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No.437 検察審査会“小沢氏起訴相当”に思う 5
メディアは権力のチェックが使命 だが対象を間違えているのでは
メディアは権力のチェックが使命、といわれる。しかし、事件ものは検察と警察からの情報抜きでは報道ができない、少なくとも他社と競争できないと考えている。
一方の検察は、メディアで世論を誘導しようとする。世論が反検察になるのが怖いのだ。だが、きちんとした証拠がそろっているなら、なぜ世論を恐れるのかとの疑問がつきまとう。2000年以降の検察マターは以前なら立件しない微細なものまで立件してその上捜査が強引だ、という批判がある。‘無理筋’の立件も多いと言われている。そんな危うさがあるために、被疑者は巨悪と世論に刷り込み、裁判官の心証形成を行なわなければならないという見方ができる。検察審査会を視野に入れるなら、なおさらだ。
検察とメディアは相互依存を強め、共同体だとも揶揄されている。これはメディアが検察という巨大権力チェックできないことを意味している。
朝日新聞が大阪特捜部の証拠改ざんのスクープをした。検察の不正を暴いたのだから、チェック機能を十分果たしているというのは早合点だろう。組織の腐敗の告発と、検察の日常活動の監視を混同してはならない。
小沢ケースではメディアは小沢叩き一色に染まった。小沢という個人を追い落とすことに全勢力を使ったといっても過言ではない。
“政治と金”、“クリーン”がキーワードである。金のかからない政治といわれるが、その中身について深く議論されたことはない。金のかからない政治とは何か、クリーンが意味するところは何か。5年間で6人の総理大臣をみると、菅総理以外は超金持ちのファミリーから出ている。政治資金は父祖の金ならよくて、政治家自からが集めることはダメ、と言っているように聞こえる。鳩山前総理も巨額の金を日常に使っていたらしいことが推察された。政治目的だったか、遊興費だったか、どこかへの匿名の寄付だったのかなどは分からないが、まあ常識的には彼の政治活動に必要だったということだろう。2世、3世議員問題も詰まるところ、政治と金の問題なのだ。
まともな話として、政治家が自分でシンクタンクを抱えるなら、それだけでも巨額な金が必要になる。政治家がまともな活動のために情報を集め、分析し、自分の考えをまとめていくためには、この複雑な世の中、複数の優秀なブレーンを揃えておく必要があろう。クリーンな政治ということで、国が出す調査費で多岐にわたる活動をやれるとは思わない。活動のために、合法・違法のきわどいところで金を集める。これも才覚だと思う。そのくらいのことができないから、小さな人物の集団になるのだ。つまり“政治と金”の本質的な議論が欠けていると思われる。
“政治と金”を悪と決めつけるメディアがどんな政治を理想としているのか、そこも語られていない。
また、特捜のあり方には、これまでに服役した人、被告とされた人々から取り調べの生々しい体験報告と様々な批判がある。同時に提案もある。だが、メディアは検察のあり方に向かい合うことはない。同じく、検察審査会が第2検察と化してえん罪を生んでいくシステムなら、そこをきちんと批判するのがメディアだろうが、批判に及び腰である。
何より重要なことは、検察が総理大臣の任免に実質的に関与するようなことがあってはならないということだ。また、国会議員を微罪で辞職に追い込むようなこともあってはならない。三権分立から、検察に国会を支配させるようなことを許してはならない。
メディアが検察と同化しているのであれば、検察の憲法を無視して、検察が国会の上に存在するような状況を国民に伝えることはできない。もちろん、国民とともに検察の越権や不法行為と戦うことはできない。
メディアの批判の矛先が小沢という個人にのみ向けられ、制度やその運用の実態には向いていない。従って改革の方向も見えない。メディアは立ち位置とチェックの対象を誤っているのではないか。(続く) (2010-10-19)
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