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大河ドラマ・西郷どん:最終回・「敬天愛人」
大久保利通の深層・真相は ?
(www.nhk.or.jp:2018年12月16日より抜粋・転載)
西郷隆盛(鈴木亮平)は、残った兵士と共に包囲網を突破し、薩摩の城山に到達する。
一方、大久保一蔵(瑛太)は、内国勧業博覧会の準備にまい進していた。そのころ、西郷従道(錦戸亮)は、片足を失い、政府軍に投降した、西郷菊次郎(今井悠貴)を、西郷家に連れて帰る。
政府軍総攻撃の前日、大久保は、降伏すれば、西郷隆盛の命を助けると指令を出すが、西郷は拒否した。城山から最後の戦いに向かう。そして、糸(黒木華)は、夫・西郷隆盛の真意を息子たちに語り始める。
☆西郷どんの目線:解散宣言をした西郷軍は、政府軍の手を逃れて鹿児島へ——。
敗走に次ぐ敗走。そんなさなかに、「降伏すれば、西郷隆盛の命を助ける」という大久保一蔵どんからの文がやってきて……。
そこで初めて、西郷さんは、自分の意思をみんなに伝えます。「おいの体は、おはんらに預けたで」と言った理由は、何だったのか?ずっと誰にも明かしていなかった「本当の目的」を初めて吐露するのです。そこにこそ、西郷さんという人間の、格好よさが集約されていると、僕は感じています。
そして、ついに迎えることになる、西郷隆盛の最期の瞬間。
ここまで、西郷さんとして生きてきましたが、不思議なことに、死の恐怖は全くなく、すがすがしい思いでした。
それは、恐らく、「生」をまっとうしたからではないか、と思います。
僕が生ききった「西郷隆盛」の人生、ぜひ最後まで見届けていただきたいです。
☆西郷隆盛の死から数ヶ月後、大久保利通(一蔵)は、不平士族の手によって暗殺されます。
(参考資料)
大久保利通(一蔵)が暗殺された理由 !
西郷隆盛からの手紙の内容とは?
(pleasure-bit.com:2018年9月15日より抜粋・転載)
明治維新の功労者で、寡黙な政治家として知られる大久保利通。
今回は幼い頃からの友達で盟友でもある西郷隆盛との関係や、暗殺された理由を調べてみました。
大久保利通と西郷隆盛は、なぜ喧嘩別れすることになってしまったのか?
そして、大久保が暗殺された時に持っていたとされる西郷隆盛からの手紙とは?
そして、現代に遺されている大久保利通の貴重な遺品にも注目してみましょう。
■目次
※大久保利通ってどんな人?簡単に解説!
※大久保利通と西郷隆盛の関係はどうだったの?
※大久保利通の暗殺時の状況
※大久保が暗殺された理由とは?
※暗殺時に持っていたとされる西郷からの手紙
※現存する大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車
※大久保利通の子孫
☆大久保利通ってどんな人?簡単に解説 !
大久保利通は薩摩藩(鹿児島県)出身の武士。
若い頃の名前を大久保一蔵といい、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)と共に明治維新の三傑とされています。明治維新の三傑というのは、倒幕や明治維新での功績が大きく、中心的な役割を果たした3人のことです。志士時代の大久保利通(一蔵)
ただ、大久保の活躍は幕末の志士としてよりも明治時代の政治家としての方が有名で、廃藩置県(藩を廃止して県を設置)、版籍奉還(領地と領民を天皇へ返還する)に関わり、内務卿として徴兵令や地租改正を行なっています。
幕末に兵を率いて戦った西郷隆盛が有能な実戦指揮官だとしたら、大久保利通は本陣で作戦を練り、調略などを行う参謀というイメージですね。
また、大久保は他の人が萎縮してしまうほどの威厳があり、人斬り半次郎と恐れられた桐野利秋も、大久保には面と向かって意見することができなかったとされています。
そして、政治家としての資質にも優れ、国の借金も自分の私財でまかなっていました。
西郷隆盛、木戸孝允もそうですが、やはり大久保利通は人間としての器の大きさが他の政治家とは違っていたように思います。大久保利通と西郷隆盛の関係はどうだったの?
明治維新の中心人物となった大久保利通と西郷隆盛は共に薩摩藩出身で友人関係にありました。
年齢は西郷の方が2歳年上。
若い頃は仲がよく、お互いの家に行ったり来たりする関係だったようですが、明治政府の要職に就くと、2人の関係性は微妙なものとなっていきます。
その原因となったのが大久保が岩倉使節団の一員としてアメリカやヨーロッパを視察したこと。
外国の国力を目の当たりにした大久保や岩倉具視、木戸孝允と、日本に残っていた西郷隆盛や板垣退助たちの意見が食い違うようになります。
西郷は武力で朝鮮を征服して外国が攻めてきた時に対抗できるようにしよう考えの持ち主でした。
これを「征韓論(せいかんろん)」というのですが、海外を視察した大久保たちは朝鮮を支配することよりも、内政を充実させて国力を増すほうが先決だと「征韓論」を真っ向から否定します。
このことがきっかけで西郷は明治政府の役人を辞めて故郷である鹿児島に戻ります。
そして、鹿児島で私学校を開き、若手育成に努めます。
大久保と西郷は明治維新までは「徳川幕府を倒す」という共通の目的があったため同じ方向を向いていましたが、明治時代になって目指すべきゴールに違いができてしまいます。
大久保利通と西郷隆盛は苦楽を共にした友人ではありますが、明治政府の要職に就いてからは意見の違いから対立して仲違いしてしまった訳です。
そして、後に大久保らは廃刀令に端を発した不平士族の反乱に苦慮することになりますが、その不平士族が明治政府に対する戦いのリーダーに選んだのが鹿児島にいた西郷でした。
一報をうけた大久保はデマだとして西郷の挙兵を信じませんでしたが、続報が入るうち事実であると分かると、自ら鹿児島に赴き、西郷を説得する姿勢を見せます。
しかし、大久保自らが鹿児島に出向けば不平士族の標的になることが明白だったため、周りが大久保を鹿児島に行かせず、結局西郷に合うことはできず・・・。
数ヶ月の後、西郷の死の報いに対し「私ほど西郷を知っている者はいない」号泣したと伝わっています。意見の違いから対立したとは言え、西郷は志を同じくした同志であり友人。
その友人を死に追いやったことを大久保は生涯悔やみ続けたのではないかと思います。
関連記事→西郷隆盛の本当の顔と銅像が上野公園にある理由!!
