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なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その1 UGAYA Journal (阿修羅コメントより)
http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/718.html
投稿者 行雲流水 日時 2010 年 10 月 18 日 00:19:43: CcbUdNyBAG7Z2
http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/715.html#c7
07. 2010年10月17日 23:24:34
朝日を辞めた人のブログがあったが、この人らは幸せだ。
http://ugaya.com/column/taisha1.html
なぜ私は朝日新聞を辞めたか
〔転載始め〕
■なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その1■
5月の下旬、辞表を出した日のことだ。上司に辞表を渡して、お世話になった二、三人の先輩や同僚に挨拶をし終わったら、もう夕方になっていた。朝日新聞社の受付前にぼんやり座って、しびれた頭を冷やしていると、スーツ姿の若い男女が十数人、かたまって会社を出ていくのが目に入った。入社一ヶ月目の研修を終えた新入社員たちだった。大きな出張鞄を下げて、胸に「××支局 ○○」と書いた透明プラスチックの名札を付けているので、すぐわかった。名札を付けたまま会社を出ていく姿がおかしい。17年前のぼくも、そういうドジを踏んでいた。
会社を辞める日に新入社員の姿を見るというのは、まるで安っぽいドラマのラストシーンのようにできすぎで「かなわんなあ」と思った。でも、感傷的にならなかったといえば、うそになる。目がキラキラしていて、声が明るくて、背筋が伸びて、疲れた色などどこにもない若者。いいなあと思った。ぼくも17年前は向こう側にいたのだ(ぼくも自分がショボくれたオヤジだとは思ってないのだけれど)。
入社式のためにこの建物の門をくぐったとき、ぼくは心の底から興奮していた。これからどんな仕事が自分を待っているのか、楽しみで仕方がなかった。昔から書くことが何より好きで、書き手として職業人生を送ることを選んだ自分にとって、最高の舞台が与えられたと思った。23歳まで京都の片隅で世間知らずの人生を送っていたぼくに、突然届いた世界への招待状。そんな気分だった。
本社受付まわりの風景は、1986年のあのときのまま何も変わらない。が、何かが変わってしまった。何かが失われてしまったのだ。僕の方か、朝日新聞社の方か、あるいはその両方から。
●
朝日新聞社の人たちに「会社、辞めることにしました」と切り出すと、反応がまっぷたつにわかれた。理由をまったく尋ねず、ぼくのこれからの計画を聞いて、祝福しつつアドバイスや意見をくれる人。一方、ひたすら狼狽して「なんで?」「どうして?」「理由が理解できない」「40歳で退社してもダメだよ」と問いつめ、否定にかかる人。
まあ、前者は、なぜ朝日新聞社に倦まざるをえないのか、聞かなくても理由はわかってくれている。こっちの人たちはだいたいサポーティブで、ぼくの判断を祝福してくれるのがわかってありがたかった。数は少ないけれど。
厄介だったのは後者だ。何とかその場で理由を説明しようとするのだが、あまりにたくさんありすぎて、とても口頭ではまとめきれないのだ。何回も四苦八苦を繰り返しているうちにわかったけれど、こういう人たちは納得したいのではないのだ。ぼくの退社が、自分の身分や立場を批判しているように聞こえて、単にぼくを否定したいだけなのだ。
なにしろいま、「何かが不満があるから辞める」のではなく「辞めずに残っている理由がもう何もない」というのが正直な気持ちなのである。いま「自分がこれから何をするのか」はまだ具体的な姿を現さないけれど「何をしていてはいけないのか」ははっきりとわかっている、といえばいいだろうか。朝日新聞社にい続けていては、職業人として自分がダメになってしまうのだ。
こういう気持ちは、この会社に雇われて17年あまりの間にまるで澱(おり)のように沈殿してきたものであって、昨日きょう出てきたものではない。まるで17年かけてじわじわと朝日新聞社で働くことに絶望したような、そんな気分だ。徐々に徐々に、ぼくの気持ちは死んでいったのだ。
正直に言うが、それでもいま、ぼくは強い自責の念を抑えることができない。ぼくが入社した17年前に、朝日新聞社をはじめ全国紙の病弊として批判されていた問題のほとんどが、何も変わらないまま持ち越してしまった。20代のころは「いまの20代が30代、40代になればきっと変化が訪れる」と思った。30代に入り、職場の中核になったときは「ぼくらが変えていかなくてはいけない」と思った。が、どちらも虚しい期待、虚しい努力だった。責任を感じて必死であがいてみたのだが、何も変わらないまま、とうとう40歳になってしまった。なぜ何も変えることができなかったのだろう? なぜ17年も前から患っている病気が治癒しないままの組織を後輩に引き継がなくてはならないのだろう? この会社は、有権者および納税者の「知る権利」という基本的人権の代理人、エージェントなのだ。その病弊を改めることができなかったということは、つまりは基本的人権に対して不作為の罪を犯したということではないのか? そんな声が、ぼくの耳元でいつもささやいている。
