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混迷する日本。歩むべき方向を模索しながら、自分の信念が見えない人たちに、落ち着いて以下の文章を読んでください。今日本が足らねばならない行動が見えてくるのではないでしょうか。
森田実氏ホームページから「渡部良明;母と語る小沢一郎論」
第23回・最終回(2007.2.28)
心ある人々の力を民主党のために、そして日本のために――苦難を超えて、ともに生き抜こう!
安倍内閣が迷走している。中川幹事長による“贔屓の引き倒し”のせいで、安倍総理の“重み”のなさだけでなく、同内閣が浅薄な「欠陥内閣」だということが露呈した。
だが、もともと、それは分かりきっていたことだ。それに元来、安倍氏に“威厳”やリーダーシップなどはない。それを“毛並みの良さ”と女性受けや世間受けする外見、加えて「拉致問題」に対する姿勢で、彼を総理に祭り上げたのは、自民党員のまったくの打算だった。しかし、それが“思わぬ誤算”だったことを彼らは薄々感じ始めている。この思いは今後、ますます強まろう。今夏の参議院選挙で、安倍氏の応援を辞退する候補者も多いのではあるまいか。
端的に言って、安倍氏は、政治指導者として“若い”というよりはあまりにも“未熟”だと思う。彼に対して、かつてのアメリカ大統領J・F・ケネディは、若くてカリスマ性があっただけではない。彼は無類の読書家で、非常に深い思想と確固たる政治哲学を持っていた。無論、安倍氏は、ケネディと比ぶべくもない。まさに「月とスッポン」である。
正直なところ、安倍総理は、政治指導者としては“贋物”だと思う。「政治的な毛並みの良さ」というメッキで、どれほど糊塗しても、彼は、実質的には“何も持っていない”。まるで独活(うど)の大木か、翌檜(あすなろ)のようなものだ。
すでに旧聞に属するが、2月19日はアメリカの祝日「大統領の日」だった。それに合わせて、暗殺される直前のケネディ大統領(夫妻)の写真がインターネット上で公開された。ちょうど、暗殺90秒前のものだという。ジャクリーン夫人の美しい笑顔が印象的だ。また、大統領の自信に満ち、“すべてを信じきった”ような威厳を湛(たた)えた勇姿が、見る者の心を打つ。ケネディ大統領は最期の瞬間まで、同胞を信じ、同時に人間そのものを信じきっていた。
1963年11月22日――アメリカと世界は“平和の使徒”、かつ“時代の良心”とも言うべき偉大な政治指導者を亡くした。ケネディの死後、米国の諸大統領は、嘔吐を催すほどの“俗物大統領”のオンパレードだった。
今日のブッシュに至っては、まるで“猿の惑星”の大統領かと思わせるほどの似非(えせ)指導者ぶりである。彼は、大統領というよりも、まるでサーカスのピエロのような印象だ。それを珍重する自民党政治家たちの、何と救い難きことか! まさに喜劇を通り越して、表現しがたき“悲劇の世界”である。悲しいことに、その「悲劇の主人公」はわれわれ日本国民なのである。
ところで、「人生はたった一度」と高杉晋作(1839〜67)は言った。たった一度の人生ならば、悔いを残さず生きたいものだ。そこでは、己れの“魂の声(=良心)”に従い生き抜くことが大切だ。それに、たとえ見果てぬ夢であっても、可能な限り挑戦しよう。たとえ、夢が叶わなくても、駄目でもともと。おじけて挑戦しないよりはましではないか。初めから、敗北者になるのではなく、自らが瞑目する日まで、生涯、 “一挑戦者”になろう。たった一度の人生ならば、自分にしかできない「生き方」を貫いてみよう。われわれはそのために、この世に“生”を受けたのだと思うのだ。
今回は、少し「政治」の話から離れて、私は、母に次のように訊ねた。「お母さんは、人間が生きる上で大切なことは一体何だと思う?」、と。すると、母はこのように答えた。
「私はこの前、82歳になったばっかりだけど、生きる上で大切なことなど、まだよく分からないね。でも、そんな私でも正直に思えることは、次のようなことだね。
まず第一に、“失敗を怖れないこと”だろうね。失敗だけじゃなく、何事も怖れないことが大事だろうね。どんな事態になっても、慌てる必要はないと思っているよ。おじいちゃん(=母の父)がよく言っていたよ、『山よりも大きな猪は出てこない』と。何事も怖れるな!と言いたかったんだろうね。
