投稿者 愚民党 日時 2010 年 2 月 04 日 13:09:16: ogcGl0q1DMbpk
(回答先: 森田童子/録音盤「友よ泣かないのか」 投稿者 愚民党 日時 2010 年 2 月 04 日 13:01:42)
1979年、夏の日曜だった。
わたしは「旧早稲田小劇場 銅鑼魔館」に行ったのだが、開演時刻を過ぎていた。
受付の人からていねいに「すいません。入れません」と言われた。
そこで自分が学んだのは森田童子のコンサートは開演前に行くことだった。
当時、自分は御茶ノ水駅で降り、駿河台の坂を下り、そこから神田神保町まで歩いて通勤する
印刷会社に勤めていた。東急線の池上駅から歩いていくアニメーション会社は79年の
1月でやめ、神田神保町の印刷会社が新しい自分の職場だった。
レコードを聴きながら森田童子への思いはつのった。
住んでいたのは兄貴と借りていた借家だった。
休みの日はマンガを描いていた。テーマは70年代の総括だった。
絵だけでは表現しきれず、コマに写真を貼った。使用したのは
毎日新聞が発行していた写真による戦後昭和史だった。
11月になった。
明治大学駿河台校舎の大学祭立て看板が目に付いた。
「講堂にて森田童子コンサート」
わたしの胸ははずんだ。
昼休みは職場の近くにあったジャズ喫茶に毎日通っていた。
11月3日の祭日、わたしは開演前に講堂の木製長椅子に座ることができた。
一番前だった。
あれは秋の駿河台
大学の講堂で初めてあなたの歌を聞きました
「君がもし僕の歌を1小節でも2小節でも覚えていてくれたなら
僕はとっても幸せです」
そのあなたの言葉に
詩人のにおいをかぎとりました
コンサートは「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」の内容だった。
自分はそのときまだそのレーコードを買っていなかったので
初めて聞く曲が多かった。
-----------------------------------
友よ泣かないのか 森田童子
友よ
ぼくたちは 輝く陽射しを
目ざすべきでは なかったのか
風よ 泣かないのか
時よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために
友よ
君も一緒に だめになるなら
ぼくも だめになっていいと思ったのです
友よ 泣かないのか
故郷よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために
友よ
ぼくたちの限りなく 悲しみに
近い朝明けの空は
終わりに泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために
友よ
ぼくたちは 輝く陽射しを
めざすべきでは なかったのか
風よ 泣かないのか
故郷よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために
-------------------------------------------------
わたしはその歌を聴きながら涙を抑えることはできなかった
不覚に頬に伝わる涙の河のまま、手でぬぐうことなく
森田童子のサングラスを見ているしかなかった。
70年の出発は新しい朝をめざしたのだが
多くの青春途上の死者たちをわたしたちはかかえてしまった。
そして内ゲバ事件が報道されるたび
わたしたちの心は傷だらけになり声なき湖に沈むしかなかった。
「友よ泣かないのか」は70年代青春像に向かう鎮魂の歌であると思う。
森田童子という音楽詩人は悲しみの深淵から問いかけるのである。
同時代と同世代の応える力の存在こそ80年代の扉を開けることができる。
「新しい朝」は80年代に託されたのである。
自分がはじめて詩集を発行したのは1974年の11月だった。
ガリ版刷りのわら半紙による詩集だった。
故郷の公民館にあった謄写版を使用させてもらった。
大企業の電器製造工場で働いている年上の労働者から
「若いのに悲しみを知っている」と批評されたのは嬉しかった。
その人は読書会サークルのメンバーだった。
詩集の題名は「貧しき恋人たち」だった。
1970年は全国的な反戦高校生の世代的登場だった。
翌年71年の春、大学進学を拒否し多くの者が労働者となっていった。
長い髪が反抗の象徴となった長い髪の少年たちである。
ひとりの部屋であの反抗に躍り出た同世代の漂流と行方がいつも気になり
探していた。
わたしたちの70年(高3)世代は、それまでの青春における世代継承を
沈黙のなかで切断したのである。
沈黙することによって時代を断絶させたのであると思う。
兄と姉の全共闘世代は物語ることができるが、引き潮の世代は物語ることができない。
沖に流されないための「原点に立ち尽くす個」もようやく半世紀を生存してきた。
森田童子は沖に流された漂流者が帰還すべき陸の灯台でもあった。
その灯台こそ心象という音。声。
1970年で時間はスットプしたまま、35年間もわたしは旅をしてきたように思う。
その旅の体験と経験こそが社会で、さまざまな人から学ばせていただいた
わたしの大学であったと思う。
お世話になった人々こそ自分の教授だった。
ようやくにして貧しい唇から、物語が語れるかどうかが問われているように思う。
旅の重力こそは記憶の重力であり、森田童子の呼び声は音楽となる。
思想と文学は35年間の経路として言葉に置きかえられる。
その準備をしている芽は重たい雪のなかで春の準備をしている。
70年代も総括されていないし、80年代も総括されていない。
まして90年代も。
それが深淵からの音と声であろう。故郷はおのれのなかにあった。
明治大学駿河台講堂での森田童子のコンサート
「さよならぼくのともだち」がラスト曲だった。
アンコールを求める拍手。
そでから森田童子とバンドが舞台に再び歩いてきた。
「風さわぐ原地の中に」が演奏。
自分はいつのまにか手を打ちリズムをとっていた。
身体が応答する講堂にひとつの時代が幕をあける音が振動していた。
そして森田童子は自分の幻想女となってしまった。
声なき心の声で森田童子との対話が開始されたのである。
何度もふりかえりながらわたしは講堂を後にして
駿河台は夜の街、御茶ノ水駅へと歩いていった。
http://plaza.rakuten.co.jp/masiroku/diary/?ctgy=6
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