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本題に入る前に確認しておくけれど、従業員が自分のやりたいことを100%実現できる企業なんて存在しない。企業は営利を追求するためにある。よって、企業組織は利益をあげるのが第一目的だ。従業員のやりたいことなんて、優先順位が低くて当たり前だろう。これは、善し悪しの判断や、ぼく個人の好き嫌いとは別に、ただそこにある資本主義社会の現実である。
その企業と終身雇用契約を結んで従業員となり、毎月の給料をもらうということは、その組織の目的が自分の人生の目的より優先されることへの対価なのだ、とぼくは考えることにしてきた。まあ、考えてもみてほしい。日本のホワイトカラーの生産性は先進国でも最低水準である。ダラダラ同僚とおしゃべりしてようが「打ち合わせ」と称して会社の経費でメシを食らい泥酔しようが、その非生産的な時間にまでちゃんとお金が支払われ、しかも逮捕でもされない限り60歳までクビにはならないなんて、馬鹿馬鹿しいほどムシのいい話だ。なにか裏があるに決まっている。
だから、会社員には自分のやりたくない仕事を断る権利が(基本的には)ない。家族から引き離されてやりたくもない仕事をヘトヘトになるまでやらされ、住みたくもない土地にある日トツゼン引っ越さなくてはならない。家族もその巻き添えを食らう。それが給与生活者の支払う対価だと思う。逆にいえば、毎月のサラリーという気楽な収入は、自分の人生を犠牲にすることへの慰謝料みたいなものだ。17年間のサラリーマン生活で、ぼくはそう考えるようになった。
だからといって。ここで強調しておきたいのだが、だからといって、終身雇用契約を結んだとしても、自分の人生をぜんぶ企業に譲り渡したことにはならない。ボクの人生の預金口座からいくらでも引き出してください、と白紙小切手を渡したことにはならない。これも、17年の会社員生活の間ずっと肝に銘じていたことだ。
じゃあ、どこが妥協点なんだろう。ぼくはこう考えることにした。「自分のやりたいこと」対「会社がぼくにやらせたいこと」の比率が50:50なら、まあ勤め人としては幸福と考えよう、と。つまりここらへんが「臨界点」だろうと考えることにしたのだ。
なぜ会社を辞めたのか、ざっくりと言ってしまうと、この「自分がやりたこと」対「会社がぼくにやらせたいこと」比率が臨界点をはるかに超えてしまったからだ。
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ぼくが1986年に入社してから、三重県や愛知県で新聞記者をやっていたおよそ5年は、正直いって基礎技術の習得に必死で、やりたいことをやるなんて希望はまったく持てなかったし、持つべきでもないと思っていた。この仕事は熟成するのに時間がかかる。毎日毎日、ゲロが出そうなくらい記事を書き続けて、やっと「自分の思っていることが字にできた」と思ったのは93年である。だから、5年間の新聞記者時代に「自分が書きたい記事を書いた」比率は限りなくゼロに近かったと思う。発生する事件や、デスクが「取材しろ」と命じる話を記事にするので精一杯だったし、それ以上を望むのはそのころの自分の実力では贅沢だと思っていた。
(朝日に限らず新聞社や通信社にいる同僚たちにはぜひ伝えておきたいのだが、新人記者になって最初の5年間くらいの初期レーニングは、かなり強力な武器をぼくらに残してくれる。これはaccuracy checkとでも言えばいいのだろうか、記事に書くデータをチェックして、間違いがないようギリギリまで詰める実務のことだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、ずっとフリーで育った人は、このアキュレシー・チェックが意外に弱い人が多い。人によって違うが、入社5〜10年目までのトレーニングというのは、プロのライターとして渡っていくには、けっこう貴重な財産なのだ。週刊誌の記者として、また編集者としてフリーのライターと仕事を日常的にこなした身として、これだけは強調しておく。)
環境が変化したのは、91年にアエラ編集部に異動してからである。このころのアエラはまだマネージメント側も記者も自由な集団で、ぼくが会社を休職して自費留学すること(92〜94年)も快諾してくれた。趣味で始めた音楽記事の取材も「おもしろいからもっと書け」と励ましてくれた。95年、地下鉄サリン事件に始める一連のオウム取材に長くかかわったときも、松本サリン事件の捜査の検証をやったらどうだ、オウムとアニメの関係を取材してはどうか、オウム世代というものは何者か、などなどこちらが出す八方破れなアイディアをすくい上げて誌面にしてくれた。98年から99年まで、ニューヨーク駐在記者の仕事もやらせてくれた。