第二に、“自分や人を信じること”かしらね。これは、最終的には仏様や神様を信じることにつながるだろうね。今の日本人は、人への信頼感や神・仏への信仰心が薄いような気がするよ。日本人は本来、“信じる心”を持っているのだから、それを雑念なく育んでいけばいいと思うよ。
第三に、『反省と感謝の心』じゃないかしらね。人間は誰しも完璧な人なんていやしないと思う。間違いや過失を犯すからこそ『人間』だと思うね。でも大事なことは、その人が過ちを犯しても、自ら深く反省することができるかどうかだと思う。それに、何事に対しても“感謝する気持ち”が大事だと思うね。今の日本人は、この感謝する心が一番欠落していると思うよ。何か、驕っているんじゃないかな。私も、他人事みたいには言えないけれど、心から気をつけたいね。
第四に、“つねに希望を失わないこと”かしらね。今の日本は、『希望の喪失』が一番の問題だと思うね。人が幸せか不幸せかというのは、お金のあるなしの問題じゃないと思う。もちろん、お金は大事だけれど、それが直接幸福につながるとは思えないね。それに、いろいろな言い方ができるだろうけれど、その人が生きることに希望を持っているかどうかが、その人の幸不幸を左右するような気がするよ。まだ、82歳の“未熟者”の私、あまり大きなことは言えないけれどね。
それで、この四つを併せ持っているのが、実は、小沢先生じゃないかしらね。先生は、何も怖れてはいらっしゃらないもの。それに今までも、心底人を信じてこられたよね。それだけに、随分と人々から裏切られた経験をお持ちだけれど、決してそういった人々を恨まず、いまも『希望』を捨ててはおられないと思う。また、いままでもさまざまなことを反省なさり、つねに感謝の心を忘れておられないと思うよ。その豊かなお気持ちがいま、小沢先生のお顔にも出ているんじゃないかな。
そのようなお気持ちを土台にして、ひたすら先生は、ことし夏の参院選での『民主党の勝利』を確信しておられると思うよ。そういった小沢先生の真心を、周囲の方々ばかりじゃなく、より多くの国民が信じてあげられたらいいのにね。私は心からそう思うよ」と。
母の「人生論」は、いつの間にか、彼女の敬愛する「小沢一郎論」になっていた。
一つの短歌がある。「哀しくて 生きることさえ 切なくて ただひたすらに 吾は歩けり」。 実は、八方ふさがりになったときの私自身の気持ちを詠んだものである。人はときに、“生きることさえ切なくて”、何もかも放り投げたい気持ちになることがある。そんなとき、私には、ただひたすら街路を歩くことしかできなかった。だが、歩くのが必要だから歩いたのではない。ただ、独りで歩かずにはいられなかったのだ。
人間は、「他者(ひと)を誤解し、他者からも誤解される」生き物だ。他者を真に理解し、他者から真に理解されることは、なかなかむずかしい。それは、夫婦間でも友人間でも言える。互いに誤解することが、いさかいや争いにまで発展する。もっと冷静になり、寛容になればいいのに、なかなかそうはできないものだ。むしろ、自分の欠点は棚に上げて、心の中でつい相手を責めてしまう。
そんなとき、もっと“素直な心”“明るい心”になれたらいいなと思う。ひたすら歩き続けながら、ふと思う。“あれ、私は自分のことばかり考えている” と。たとえ万分の一でも、千分の一でも多く、自分のことよりも相手のことを考えられたら、きっと人間はもっと幸せになれるのだと思う。もっと“素直な心” “明るい心”になれたらいいな、と思う今日この頃である。
われらが人生は、たとえそれがどれほど苦難に満ちたものでも、本当に“すばらしい”と思う。たとえ、それがどんなに短いものでも、人生とは実に“ありがたいもの”だ。
私たちは、それぞれに異なる人生を歩む。人それぞれの人生が、おのおの違った色合いと輝きを放つ。人生がたとえいかなるものであれ、それを生き抜いてこその人生だ。
人は、一人で生まれ、一人で死ぬ。多々反省はしても、正直、悔いの残らない人生でありたい。それゆえ、それぞれに、威風堂々と生き抜こう。たとえ数々の苦難があっても、前をしっかりと見据えて、胸を張って生きて行こう。 人生――それは、われわれの魂を磨く道場。
人生――それは、いろいろな宝物を発見できる無限の宝庫。
人生――それは、私たちの魂を導く「教師」。
人生――それは、われわれ一人一人が名演技をすべき天下の晴れ舞台。…
われわれは、人生の終幕の日に堂々と心の中で叫ぼう、「人生、君は本当に美しい」と。
ところで、この世のあらゆるものが神によって創られたものとするなら、その“最高傑作”は、一体何だと思われるだろうか?
