架」や、万葉の歌人、柿本人麻呂の生涯について検証した「水底の歌」は、通説にとらわれない発想で大胆な仮説を展開し、話題となりました。
◆平成11年には文化勲章を受章 !
国際日本文化研究センターの設立にも力を尽くし、昭和62年から8年間、所長を務めたほか、平成9年から15年まで日本ペンクラブの会長を務めました。
こうした功績が認められて平成4年に文化功労者に選ばれ、平成11年(1999年)には、文化勲章を受章しています。
◆「ものつくり大学」の初代総長 !
その後も平成13年に、日本古来の“ものづくり”の原点を見直し、高度な技能や技術を身につけることに重点を置こうと埼玉県に設立された「ものつくり大学」の初代総長を務めたほか、平成23年には東日本大震災の発生後に、政府が設置した「復興構想会議」に参加し、自然との共存を重視する、文明の在り方という視点から提言を行ってきました。
また、平成16年には作家の大江健三郎さんなどとともに、平和憲法の擁護を訴える「九条の会」の設立の呼びかけ人にもなりました。
◆古典芸能の世界にも活動の場を広げました !
さらに、梅原さんは、狂言や歌舞伎といった、古典芸能の世界にも活動の場を広げました。梅原さんの原作をもとに歌舞伎俳優の市川猿之助さん、今の市川猿翁さんが台本や演出を手がけたスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は、斬新でわかりやすい演出と奥深い脚本で大評判となり、歌舞伎の活性化に貢献しました。
平成25年には、古典芸能の「能」を現代風にアレンジしたスーパー能の作品「世阿弥」を制作しています。
親族によりますと、梅原さんは12日午後4時半ごろ、肺炎のため亡くなったということです。
◆田原総一朗さん:「反戦の意思は受け継がないといけない」
哲学者の梅原猛さんは、みずからの戦争体験も踏まえ、一貫して戦争に反対する姿勢を貫いてきました。
10年近く前から親交があるジャーナリストの田原総一朗さん(84)は、梅原さんが亡くなったことについて、「非常にショックで、1つの時代が終わったと言える。梅原さんは、『なぜ日本が戦争を始めたのか、どこが間違っていたのか』を体験的に知っている人だった」と功績をしのんでいました。
そして、「最後に会ったのはおととしだったが、再び戦争を起こしてはならないということや、権力を疑うという姿勢を貫いていて、人間として尊敬していた。私たちの世代は戦争をあいまいに知っているだけなので、梅原さんの反戦という意思は私たちが受け継がないといけない」と話していました。
山折哲雄さん「ものに取りつかれたように仕事をしていた」
哲学者の梅原猛さんが亡くなったことについて、国際日本文化研究センターの元所長で、宗教学者の山折哲雄さん(87)は、「梅原さんとは40年ほど前に知り合ったが、自宅で部屋いっぱいに文献を広げ、ものに取りつかれたように、仕事をしていた様子が、大変印象に残っている。
梅原さんは豪放で遠慮会釈のない批判精神で、内面的なものを考えて表現する世界を、激しくも優しいことばで書き続けた、珍しい人だ。戦後の日本人の哲学において、思想を捉える力が衰退する中で、梅原さんを失った意味は大きい。
まるで平成の終わりという時代の節目を象徴するような亡くなり方だと思う。惜しい人を失った」と話していました。
◆梅原さん:「九条の会」の呼びかけ人も
梅原猛さんは戦時中の自身の体験を踏まえて、戦争の放棄をうたう憲法9条を守ろうと「九条の会」の呼びかけ人にも加わっていました。
「九条の会」は、梅原さんをはじめ、ノーベル賞作家の大江健三郎さんや作家の澤地久枝さんなど9人が呼びかけ人となって平成16年に発足しました。
発足した当時は自衛隊のイラク派遣が本格化していた頃で、その後も訴えを続け、「九条の会」によりますと、趣旨に賛同したグループは平成22年の時点で全国でおよそ7500に上るということです。
一方、9人の呼びかけ人のうち、この10年余りの間に作家の井上ひさしさんや評論家の鶴見俊輔さんなどが亡くなり、梅原さんの死去で7人が亡くなったことになります。
呼びかけ人の1人で作家の澤地久枝さんは、「梅原さんは表だって『九条の会』の活動に取り組むことはなかったが、戦時中の日本をよく知る方で、会の呼びかけ人に加わることで後押ししてくれたと思う。
会の呼びかけ人は、大江健三郎さんと私の2人になりましたが、志は全国各地に広がっていて、梅原さんの思いがこの先も引き継がれていくことを願っています」と話していました。
◆瀬戸内寂聴さん:「京都は宝を失った」
梅原猛さんが亡くなったことについて、親交の深い作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは、「梅原さんは私のことをお姉さん、お姉さんと呼ぶように、普通の友達よりも深いおつきあいでした。
去年だったか私が病気で入退院を繰り返したときに梅原さんが見舞いに来ると電話をしてきたので、ありがたいけど女なのでみっともないところを見られたくないと断り、お互いゲラゲラと笑いあったのを覚えています」と振り返りました。
そして「梅原さんは、京都のあらゆる文化的な面を采配していて、哲学者でありながら政治的にも力のある方で、大変尊敬していました。梅原さんが亡くなったことは、私だけでなく、京都が宝を一つ失ったようなものです」と話していました。
◆京都市左京区・「哲学の道」でも惜しむ声
数々の哲学者が散歩して思索にふけった京都市左京区の「哲学の道」周辺でも、梅原猛さんが亡くなったことを惜しむ声が聞かれました。
哲学の道を3日に1度は歩くという近所の80歳の男性は、梅原さんが平和憲法の擁護を訴える「九条の会」の発起人だったことや瀬戸内寂聴さんと親しかったことなどに触れ、「90歳近くになってもあれほど先進的な活動や研究をされた方はいないので、本当に惜しいです」と話していました。
また、近くに住む66歳の男性は、「京都では有名な人なので、残念です。私はそれほど哲学には詳しくないですが、時代の流れというか、また次からこの分野で新しい人が出てくることを期待したいです」と話していました。
(参考資料)
梅原猛(ウイキペディアより抜粋・転載)