このころ、「自分がやりたいこと」対「会社がぼくにやらせたいこと」比率は80:20くらいになっていたのではないかと思う。サラリーマンとしては、つくづく「ありがたいこと」である。仕事がおもしろくて仕方がなかった。当然、日々の作業のなかでは編集長やデスク(編集部に5人いる副編集長)との衝突や対立はしょっちゅうあったが、意見の対立は、お互いにおもしろい誌面を作りたいからだという共通理解がこちらにも向こうにもあった。上司は信頼できた。先輩や同僚も能力が高く、しかも個性的なライターがたくさんいて、毎日何かひとつは教わることがあった。幸福な日々だった。あのころの編集長やデスク、先輩だった人たちがその後も自分の上司だったらどんなによかったかと今でも思う(みんな人事異動でいなくなってしまった)。
どうも様子がヘンだと思い始めたのは、99年春にニューヨークでの駐在記者生活から東京に戻ってきたあたりからだ。こちらが提案するネタを誌面化する決裁権は編集長と編集長代理、5人の副編集長が握っているのだが、その判断が理解できないことが急に多くなったのである。雑誌が基本方針を見失って、迷走しているなあ、とぼくの目には見えた。提案したネタが採用にならなければ、当然、上が命じる取材をしなくてはいけない。「自分がやりたいこと」比率は急速に低下し、最終的に0:100に振り切れて針が止まった。2001年、ぼくはパソコン誌の編集者になることを命じられたのである。つまり「書き手」から降ろされたわけだ。
ぼくは書き手になりたくてこの仕事を選んだ。ぼくがいい書き手かどうかは自信がないが、いい書き手になるための努力を惜しまなかったことにだけは自信がある。一生書くことだけはやめないつもりだし、それ以外に職業としてできることもあまり思い当たらない。それは勤務先の上司(つまり人事権を持つ管理職)には口を酸っぱくして機会あるごとに伝えてきたのだが、なぜかこうなった。
編集者、しかもなんでよりによってパソコン誌(ぼく比類なきパソコン音痴なのですよ!)だったのか、ぼくには未だにこの人事異動が理解できない。が、冒頭にも書いたように、人事異動なんて組織が組織の目的を遂行するためにやるのであって、従業員の志望や事情、自己実現なんて優先順位が低いに決まっている。ぼくの希望や利益を考慮した理由なんて、限りなくゼロに近いのだろう。彼らはぼくにそれを「やらせたかった」だけなのだ。おそらく、これはあくまで類推だが、朝日新聞社はぼくに「管理職をやらせたかった」のではないかと思う。
この会社には妙な慣習があって、どんなにすぐれた書き手であっても(ぼくがそうだとは言わない)、40歳前後で書くポジションを外して管理職にしてしまう。ぼくがなったような、デスクだとか副編集長だとかいうポストだ(当時ぼくは38歳だった)。そこからまた何年かすると、役職が上がってまた編集長だとか「長」のつく「所属長」ってやつになる。加齢による「お迎え」みたいなもので、みんな特に抵抗もしない。まあ「ナントカ長」と肩書きがつくと何となくエラソーに見えて、うむ、まんざら悪くないかと見栄をくすぐられちゃうんだろう。
ぼくの上にいた人事権者は、慣例を破ってぼくをライターとして残すほどの能力は認めなかったのだろう。あるいは、ただ単にぼくが嫌いだったので、わざと嫌がることをしただけなのかもしれない。または、何も考えずに「みんなそうしているから」で決めたのかもしれない。よくわからない。いろいろ推測しても、詮のないことだ。
それを「自分を正当に評価しなかった」と非難する気はない。先にも書いたとおり、企業の人事考課なんて、そんなものなのだ。しょせんは人間が決めることなのだ。誰かの長所が、他の誰かにはどうしようもない欠点に見えることだってある。明白に編集者にも管理職にも向いてないぼくを無理矢理そうさせようとするあたりは「なんて人間観察の甘い人たちだろう」「こんな単純なことも分からずに、よくマネージャーが勤まるものだ」としか思えなかったが、彼らが飛び抜けて愚かだとは思わない。普通の人なみ(そこにはぼくも含まれる)に愚かなだけなのだ。
その結果、ぼくが抜けたことが朝日新聞社にとって損失になるのなら(そんなことは微塵もないだろうけど)、それは誰かが非難を浴びて責任を取ればいい。ぼくはぼくで、朝日ではやりたいことができなくなったから、次に進む。それだけの話だ。
まあ、敢えて付け加えるなら、朝日新聞社は昔から個性的な人材はよってたかって潰す習慣があるようで、ぼくもそれに近い陰険な雰囲気はよく感じた。同僚が同僚に嫉妬して足を引っ張るだけならまだしも、上司が部下に嫉妬して嫌がらせのような人事をするのを見てあきれ果てたことも、腐るほどある。
でもまあ17年間まったく変わらないから、どうしようもない不治の病みたいなものだ。「改めるつもりがないようですので、どうぞやり続けてください」としか言いようがない。そうやって人材の長所を潰していく組織は、放っておいても衰退し、自壊していく。まして雑誌や新聞のようにソフトウエア・コンテンツを作る組織は人材が命である。設備投資が物を言うマニファクチュアリング(モノづくり)と違って、コンテンツは人間の頭脳からしか出てこないからだ(これはマスメディアに限らず、ソフトウエア開発の鉄則である)。
こんなことをしていては、文字通り命取りだ。人材を潰せば、組織が自壊していくのは当たり前ではないか。自己破壊行為、死に至る病である。彼らにその自覚はないようだけど。