私は、「涙」ではないかと思う。人生で涙を一度も流さなかった人はいないはずだ。人はそれぞれに、他者(ひと)には言えぬ悲しみを背負い、それでも希望を抱いて生きている。人は悲しいときや切ないとき、あるいは辛いちきや淋しいときなどに自然と涙がこぼれる。反対に、嬉しくてたまらないときや喜びの絶頂にいるときにも、思わず涙があふれるものだ。心から感動したときも感激の涙が流れる。このように、人は感涙を通して自らの“正直な思い”を吐露する。
しかし、涙のなかで最も多いのは、やはり「悲しみの涙」ではないだろうか。肉親や愛する人を病気や事故あるいは事件などで亡くしたり、親しかった友人と離別したり、信頼していた友人に裏切られたりして、人は悲しみの涙を流す。
けれども、私たちはもはや“涙も流れない”ほどに辛い体験をすることがある。実際、あまりにも悲しすぎて涙も流れないのだ。ときには悲しみがあまりにも深いため、気が狂(ふ)れる一歩手前まで行くこともあろう。
そのような場合、涙の存在は実にありがたいものだ。それは私たちにとって“無上の慰め”となるからだ。事実、人は落涙によって癒される。ときに涙は人の心を浄化さえしてくれる。その意味でも、涙は神様の“最高傑作”と言えるのではないだろうか。
戦後間もない頃、『にがい米』というイタリア映画があった。ときに、惨めな思いをして生きるがための「食」を得るのが、われらが人生である。人間、誰でも歯を食いしばりながら働き、かつ生き抜いている。“明日は、今日よりもよくなる”という思いを抱きながら。だが近年、この確信さえも疑わしいものになってきた。そこに“政治の貧困”があり、自民党さえも手玉にとる「官僚政治」や「官僚支配」の根深い問題が存在する。
実際、人が生活に窮して「今日の米に事欠く」ということもある。ときには、“神も仏もあるものか!”と悲憤慷慨することもあろう。それでも、われわれは生き抜かなければならない。決して辛い人生から逃げてはならないと思う。生活の苦しみや絶望感から死を望む人が多い今日、かつて与謝野晶子が戦地に赴く弟に対して言ったように、「君、死に給うこと勿れ!」と叫びたい。苦しいのは、決して「あなた」だけではない。この世には、生きたくても生きられない人さえいるのだ。
われわれは、涙なしには生きられない。前述したように、悲しくても涙、切なくても涙、また嬉しくても涙、まさに涙あってこその人生だ。涙こそ、われらが生涯の良き友だ。
親鸞上人は「愛欲の広海に沈み」と、自らの欲望(とくに性欲)の強さ・深さを告白なさった。上人の正直さに私は感動する。だが、人間の欲望だけでなく、まさにわれらが人生こそが広く、かつ深き「海」である。それも古今東西、数限りない人々が共通して流した涙によってできた“涙の海”だ。われわれは、「人生」という名の苦難や苦痛に満ちた、この”涙の海”を泳いで渡らなければならない。ならば、友よ、ともに涙の海を泳いで渡ろう! われら一人一人に渡り切る勇気と力が、平等に与えられていると思うのだ。
ところで、政治家とは無論、政治(行財政を含めた)や政策のプロであってほしい。だが、何よりも、人々が悲しみや苦しみで涙するとき、ともに“涙を流せる人”であってほしい。民主党員(とくに若い方々)に現在、この心情と目線で、人々に接する気概と真心があるだろうか? 苦しむ人々の汗と涙に心底共鳴できるだろうか?
共産党と公明党――ともに、その全体主義的な組織政党ゆえに、国民の警戒と批判の対象となる。だが、両党の党員諸氏は、いままで社会的弱者とともに涙し、人々に「希望」を語れるだけの“大衆性”を保ってきた。無論、両党には「組織が個人に優先する(ときには個人を犠牲にする)」という“本質的な欠陥” がある。だが、さまざまな問題を内包しつつも、今日まで彼らが培ってきた“大衆性”こそは非常に強力である。決して侮れるものではない。
正直、新参でもある民主党員に彼らに比肩し得るほどの“大衆性”があるだろうか? 民主党は、労組などの「組織票」に依存してはいないだろうか? 民主党は、国民一人一人の顔を思い浮かべれるような真の「大衆政党」だろうか?