◆大久保利通の暗殺時の状況
西郷の死から数ヶ月後、大久保は不平士族の手によって暗殺されます。
暗殺当日、大久保は「戦乱も収まってようやく平和になった。明治維新を完成させるにはには30年の月日がいるが、自分は20年目まで内政に尽くし、あとの10年で後進に任せる。」という想いを、挨拶に来た福島県令に打ち明けています。
そしてその後、明治天皇に謁見するために赤坂御所に向かったところで、6人の不平士族の襲撃されます。馬車で赤坂御所に向かっていた大久保、従者の中村太郎と芳松たちが紀尾井町にさしかかると、花を手にした2人の若者が立っていました。
芳松が馬車を降りて若者に道を開けてくれるように歩み寄った瞬間、若者は隠し持った短刀で馬の前足を斬ります。
これを機に、脇に潜んでいた仲間が飛び出し、大久保のいる馬車を襲撃。
芳松は、背中に傷を負いながら助けを求めて走り去ります。
中村は刺客の1人に斬られて即死。
刺客らが馬車に群がり大久保を引きずり下ろそうとすると、大久保は刺客らに向かって「無礼者」と一喝。しかし、刺客は大久保の眉間に短刀を振りぬき、さらにひとりが腰を深く貫いたため、大久保は動けなくなります。そこに頭部めがけてさらなる斬撃。
力なく馬車から転げ落ちた大久保でしたが、まだ意識はあり、立ち上がって歩きだしたといいます。
そこに刺客たちがさらなる傷を負わせ、倒れた大久保の首に短刀を突き刺しました。
刺客らはその足で赤坂御所へと向かい自首。
守衛に大久保利通の暗殺を告白し、書簡を差し出しました。
それには、大久保をはじめ多くの政治家に対する不満、政策への批判、西郷を自刃に追い込んだ事への抗議などが綴られていました。
一方、助けを呼びに行った芳松に促され紀尾井町へ駆けつけた政府高官たちは絶句。
惨殺の無残さもさることながら、大久保の遺体の首に刺さっていた日本刀は地面にまで突き刺さっていたそうです。記録では16の傷のうち半数は頭部に集中、凄まじい憎悪の念が感じられ、現場に駆けつけた官僚は暗殺された大久保のの状況を「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と語っています。
◆大久保が暗殺された理由とは?
暗殺犯が持っていた斬奸状には暗殺理由として次のように記されていました。
国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。
法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。
もっともらしい内容で不平士族の気持ちも分からないでもないような気がしますが、多くの人が政治に関わっている以上、全てが公正で丸く収まるということはありません。
大久保は明治維新を完成させるのに30年の月日がかかると考え、必死に努力していたのだと思いますが、不平士族たちに大久保の長期的な視点は到底理解できなかったようです。
大久保の暗殺犯は島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤の6人。
いずれも事件後に自首し、市ヶ谷監獄に収監された後、2か月後に斬首刑に処せられています。
国を治めるというのは簡単なことではなく、しかも明治維新から10年程度しか経っていない状態。
このタイミングで大久保を失ったことは明治政府にとって大きな損失だったハズです。
◆暗殺時に持っていたとされる西郷隆盛からの手紙
大久保が暗殺された時、懐には西郷隆盛からの手紙が2通あったとされています。
暗殺と同じ日の東京日日新聞の記事によれば、1通は「外国人が王政復古の大号令を曲解して本国に伝えないように説明してほしい」というもの。
そして、もう1通は、「みっともないから、もう写真を取るのは、やめなさい」と言うものでした
(西郷は大の写真嫌い)。
大久保が、常に西郷からの手紙を持ち歩いていたとは、考えにくいですが、西郷からの手紙をずっと取っておいたということで、も大久保が西郷のことを心に留めていたのがよく分かる逸話です。
◆現存する大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車
大久保利通は馬車に乗っていたところを襲撃されているのですが、実は暗殺された時に実際に乗っていた馬車が現存しています。馬車がある場所は岡山県の五流尊龍院という寺院。
大久保亡き後に永代供養のために奉納されたそうです。
当時の馬車が残っていることにビックリですが、それが大久保利通との関わりが全く浮かばない岡山県にあるのにも驚きました。この馬車の存在は、もう少し大々的に知られても良いような気がします。
◆大久保利通の子孫・麻生太郎氏
大久保利通には、妻の満寿子と、おゆうという妾がいて、八男一女を設けています。
仕事場では、厳しく寡黙だったとされる、大久保も家庭では、優しく子煩悩な父親だったとされています。
第92代の内閣総理大臣を努めた、麻生太郎(母・和子は吉田茂の娘。故に吉田茂元首相の孫)さんも大久保利通の子孫(大久保利通の次男の娘・雪子は吉田茂と結婚した。父・麻生太賀吉は、吉田茂の娘・和子と結婚して、生まれたのが、麻生太郎。大久保利通の玄孫)です。
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