が、この組織はそういう「社風」と「伝統」で何十年もやってきているから(本多勝一氏以降もう何年も、社外の評価にさらしても生き残れるようなライターが朝日からは出ていない。社内の評価だけはブキミに高い人はたくさんいるけれど)、いまぼくが一人で社風のヘンカクとか言って努力したって、改まらないことがわかってしまった。ならば、時間の無駄だ。ぼくはそれほどヒマでないし、人生は長くない。やりたいことは他にたくさんある。
最初は「改善のために努力するのが組織に身を置く者の義務だ」と思ってああだこうだと言い続けたが、やればやるほど上司からは嫌われ、同僚や後輩からは孤立することがわかって馬鹿馬鹿しくなった。そんなことより、社内政治(上司とお酒を飲んだりゴルフに行ったりすること)に心血を注いだ方がトクをすることがわかった。上司の言うことに黙従している人の方がトクをすることもわかった。努力を払う動機なんて、どこにもないのだ。そういうふうにして、この会社は構成員の「自己改善」や「改革」や「努力」のモチベーションを奪っていく。
現実に、朝日新聞がつくる新聞も雑誌も、例外なくどんどんつまらなくなり、読者の心が離れているのに、ごく少数の例外を除いて、みんなその現実を直視しようとしないのだから、どうしようもない。ぬくぬくとその日その日を無自覚に暮らすことだけが大事な人たちが大半なのだろう。
こういうとオコる人がたくさんいるだろう。「無自覚でないこと」が商売の看板の人たちなのだから。確かに日々の業務は並はずれて忙しいのだが、ただ単に忙しいからといって、自分が職務に自覚的だとは自任するのは無理がある。勤勉でも無自覚な人はたくさんいる。この17年間この組織を見てきて、大半の社員が自己改革を怠っている事実は否定できない。ぼくはそう断言する(これは次章で詳しく書く)。
念のために断っておくが、それでも少数の良心的かつ能力の高い人たちはまだ朝日にいる。それは彼らの名誉のために何度でも強調しておく。自己研鑽を怠らず、知性と教養、感性を磨き、人間的にも尊敬できる人物はまだ残っている。問題は、そういう人たちが全体からすれば「例外」でしかないほど少数であり、孤立し、決定権限のあるポジションから外され、現場から遠ざけられ、集団全体の意志決定には決して登場しないことである。この処遇を見れば、メイン・ストリームのメッセージが何か、明文化されていなくても分かる。それを見て、残りのサイレント・マジョリティは何がこの会社のメイン・ストリーム文化であるかを察知し「ああいうふうにメイン・ストリームの意に添わないことをしていると(楯突く、まで行かなくても)ソンなのだな」と、見て見ぬふりをするようになる。
特権階級というものはどこでもそうなのかもしれないが、既得権益を減らす(手放す、まで行かなくても)ことを過剰に恐れ、あるいは仕事が増えることを恐れ、自己改革から逃げる。あるいは、誰かがやってくれればいいと無責任になって、自分からは何も始めない。
こういう無気力なくせに嫉妬だけは強い人間というのは実に始末が悪い。何も変わらないまま時間だけが浪費されていく。もちろん、社会が動き、自分たちが取り残されようと、既得権益が守られる限りはお構いなしである(もしかすると、取り残されていることに全然気づかないくらい鈍感なのかも)。「なるほどなあ、こうやって組織というのは老衰していくものか」と、興味深く拝見させてもらった。
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「では、書き手から降ろされた38歳の時に退職を考え始めたですか」と言われると、ちがう。ぼくが初めて辞表を書いたのは入社して4年目の90年、名古屋で社会部の記者をやっていた時である。
当時ぼくは国際政治、特に軍事を中心にしたパワー・ポリティックスがおもしろくて仕方なく、将来は外交や軍事を取材したいと思っていた(今でもそう思っているのだが、仕事で使うチャンスがずっと回ってこなかった)。そのために体系立てて国際関係論を勉強したい、そのためには世界の外交の中心であるアメリカの大学院へ留学したい、と真剣に考えていた。調べてみると、アメリカには国際関係論を勉強して修士号を取れる大学院がいくつもあることがわかった。ぼくもすでに20代後半になっていて、何か大きな学問体系をマスターするためには、脳細胞がまだ若いうちでないと間に合わないと思った。
学生時代からずっと、日本の外交報道はどうもわかりにくい、もっとわかりやすく外交を読者に教えてくれないだろうかと考えていた。取材記者に外務官僚に対抗できるだけの深い知識がないと、いつまで立っても彼らに教えを請う取材をするしかない。当然、彼らの思考や視点を超える記事を書くことは難しいだろう。そう思っていた。キャリア外務官僚は20代でほとんど全員が外国留学を済ませる。
それで、サツ回りでヘトヘトになった体にむち打ち、休日をつぶしてTOEFL(英語能力試験)やGRE(アメリカ大学院の共通テスト)を受け、ついでに学費を出してくれるというロータリー財団の奨学金にも応募した(会社に金銭的に甘えるのもムシが良すぎると思ったので)。結果はすべてOK。そこで上司に留学の計画をうち明けてみた。つまり、奨学金は取ってきたので、2年の時間だけ休職させてほしい、ということだ。