人々の涙にともに涙し、汗をかきながら歩き回り、ともに働き、かつ人々と語り合い、その悩みや訴えに耳を傾け、土の匂いさえも感じられることこそ、真の「政治」ではあるまいか。私は、政治とは、単なる理論や理屈ではないと思う。もっと汗臭く、土の匂いのするものではないかと思うのだ。
だが、現在の民主党は、その涙と汗と土の匂いを忘れつつあるのではないだろうか。そのような民主党から、心ある農民や漁業従事者、それに中小企業の経営者や労働者が離れつつあるように思う。今日の苦難を知っているのは、誰よりもさまざまな「社会的弱者」である。このような人々とともに歩み、ともに苦しみ、ともに希望を見出してこそ、真の“政治の意味”があるのではあるまいか。
「苦難を超えて、ともに生き抜こう!」というのが、私の正直な願いである。だが同時に、これは政治家諸氏の胸底に存する願いであってほしい。
言うまでもなく、政治は社会的弱者を幸せにするために存在すると思う。しかし、“人々のために”という思い以上に、“人々とともに”という視点も大事だと思うのだ。その意味で、政治とは「人々(とくに社会的弱者)とともに自らが幸せになる行為」とは言えないだろうか。そこでは、社会的弱者を単に救うべき「他者」として認識するのではなく、むしろ“自分と同一”だという一体感が求められる。
私が理想とするマハ―トマ―・ガンディーや尊敬する宮沢賢治には、このような社会的弱者との全き“一体感”があったと思う。インド独立(1947年)直後、ガンディーは、彼の祝福を求めに来た国民会議派の新米議員たちに対して、次のように述べた。
「今日から、あなた方は、茨の冠(イエス・キリストが処刑前に被せられたもの)を被るのです。権力に気をつけなさい。権力は必ず腐敗します。その虚飾と見掛け倒しの罠に陥らないようにしなさい」と。
あえて理想を論じるならば、私は、「真の政治家」とは、単に政治・経済的、あるいは法律的な知識や理論を駆使できるエリートのことではなく、むしろつねに「社会的弱者」と自己を“一体化できる人間”のことだと思う。そして、この一体化の視点に立ち、「苦難を超えて、ともに生き抜こう!」と訴えることのできる人だと思える。
正直、私は、小沢一郎氏は、このような言葉を魂の奥底から言える“真の政治家”だと思うのだ。事実、小沢氏は次のように述べている。
「経済を立て直すことは、正しい政策を手順を間違えずに実行すれば、それほど難しくありませんが、精神を立て直し、国民が心を奮い立たせて新しい国づくりに取り組めるようにするのは、至難のわざです。したがって、私たちは、何よりも、日本人の心の荒廃を直視し、日本人のよき資質を再生させることに心を砕くべきです」と(小沢一郎・菅直人『政権交代のシナリオ――「新しい日本」をつくるために』、PHP研究所)。
小沢氏ほど、自ら「日本人の“心の荒廃”を直視し、日本人の“よき資質”を再生させることに心を砕いている」政治家は、そういないであろう。私は、彼こそは真に日本の危機や日本人の問題を正確に把握し、その解決策を国民に提示できる“唯一の政治指導者”だと思う。
それゆえ、小沢氏を旗頭に、「心ある人々の力を民主党のために、そして日本のために結集しよう!」と心から訴えたい。そこで、「生活維新」こそは民主党員、ならびにその支持者がともに擁(いだ)ける立派なスローガンとなろう。
今夏の参院選で自民党は敗北を喫するだろう。
では、その勝利者は民主党だろうか? 正直言って、いまの私にはそのようには思えない。同選挙は、いままでよりもっと“政党離れ”の進んだ選挙になるのではあるまいか。過日の宮崎県知事選挙は、その“先触れ”だったかもしれない。その意味で、真の勝利者はどの政党にも属さない“無党派層”ということになりかねない。
あるいは、先日の亀井静香氏の名演説や糸川正晃氏などの活躍の影響もあり、国民新党が大躍進するかと思う。正直、自民党に対する批判票は民主党にではなく、むしろ国民新党に流れる可能性が大きいと思う。同党には、真摯さと真の“迫力”がある。つまり民主党も実質的に、自民党同様、“負ける可能性”さえあると思うのだ。
だが、決して負けてほしくはない。むしろ、堂々と勝ってほしい。そのためには同党には真に魅力ある政党になってほしい。民主党はそれが十分可能だと私は思う。しかしそのためには、鳩山幹事長が語ったように、「今夏の参議院選挙は、民主党にとって(自民党同様)、まさに“背水の陣”だ」という覚悟と気構えが必要だと思うのだ。
11年前に「民主党」が結成された後、「同党は、菅氏と鳩山氏の路線の違いが、やがて同党の分裂を生むだろう」と自信を持って予言した一人の政治家がいる。石原東京都知事である(『諸君!』平成8年12月号「幼稚な国の幼稚な選挙」より)。だが、民主党は石原氏の予言どおり分裂しただろうか? ましてや、小沢氏が民主党の代表になるなどとは、石原氏でさえも予想できなかっただろう。
ことほど左様に、日本にはいま、わが国を正しい方向に導こうとする“時代の嵐(=真の神風)”が吹こうとしている。われわれは、その“歴史の声”に耳を傾けるべきだと思うのだ。
民主党は、真に祖国日本と日本国民を愛する人々が集う政党だ。同時に、「政治」を官僚の手から国民の手に取り戻し、国民主体の政治にしようと考える人々の政党でもある。さらには、日本が自らの力で世界平和に貢献することを心底願う人々による政党だ。
「わが同胞(はらから)よ、民主党の旗の下に集まろう!」――これこそが、日本国民を真に幸せにする道だと私は確信する。
小沢代表のご健康と民主党員諸兄の今後のご活躍とご健闘を心より祈念したい。衷心からの期待と皆様への感謝を胸に、拙稿を謹んで擱筆したいと思う。〈了〉
【5か月間、拙稿「母と語る小沢一郎論」をご愛読くださり、本当にありがとうございました。なお、森田実様はじめ森田総合研究所の皆様方にはた大変お世話になりました。心より御礼申し上げます――渡邉良明】【4月から新しい視座に立って渡邉良明さんの新連載が始まります。ご期待ください――森田総研HP編集部】
第23回・最終回(2007.2.28)
心ある人々の力を民主党のために、そして日本のために――苦難を超えて、ともに生き抜こう!