◆梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - 2019年1月12日)は、日本の哲学者である。ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長。また、京都市名誉市民でもある。
京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学文学部哲学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長(初代)、社団法人日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。
◆学歴
旧制東海中学校(東海中学校・高等学校)卒業。
1943年 - 旧制第八高等学校(名古屋大学教養部)卒業。
1948年 - 京都大学文学部哲学科卒業。
1949年 - 京都大学特別研究生(哲学専攻)。
◆職歴
1952年 - 龍谷大学文学部専任講師。
1955年 - 立命館大学文学部専任講師。
1957年 - 立命館大学文学部助教授。
1967年 - 立命館大学文学部教授。
1970年 - 立命館大学文学部教授辞職(大学紛争に当たり)。
1972年 - 京都市立芸術大学美術学部教授。
1974年 - 京都市立芸術大学学長。
1983年 - 京都市立芸術大学学長再選。
1986年 - 京都市立芸術大学名誉教授。
1986年 - 国際日本文化研究センター創設準備室長。
1987年5月 - 国際日本文化研究センター初代所長。
1995年5月 - 国際日本文化研究センター退任。国際日本文化研究センター顧問・名誉教授。
1997年 - 日本ペンクラブ会長。
1997年 - MIHO MUSEUM初代館長。
2001年4月 - ものつくり大学初代総長。
2011年4月 - 東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。
◆経歴
宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡で育つ。
実父は愛知一中、八高を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生だった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生だった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した。
乳児期に実母を亡くし、生後一年九ヶ月で知多半島の名士で、梅原一族の棟梁である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られ養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は、大学講師を退職後、3軒のバー・キャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、戦後トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務や豊田中央研究所所長などを務めた。
私立東海中学には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学するが二ヶ月で退学、翌年第八高等学校文科に入学。理科系の父に似て数学が得意だったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを、押し切っての進学だった。
青年期には西田幾多郎・田辺元ら京都学派の哲学に強く惹かれ、大学進学に際しては東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。そして結局、1945年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。
その年田辺は退官しており、西田もすでに1928年に京都帝国大を退職していたが、梅原は京都帝国大哲学科には西田の影響が存在すると考え、京大への進学を選択した。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。入学直後、徴兵され、9月復学。
大学時代には、実父のところに戻り、父が務めていたトヨタ自動車に近い愛知県岡崎市矢作町や定光寺などにも居住した[4]。
1948年、同大を卒業。
大学院では山内得立、田中美知太郎に師事、マルティン・ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシア哲学を専攻、しかし二度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は、哲学論文の体裁をとっておらず甚だ不評だったが、のちに著作集第一巻の表題となる。
20代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめりこむような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚、同年、長女が生まれた時、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味でひまりと名づける。ひまりはのちヴァイオリニストとなった。
そしてハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。
「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したのだと言う。
寄席に通い、渋谷天外、藤山寛美、大村崑などを研究の対象として論文を書いた[5]。
その後は精力的に神道・仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住む。
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