最初に話したのは、当時所属していた社会部のIデスクだった。もう13年も前のことだが、あの時に返ってきた言葉は鮮明に覚えている。彼は、その場で(つまり、ためらうわけでも、熟慮して返事するわけでもなく)こう言ったのだ。
「留学なんて、そんなことを考えているってことは、いまの持ち場にやる気がないってことだ。それなら、もっとしんどい持ち場に飛ばしてやるぞ」
これは文字通りもヘッタクレもなく露骨な「脅し」そのものである。それで仕方なく、さらに上のT社会部長に相談すると、こちらもすごい返事が、またしてもその場で返ってきた。
「留学ってお前、そんな教養を深めるとかなんとかのために会社は時間をやれないぞ」
今こうして書いてみると、まったく出来の悪いギャグのようでしかないのだが、事実である。お二人とも、いかにも不愉快そのものというお顔だった。が、もっとも愕然としたのは、二人とも「留学して何を勉強したいのか」「それを将来の記者の仕事にどう役立てるのか」という一番大切な点(少なくともぼくはそう思っていた)をまったく、ただの一言も尋ねなかったことである。これは本当にショックだった。わざわざ奨学金を取り、しんどい思いをして勉強をして将来の紙面の仕事に役立てたいと志願したのに(健気だと思うんだけどなあ)、彼らはそんな向上心をまったく評価しないどころか「やる気が無くて仕事から逃げたがっている証拠」としか見なかったのだ。
名古屋の社会部長とデスクというと、なんだかいかにも無知な田舎者のように聞こえるかもしれないが(名古屋のみなさんごめんなさい)、T部長は東京社会部の、Iデスクは政治部の生え抜き、朝日新聞社のエリート中のエリートだったし、実際その後お二人とも東京に帰り、東京の新聞編集の中枢ポストを歴任、順調に出世された。
思えばこのとき、ぼくは貴重な教訓を教わったのだ。この会社には、少なくとも新聞セクションには、人材に投資、育てるという文化がない。記者が自発的に自分を育て、いい記者になろうとする向上心を歓迎しないどころか、マイナスに評価する。自分に理解できないものは、とりあえずはねつけておく。東京の新聞中枢から来た二人が揃ってこんな調子だっただけに、ぼくは確信できた。そして、その後もこの思いはますます強まった。
断っておくが、ぼくはこの二人を決して恨んでいない。感謝しているといってもいいくらいだ。今から思うと、このお二人は実に素晴らしい反面教師だった。この会社が持つ病弊を、ショーケースのようにわかりやすく、若いぼくに見せてくれたのである。
(もちろん、朝日新聞社にも『社内留学』という制度があって、人材を育成する制度がない、とまでは言わない。が、よく聞いてみるとこの留学制度、人選が政治・経済・社会など現場の部長にあって、自由応募制度ではないのだ。つまり部長に誰を留学させるか決める権限がある。だから案の定というか、お気に入りの部下に『ご褒美』として与える『しばらくキツイ職場で働いたから休んでこい』式の社内政治的な道具としてしか使われているのが現実である。つまり人事権を行使し、子分を作るためにボスがばらまく『エサ』でしかない。しかも期間は長くて1年だ。これでは語学をかじった程度で帰国である。じっくりと国際関係論をまとめて勉強するのに2年では足りないと思っていた自分の経験からすると、何とも無知で、おめでたい制度だ。そうやって留学してきた社内留学生を何人か向こうで見たが、ポンコツのオジサンか、仕事で疲れきった燃えがらのような人ばかり。受け入れる側のアメリカの大学も迷惑そうだった。まあ、2年も留学させると日本の新聞社の人材育成のばかばかしさに気づいて戻って来なくなるのが自然だから、そうさせないようにしているのだろう。小賢しいが、リクツは通っている。ちなみに、読売新聞はワシントン特派員をアメリカの下院議員の元で秘書として研修させてから着任させていて感心した。実にいい研修制度だ。93年の話だが、読売はいつか朝日を追い越すなと思った)
ぼくはそのころ雑誌セクションで働くという発想がまったくなく、新聞しか将来の仕事とし視界に入っていなかったから、この調子じゃこの会社はダメだな、と思ってすぐワープロで辞表を打ち、机の引き出しに入れておいた。90年の秋頃の話である。12月に冬のボーナスをもらったらすぐ辞表を出して退社しよう、故郷の関西で塾の講師でもしながら留学のチャンスを待とう、と考えていた。ウソではない。実はあのとき、大阪で住む家まで決めていたのである。
あと1週間でボーナスが出る、という12月の初旬、社会部長(人事異動があって、さきほどのT部長とは別人)に「カレーを食いに行こう」と呼び出された。こういう人事権者がヒラ記者を食事やお茶に誘い出すなんて、異動の話以外に滅多にない。ああ、辞表を書いていることがバレたかな、まあ素直に白状するか、飛ばされたら辞めればいいや、と腹をくくっていたら、なんと「来年1月からアエラに異動せよ」という。アエラは当時創刊3年目の新興雑誌で、配属なんてまったく希望も何もしていなかったし、だいいち雑誌で働くなんて考えたこともない(アエラを読んだこともなかった!)。仰天するしかなかったが、なにせそれまでぼくは東京で働いたことがない。やはり東京で取材の仕事がしたい。まあ、向こうへ行って様子を見てダメだったら改めて辞表を出せばいいや、と考えを変えた。