安倍内閣が迷走している。中川幹事長による“贔屓の引き倒し”のせいで、安倍総理の“重み”のなさだけでなく、同内閣が浅薄な「欠陥内閣」だということが露呈した。
だが、もともと、それは分かりきっていたことだ。それに元来、安倍氏に“威厳”やリーダーシップなどはない。それを“毛並みの良さ”と女性受けや世間受けする外見、加えて「拉致問題」に対する姿勢で、彼を総理に祭り上げたのは、自民党員のまったくの打算だった。しかし、それが“思わぬ誤算”だったことを彼らは薄々感じ始めている。この思いは今後、ますます強まろう。今夏の参議院選挙で、安倍氏の応援を辞退する候補者も多いのではあるまいか。
端的に言って、安倍氏は、政治指導者として“若い”というよりはあまりにも“未熟”だと思う。彼に対して、かつてのアメリカ大統領J・F・ケネディは、若くてカリスマ性があっただけではない。彼は無類の読書家で、非常に深い思想と確固たる政治哲学を持っていた。無論、安倍氏は、ケネディと比ぶべくもない。まさに「月とスッポン」である。
正直なところ、安倍総理は、政治指導者としては“贋物”だと思う。「政治的な毛並みの良さ」というメッキで、どれほど糊塗しても、彼は、実質的には“何も持っていない”。まるで独活(うど)の大木か、翌檜(あすなろ)のようなものだ。
すでに旧聞に属するが、2月19日はアメリカの祝日「大統領の日」だった。それに合わせて、暗殺される直前のケネディ大統領(夫妻)の写真がインターネット上で公開された。ちょうど、暗殺90秒前のものだという。ジャクリーン夫人の美しい笑顔が印象的だ。また、大統領の自信に満ち、“すべてを信じきった”ような威厳を湛(たた)えた勇姿が、見る者の心を打つ。ケネディ大統領は最期の瞬間まで、同胞を信じ、同時に人間そのものを信じきっていた。
1963年11月22日――アメリカと世界は“平和の使徒”、かつ“時代の良心”とも言うべき偉大な政治指導者を亡くした。ケネディの死後、米国の諸大統領は、嘔吐を催すほどの“俗物大統領”のオンパレードだった。
今日のブッシュに至っては、まるで“猿の惑星”の大統領かと思わせるほどの似非(えせ)指導者ぶりである。彼は、大統領というよりも、まるでサーカスのピエロのような印象だ。それを珍重する自民党政治家たちの、何と救い難きことか! まさに喜劇を通り越して、表現しがたき“悲劇の世界”である。悲しいことに、その「悲劇の主人公」はわれわれ日本国民なのである。
ところで、「人生はたった一度」と高杉晋作(1839〜67)は言った。たった一度の人生ならば、悔いを残さず生きたいものだ。そこでは、己れの“魂の声(=良心)”に従い生き抜くことが大切だ。それに、たとえ見果てぬ夢であっても、可能な限り挑戦しよう。たとえ、夢が叶わなくても、駄目でもともと。おじけて挑戦しないよりはましではないか。初めから、敗北者になるのではなく、自らが瞑目する日まで、生涯、 “一挑戦者”になろう。たった一度の人生ならば、自分にしかできない「生き方」を貫いてみよう。われわれはそのために、この世に“生”を受けたのだと思うのだ。
今回は、少し「政治」の話から離れて、私は、母に次のように訊ねた。「お母さんは、人間が生きる上で大切なことは一体何だと思う?」、と。すると、母はこのように答えた。
「私はこの前、82歳になったばっかりだけど、生きる上で大切なことなど、まだよく分からないね。でも、そんな私でも正直に思えることは、次のようなことだね。
まず第一に、“失敗を怖れないこと”だろうね。失敗だけじゃなく、何事も怖れないことが大事だろうね。どんな事態になっても、慌てる必要はないと思っているよ。おじいちゃん(=母の父)がよく言っていたよ、『山よりも大きな猪は出てこない』と。何事も怖れるな!と言いたかったんだろうね。
第二に、“自分や人を信じること”かしらね。これは、最終的には仏様や神様を信じることにつながるだろうね。今の日本人は、人への信頼感や神・仏への信仰心が薄いような気がするよ。日本人は本来、“信じる心”を持っているのだから、それを雑念なく育んでいけばいいと思うよ。
第三に、『反省と感謝の心』じゃないかしらね。人間は誰しも完璧な人なんていやしないと思う。間違いや過失を犯すからこそ『人間』だと思うね。でも大事なことは、その人が過ちを犯しても、自ら深く反省することができるかどうかだと思う。それに、何事に対しても“感謝する気持ち”が大事だと思うね。今の日本人は、この感謝する心が一番欠落していると思うよ。何か、驕っているんじゃないかな。私も、他人事みたいには言えないけれど、心から気をつけたいね。
第四に、“つねに希望を失わないこと”かしらね。今の日本は、『希望の喪失』が一番の問題だと思うね。人が幸せか不幸せかというのは、お金のあるなしの問題じゃないと思う。もちろん、お金は大事だけれど、それが直接幸福につながるとは思えないね。それに、いろいろな言い方ができるだろうけれど、その人が生きることに希望を持っているかどうかが、その人の幸不幸を左右するような気がするよ。まだ、82歳の“未熟者”の私、あまり大きなことは言えないけれどね。
それで、この四つを併せ持っているのが、実は、小沢先生じゃないかしらね。先生は、何も怖れてはいらっしゃらないもの。それに今までも、心底人を信じてこられたよね。それだけに、随分と人々から裏切られた経験をお持ちだけれど、決してそういった人々を恨まず、いまも『希望』を捨ててはおられないと思う。また、いままでもさまざまなことを反省なさり、つねに感謝の心を忘れておられないと思うよ。その豊かなお気持ちがいま、小沢先生のお顔にも出ているんじゃないかな。
そのようなお気持ちを土台にして、ひたすら先生は、ことし夏の参院選での『民主党の勝利』を確信しておられると思うよ。そういった小沢先生の真心を、周囲の方々ばかりじゃなく、より多くの国民が信じてあげられたらいいのにね。私は心からそう思うよ」と。
母の「人生論」は、いつの間にか、彼女の敬愛する「小沢一郎論」になっていた。
一つの短歌がある。「哀しくて 生きることさえ 切なくて ただひたすらに 吾は歩けり」。 実は、八方ふさがりになったときの私自身の気持ちを詠んだものである。人はときに、“生きることさえ切なくて”、何もかも放り投げたい気持ちになることがある。そんなとき、私には、ただひたすら街路を歩くことしかできなかった。だが、歩くのが必要だから歩いたのではない。ただ、独りで歩かずにはいられなかったのだ。
人間は、「他者(ひと)を誤解し、他者からも誤解される」生き物だ。他者を真に理解し、他者から真に理解されることは、なかなかむずかしい。それは、夫婦間でも友人間でも言える。互いに誤解することが、いさかいや争いにまで発展する。もっと冷静になり、寛容になればいいのに、なかなかそうはできないものだ。むしろ、自分の欠点は棚に上げて、心の中でつい相手を責めてしまう。
そんなとき、もっと“素直な心”“明るい心”になれたらいいなと思う。ひたすら歩き続けながら、ふと思う。“あれ、私は自分のことばかり考えている” と。たとえ万分の一でも、千分の一でも多く、自分のことよりも相手のことを考えられたら、きっと人間はもっと幸せになれるのだと思う。もっと“素直な心” “明るい心”になれたらいいな、と思う今日この頃である。
われらが人生は、たとえそれがどれほど苦難に満ちたものでも、本当に“すばらしい”と思う。たとえ、それがどんなに短いものでも、人生とは実に“ありがたいもの”だ。
私たちは、それぞれに異なる人生を歩む。人それぞれの人生が、おのおの違った色合いと輝きを放つ。人生がたとえいかなるものであれ、それを生き抜いてこその人生だ。
人は、一人で生まれ、一人で死ぬ。多々反省はしても、正直、悔いの残らない人生でありたい。それゆえ、それぞれに、威風堂々と生き抜こう。たとえ数々の苦難があっても、前をしっかりと見据えて、胸を張って生きて行こう。 人生――それは、われわれの魂を磨く道場。
人生――それは、いろいろな宝物を発見できる無限の宝庫。
人生――それは、私たちの魂を導く「教師」。
人生――それは、われわれ一人一人が名演技をすべき天下の晴れ舞台。…
われわれは、人生の終幕の日に堂々と心の中で叫ぼう、「人生、君は本当に美しい」と。
ところで、この世のあらゆるものが神によって創られたものとするなら、その“最高傑作”は、一体何だと思われるだろうか?