というわけで、ぼくがアエラの編集部に来たのは偶然である。来てみたら、前に書いたように、雑誌の仕事がすっかりおもしろくなった。これが同じ会社かと思うくらい上司も柔軟で、自費留学の計画を切り出したらあっさりOKが出た。学費を自分で払う代わりに、2年間の休職という時間をくれた(当時はまだバブル景気の末期で雑誌の人員・予算にも余裕があった)。それが91年の話だから、そのまま10年も居ついてしまったことになる。ぼくとしては名古屋で辞めるつもりだったので、不思議だった。自殺するつもりでビルの屋上から飛び降りたら、器械体操みたいにすとんと着地してしまって、首を傾げながらスタスタ歩いている。そんな気分だった。
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じゃあ、なんでいまになって辞めることにしたのか、と尋ねられたら、あまり立派な理由はない。記事をめぐって、あるいは朝日の論調をめぐって上司とヌキサシならぬ対立関係に陥り辞表をタタキつけた、なんてドラマティックな事件もない。40歳になったからである。朝日新聞社の早期定年退職制度が40歳から始まるから、一番早い該当年齢になったところで応募しようと思っただけだ。40歳まで待てば、退職金が約4倍に跳ね上がるのである(40歳の次は45歳でそれ以降は1歳刻み。ただし2003年六月末で40歳の定年制度は打ち切りになった。7月を越すと退職金が4割も減る。来年6月には三分の一になる。会社もエゲツないことをするものだ。これでは『早く辞めた方がトクですよ』と言っているようなものではないか)。
ゲンキンなものだ。つまりは、これまで17年間さんざんこき使われたのでしっかり働いた分は取り戻して辞めてやれ、というアサマシイ発想である。40歳まで待ったことについては、特に誇るような話はない。
言い訳しておこう。ぼくの労働時間は、月給を労働時間で割るとマクドナルドのバイトなみになってしまうくらい長かった。それくらい働いた。つまり労働時間に比べて給与額が低い「アンダーペイ」だったのである。この会社は厳格な年功序列賃金なので、自然に45歳まではアンダーペイ、45歳以上はオーバーペイになる。はっきり言ってしまえば「年寄り天国・若者地獄」なのだ。朝日新聞社の給与原資の半分は50歳〜定年までの社員が持っていってしまうというのだから、驚くほかない。ほっといても45〜50歳になると急にトクする会社なんて、若い記者にインセンティブを保てというほうが無理だ。45歳になるまでだらだら仕事をしても給与に変化はないしクビにもならないんだから。
それでも、なんだかんだと摩擦や衝突があっても、退社という選択肢までは視野に入ってこなかった。まだ改革の余地はあると思っていたのだ。が、35歳のとき、もうこの会社の社風はこれ以上やりきれんな、この組織は治癒不能の病気だな、という出来事があった。それでじりじりと減っていた最後のガソリンが無くなった。愛想が尽きたのである。
本当はその時に辞めるべきだったのかもしれない。実際、あれからはずっと憂鬱だった。が、まあ、せっかくここまで来たんだし、40歳になるまであと5年待とう、5年くらいなら我慢できる、と思った。で、5年様子を見たが、事態は良くなるどころかますます悪化した。というわけで、辞表が5年ほど「遅れた」というのがぼくの素朴な実感である。
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ここまで書いたから、ついでに前述の35歳、98年の話もしておこう。アエラに「現代の肖像」という欄がある。原稿用紙20枚ほどの分量で、一人の人間の人物像を徹底的に取材して書く、という欄だ。以前から長い人物ルポを書いてみたいと思っていたぼくにとっては、いつか挑戦してみたい、あこがれの目標みたいなものだった。
週に一人、大きなページ数を割いて特集する、雑誌の看板企画だから、取材対象も、執筆者も選別される。誰か取材対象はいないだろうか、と思っていたところに、阪神大震災の被災者仮設住宅の慰問を3年続けている「ソウルフラワー・ユニオン」というバンドの中川敬という男に出会った。年齢はぼくより5歳くらい下だったと思う。高速道路の料金が払えなくなるまで被災地に通い続けるのはなぜか、何が彼をそこまで駆り立てるのか、どんな氏素性の男なのか、書いてみたいと思った。
同僚である「現代の肖像」担当者(ぼくより先輩)に打診してみると、是非やってくれという。これでゴーサインが出たと思ったぼくは、それから3ヶ月、ぼくは土日を潰して、自腹を切って神戸まで毎週通った。
ところが、取材も終わり、原稿も書き上がったという段階まで来て、不可解なことが起きた。この欄の担当デスクというのがいて、当時はS編集長代理(99年からアエラ編集長。次章で再び登場する)が担当していたのだが、なぜかその男、「お前が書くなんて、こっちは聞いていない」と言ってきたのである(朝日新聞社で『おれは聞いていない』と上司がヘソを曲げることほど恐ろしい瞬間はない。通る常識も通らなくなるからだ)。
担当編集者の約束を取り付けいていたぼくは、当然仰天した。一体何があったのかと思ってこの編集長代理と話してみたら、彼の言うことがおもしろかった。「ヒラの編集部員が現代の肖像を書いた前例がない」と言い出したのである。前例がない! 今どき恥ずかしくて官僚でもこんなことは言わない。どこかの町役場みたいな発想だ。これには「呆れた」とか「腹が立った」を通り越して、笑うしかなかった。こういう人が雑誌ジャーナリズムの現場責任者なのか、とそのちぐはぐさが滑稽で仕方なかった。
断っておくが、ぼくは原稿をボツにされたことを不満に思っているのではない(その後『現代の肖像』ではない通常の記事として、この原稿はアエラに掲載された)。このボツの判断基準があまりに馬鹿馬鹿しくて、つき合いきれないと思ったのだ。
というのは、ぼくは、とにかく一回原稿を読んでみてくれ、それでボツと判断されたならその判断に従う、とまで彼に申し入れていたのだ。こう見えても、腐っても組織の一員だという自負があった。上司がぼくの原稿を読んで、掲載に値しないと判断すれば、その時は素直に判断に従う、という最低限の心構えはあった。だが、彼はとうとう最後まで読まなかった。「前例がない」で押し切った。一体何を基準に、読んでもいない原稿を「現代の肖像」から落としたのか、未だによく理解できない。彼にとっては、ぼくがヒラ部員で編集委員やフリーのルポライターでない、という属人的な要素だけが重要だったのだろう。慣例破りが怖かっただけなのだろう。それをやろうとするぼくが、とんでもないフトドキ者に見えたのだろう。
当時「現代の肖像」は書き手が同じ顔ぶればかりになってきて(しかも団塊の世代ばかりで高齢化していた)、新しい書き手を探せ、とこの編集長代理自身が号令していただけになおさら不思議だった。こちらは自腹を切って(書かせてもらえるなら、自分の負担でいいと思っていた)志願したつもりだったのだが、向こうはそうは思わなかったらしい。
そのS編集長代理と担当編集者との間に何があったのか、よく知らない。どうも二人は仲が悪いらしいとか何とか、風評は伝わってきたが、まあ、どうでもいい。その担当編集者は、個性的なライターとして長くアエラに貢献した人だったが、その後「足場を変えたい」と言い残してアエラからいなくなったので、おそらく彼もこういう馬鹿げた出来事の連続にやりきれなくなったのだろう。
ぼくはここでまたひとつ、貴重な教訓を学んだ。朝日新聞社の出版局(雑誌と書籍のセクション)は、こういう発想の人間によって運営されるのだ。記者の自発的な努力を嫌う。潰しにかかる。実力を見るのではなく前例を気にする。
これでは人材が育つはずがない。組織の構成員が自発的に努力しようとする向上心を管理職が潰していったら、誰も努力しようなんて思わない。努力したって無駄どころか、上の反感を呼ぶだけなのだ。報復されるかもしれないのだ。それを押し切ってまで、誰が努力するだろうか。
こんな人事評価の中で、どうして組織や紙面の改革が始まるというのか。改革とは、例外なく慣例破りなのだ。慣例破りだから改革なのだ。誰かが「今までとは違うこと」をやり始めることが、改革なのだ。組織の構成員がそれぞれのアイディアを持ち寄って、誌面や組織をよくしていこうと努力することが改革なのだ。個々人の向上心があるからこそ、組織も改革され、生まれ変わっていくのだ。「前例がないからダメだ」などという馬鹿げたセリフを口にする人間が組織のリーダーにいる限り、その組織に改革なんて絶対に起きない。また、個人の向上心に基づかない、上が一方的に命じる改革なんて、そもそも根のない草木のようなものであって、必ず枯れる。そんなものは改革とは呼ばない。改革ゴッコだ。お医者さんゴッコに興ずる童子が「医道とは何か」と説くようなもので、笑わせる。どうせ2、3年で上司も代わる。そうなれば、彼が叫んでいた「改革」なんて一夜で投げ捨てられることを、部下はみんなよく知っている。
個々人の向上心はもともとバラバラに決まっている。管理職が望んだとおりにはならない。それをコーディネートするのがマネージメントのプロなのだ。メーカーなら「品質改善運動」という名で日常業務としてやっていることだ。そういうプロフェッショナリズムには99年以降絶えて出会うことがなかった。残念ながら。この会社の管理職は、紙面管理と労務管理と予算管理だけが自分の仕事だと思っている人が多い。マネージメントとは何なのか、彼らは分かっていない。練度の低い、素人なのだ。
自分が働いている組織に人材を育てる気がない、自らを改革して変わっていこうという意志がない、構成員の能力を開発しようという意志が乏しいと気づくと、そこにいることが恐ろしい時間の無駄に思えてきた。なぜなら、自分が将来そこに居つづけても、成長できない、自分を育てようとするたびに摩擦が起きる、ということがわかってしまったからだ。また、組織に改革の兆候がないというのは、未来への希望を奪う。組織と一緒に自分もダメになってしまう、という暗澹たる思いにとらわれ、憂鬱になる。組織の中にいる限りはそれでも温度調整が効いているのでさして不便はないのだが、屋外の寒風にさらされたとたんにたちまち肺炎にかかって死んでしまう。が、ずっと「屋内」で生き続けてきた人は、自分が虚弱になっていることにすら気づかない。これが怖い。ぼくの10年くらい上の世代の人たちを見ていると、入社の前後には輝くような才能を持っていたのに、長く組織にいる間にすっかりダメになってしまった例が何人もいる。それもこの会社の恩寵を受け「出世している」と言われる人たちが、である。これで未来に希望を持てというほうが無理というものだ。