私は、「涙」ではないかと思う。人生で涙を一度も流さなかった人はいないはずだ。人はそれぞれに、他者(ひと)には言えぬ悲しみを背負い、それでも希望を抱いて生きている。人は悲しいときや切ないとき、あるいは辛いちきや淋しいときなどに自然と涙がこぼれる。反対に、嬉しくてたまらないときや喜びの絶頂にいるときにも、思わず涙があふれるものだ。心から感動したときも感激の涙が流れる。このように、人は感涙を通して自らの“正直な思い”を吐露する。
しかし、涙のなかで最も多いのは、やはり「悲しみの涙」ではないだろうか。肉親や愛する人を病気や事故あるいは事件などで亡くしたり、親しかった友人と離別したり、信頼していた友人に裏切られたりして、人は悲しみの涙を流す。
けれども、私たちはもはや“涙も流れない”ほどに辛い体験をすることがある。実際、あまりにも悲しすぎて涙も流れないのだ。ときには悲しみがあまりにも深いため、気が狂(ふ)れる一歩手前まで行くこともあろう。
そのような場合、涙の存在は実にありがたいものだ。それは私たちにとって“無上の慰め”となるからだ。事実、人は落涙によって癒される。ときに涙は人の心を浄化さえしてくれる。その意味でも、涙は神様の“最高傑作”と言えるのではないだろうか。
戦後間もない頃、『にがい米』というイタリア映画があった。ときに、惨めな思いをして生きるがための「食」を得るのが、われらが人生である。人間、誰でも歯を食いしばりながら働き、かつ生き抜いている。“明日は、今日よりもよくなる”という思いを抱きながら。だが近年、この確信さえも疑わしいものになってきた。そこに“政治の貧困”があり、自民党さえも手玉にとる「官僚政治」や「官僚支配」の根深い問題が存在する。
実際、人が生活に窮して「今日の米に事欠く」ということもある。ときには、“神も仏もあるものか!”と悲憤慷慨することもあろう。それでも、われわれは生き抜かなければならない。決して辛い人生から逃げてはならないと思う。生活の苦しみや絶望感から死を望む人が多い今日、かつて与謝野晶子が戦地に赴く弟に対して言ったように、「君、死に給うこと勿れ!」と叫びたい。苦しいのは、決して「あなた」だけではない。この世には、生きたくても生きられない人さえいるのだ。
われわれは、涙なしには生きられない。前述したように、悲しくても涙、切なくても涙、また嬉しくても涙、まさに涙あってこその人生だ。涙こそ、われらが生涯の良き友だ。
親鸞上人は「愛欲の広海に沈み」と、自らの欲望(とくに性欲)の強さ・深さを告白なさった。上人の正直さに私は感動する。だが、人間の欲望だけでなく、まさにわれらが人生こそが広く、かつ深き「海」である。それも古今東西、数限りない人々が共通して流した涙によってできた“涙の海”だ。われわれは、「人生」という名の苦難や苦痛に満ちた、この”涙の海”を泳いで渡らなければならない。ならば、友よ、ともに涙の海を泳いで渡ろう! われら一人一人に渡り切る勇気と力が、平等に与えられていると思うのだ。
ところで、政治家とは無論、政治(行財政を含めた)や政策のプロであってほしい。だが、何よりも、人々が悲しみや苦しみで涙するとき、ともに“涙を流せる人”であってほしい。民主党員(とくに若い方々)に現在、この心情と目線で、人々に接する気概と真心があるだろうか? 苦しむ人々の汗と涙に心底共鳴できるだろうか?
共産党と公明党――ともに、その全体主義的な組織政党ゆえに、国民の警戒と批判の対象となる。だが、両党の党員諸氏は、いままで社会的弱者とともに涙し、人々に「希望」を語れるだけの“大衆性”を保ってきた。無論、両党には「組織が個人に優先する(ときには個人を犠牲にする)」という“本質的な欠陥” がある。だが、さまざまな問題を内包しつつも、今日まで彼らが培ってきた“大衆性”こそは非常に強力である。決して侮れるものではない。
正直、新参でもある民主党員に彼らに比肩し得るほどの“大衆性”があるだろうか? 民主党は、労組などの「組織票」に依存してはいないだろうか? 民主党は、国民一人一人の顔を思い浮かべれるような真の「大衆政党」だろうか?
人々の涙にともに涙し、汗をかきながら歩き回り、ともに働き、かつ人々と語り合い、その悩みや訴えに耳を傾け、土の匂いさえも感じられることこそ、真の「政治」ではあるまいか。私は、政治とは、単なる理論や理屈ではないと思う。もっと汗臭く、土の匂いのするものではないかと思うのだ。
だが、現在の民主党は、その涙と汗と土の匂いを忘れつつあるのではないだろうか。そのような民主党から、心ある農民や漁業従事者、それに中小企業の経営者や労働者が離れつつあるように思う。今日の苦難を知っているのは、誰よりもさまざまな「社会的弱者」である。このような人々とともに歩み、ともに苦しみ、ともに希望を見出してこそ、真の“政治の意味”があるのではあるまいか。
「苦難を超えて、ともに生き抜こう!」というのが、私の正直な願いである。だが同時に、これは政治家諸氏の胸底に存する願いであってほしい。
言うまでもなく、政治は社会的弱者を幸せにするために存在すると思う。しかし、“人々のために”という思い以上に、“人々とともに”という視点も大事だと思うのだ。その意味で、政治とは「人々(とくに社会的弱者)とともに自らが幸せになる行為」とは言えないだろうか。そこでは、社会的弱者を単に救うべき「他者」として認識するのではなく、むしろ“自分と同一”だという一体感が求められる。
私が理想とするマハ―トマ―・ガンディーや尊敬する宮沢賢治には、このような社会的弱者との全き“一体感”があったと思う。インド独立(1947年)直後、ガンディーは、彼の祝福を求めに来た国民会議派の新米議員たちに対して、次のように述べた。
「今日から、あなた方は、茨の冠(イエス・キリストが処刑前に被せられたもの)を被るのです。権力に気をつけなさい。権力は必ず腐敗します。その虚飾と見掛け倒しの罠に陥らないようにしなさい」と。
あえて理想を論じるならば、私は、「真の政治家」とは、単に政治・経済的、あるいは法律的な知識や理論を駆使できるエリートのことではなく、むしろつねに「社会的弱者」と自己を“一体化できる人間”のことだと思う。そして、この一体化の視点に立ち、「苦難を超えて、ともに生き抜こう!」と訴えることのできる人だと思える。
正直、私は、小沢一郎氏は、このような言葉を魂の奥底から言える“真の政治家”だと思うのだ。事実、小沢氏は次のように述べている。
「経済を立て直すことは、正しい政策を手順を間違えずに実行すれば、それほど難しくありませんが、精神を立て直し、国民が心を奮い立たせて新しい国づくりに取り組めるようにするのは、至難のわざです。したがって、私たちは、何よりも、日本人の心の荒廃を直視し、日本人のよき資質を再生させることに心を砕くべきです」と(小沢一郎・菅直人『政権交代のシナリオ――「新しい日本」をつくるために』、PHP研究所)。
小沢氏ほど、自ら「日本人の“心の荒廃”を直視し、日本人の“よき資質”を再生させることに心を砕いている」政治家は、そういないであろう。私は、彼こそは真に日本の危機や日本人の問題を正確に把握し、その解決策を国民に提示できる“唯一の政治指導者”だと思う。
それゆえ、小沢氏を旗頭に、「心ある人々の力を民主党のために、そして日本のために結集しよう!」と心から訴えたい。そこで、「生活維新」こそは民主党員、ならびにその支持者がともに擁(いだ)ける立派なスローガンとなろう。
今夏の参院選で自民党は敗北を喫するだろう。
では、その勝利者は民主党だろうか? 正直言って、いまの私にはそのようには思えない。同選挙は、いままでよりもっと“政党離れ”の進んだ選挙になるのではあるまいか。過日の宮崎県知事選挙は、その“先触れ”だったかもしれない。その意味で、真の勝利者はどの政党にも属さない“無党派層”ということになりかねない。
あるいは、先日の亀井静香氏の名演説や糸川正晃氏などの活躍の影響もあり、国民新党が大躍進するかと思う。正直、自民党に対する批判票は民主党にではなく、むしろ国民新党に流れる可能性が大きいと思う。同党には、真摯さと真の“迫力”がある。つまり民主党も実質的に、自民党同様、“負ける可能性”さえあると思うのだ。
だが、決して負けてほしくはない。むしろ、堂々と勝ってほしい。そのためには同党には真に魅力ある政党になってほしい。民主党はそれが十分可能だと私は思う。しかしそのためには、鳩山幹事長が語ったように、「今夏の参議院選挙は、民主党にとって(自民党同様)、まさに“背水の陣”だ」という覚悟と気構えが必要だと思うのだ。
11年前に「民主党」が結成された後、「同党は、菅氏と鳩山氏の路線の違いが、やがて同党の分裂を生むだろう」と自信を持って予言した一人の政治家がいる。石原東京都知事である(『諸君!』平成8年12月号「幼稚な国の幼稚な選挙」より)。だが、民主党は石原氏の予言どおり分裂しただろうか? ましてや、小沢氏が民主党の代表になるなどとは、石原氏でさえも予想できなかっただろう。
ことほど左様に、日本にはいま、わが国を正しい方向に導こうとする“時代の嵐(=真の神風)”が吹こうとしている。われわれは、その“歴史の声”に耳を傾けるべきだと思うのだ。
民主党は、真に祖国日本と日本国民を愛する人々が集う政党だ。同時に、「政治」を官僚の手から国民の手に取り戻し、国民主体の政治にしようと考える人々の政党でもある。さらには、日本が自らの力で世界平和に貢献することを心底願う人々による政党だ。
「わが同胞(はらから)よ、民主党の旗の下に集まろう!」――これこそが、日本国民を真に幸せにする道だと私は確信する。
小沢代表のご健康と民主党員諸兄の今後のご活躍とご健闘を心より祈念したい。衷心からの期待と皆様への感謝を胸に、拙稿を謹んで擱筆したいと思う。〈了〉
【5か月間、拙稿「母と語る小沢一郎論」をご愛読くださり、本当にありがとうございました。なお、森田実様はじめ森田総合研究所の皆様方にはた大変お世話になりました。心より御礼申し上げます――渡邉良明】【4月から新しい視座に立って渡邉良明さんの新連載が始まります。ご期待ください――森田総研HP編集部】
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- 投稿可能になりました。本番投稿をお願いします。 管理人さん 2011/1/10 00:55:02
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