ここでもうひとつうんざりしたのが、朝日新聞社の厳格な年功序列人事だ。とにかく、入社年次で順送りの人事ばかり。要は毎年4月になると学年が上がる学校みたいなもので、抜擢も降格も全然ない。降格は不祥事が続いてやるようになったが(情けない話だ)、抜擢はゼンゼンない。前に書いた名古屋時代の上司二人もその後順調に出世の階段を上がっていったし、先のS編集長代理もアエラ編集長になり、今では出版セクションのナンバー2である。朝日新聞社の人事考課は「能力主義」とは正反対の極にある。ということは、いつまで経っても、ここにいる限りは、あと5年だか10年だか、同じ上司につきあわなければならないということが見えてしまう。
ということは、いまのナンバー2、3の顔ぶれを見れば、誰が次世代のリーダーシップを摂るのか、予測がつく(この順送り人事だけは17年間動かざること山の如しだったから、今後も変わらないだろう)。これがわかってしまうと、自分の将来について悲観的にならずにはいられない。これまで10年間愚行が繰り返されてきたうえに、同じ連中がまだ向こう5年か10年は同じ愚行を繰り返すのだ。そのとき、自分が何歳になっているか計算してみればいい。45歳、50歳になって心底会社に絶望したとき、どうやって人生を立て直せばいいのだろう? 自分の人生を取り返しのつかない年月まで浪費してしまったと知ったとき、重い後悔にどうやって耐えればいいのだろう? それで暗澹たる気持ちにならない人というのは、ある意味幸福だと羨ましく思う。いや、皮肉でもなんでもなく、その楽天ぶりの秘訣を教わりたいとさえ切に願う。自分の人生がダメになっていくことを悲しまない人は、何か大切な部分が欠落しているのか、あるいはぼくにはまねのできない才能があるに違いない。
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ここまでいろいろ書いてみたが、どうもぼくが退社に至るまでに朝日新聞社に倦んでしまった理由を言い尽くしたという気がしない。そんなことで辞めるの、と思われるかもしれないが、まあいいだろう。ぼくとまったく同じ状況に置かれても、そんなこと気にならない、という人もいるだろう。人それぞれだ。ぼくとあなたは違う人間なのだ。ぼくにはぼくの大切なことがあり、最後の一線は譲れないと思ったまでだ。
もう一度念のために繰り返しておくが、朝日新聞社に属する人全員が上に書いたようなヘンな人たちばかりでは、断じてない。向上心に燃え、自分を磨くことに努力を惜しまない尊敬すべき人物にたくさん出会った。センスも教養も豊かで、人間的にも尊敬できる上司もたくさんいた。そういう人に出会ったときは「朝日に入ってよかったなあ」と心底思ったものだ。だが、残念なことに、組織総体の価値体系を作っているのは、彼らではなかった。そういう人たちはどんどん隅に追いやられている。まったく不思議なことだ。
給料取りを辞めるタイミングとしては、最悪だなあと思う。出版業界はどん底の不況で、雑誌はおろか出版社がバタバタ倒れている。仕事が減った、収入が減ったと、名うてのライターたちでさえ嘆いている。こんなときに会社を辞めるなんて、わざわざ冬のオホーツク海に海水浴に出かけるようなものだ。
が、幸い、ぼくには子どもがいない。妻は経済的に自立している。借家に住んでいるので、家のローンもない。車も持っていないし、酒も飲まない。ゴルフもしない。物質的な贅沢には、まったく興味がない。飢えても、ぼく一人がのたれ死ねばいいのだ。子どもがいたら、ぼくも次の世代を育てる責任のために自分を犠牲にしただろう。妻を養う義務があるのなら、ローンを払う債務があるのなら、サラリーマンでい続けることの方を優先させたと思う。そういう親として、夫としての社会的責任を果たすことは、立派すぎるほど立派なことだ。皮肉でも何でもなく、そういう人生を送る人にぼくは敬意を抱いている。
ぼくは、子どもを作ったり、専業主婦と結婚するという選択はしなかった。漫然とそうしたのではない。同じ会社に一生勤めるなんてどう考えても不自然だと思っていたので、いつか会社を辞めても困らないように、あまり荷を背負わず、身を軽いままにしておいたのだ。企業は営利組織だ。慈善組織でも社会福祉組織でもない。そんなものに一生を委ねるなんて、あまりにお人好しで、リスキーなのではないかという嗅覚のようなものが、ぼくには若いころから備わっていた。
40歳になったとき、自分の人生は前半戦が終わったな、と思った。では、後半の40年(それほど長生きするかどうかわからないけれど)はどうするのかさんざん考えあぐねたすえ、ウダウダ迷うだけでやりたいことをやらないままの人生なんて悲惨すぎる、と思うようになった。では、45歳とか50歳で何か新しいことが始められるだろうか?ぼくのような凡人には、無理だろう。人生の後半戦のため、40代の10年って非常に重要じゃないのか。そう思うようになった。
ぼくは書きたいのだ。ノンフィクション、フィクション、インタビュー、ルポ、エッセイ、コラム、評論、書いて書いて書きまくりたいのだ。書きたいことが山のようにあって困っているのだ。勤め先がそれを許さないのなら、他に選択肢がない。フリーになればよろしい。食い詰める確率は非常に高い。リスキーである。書くことだけでは食えないのは確かだろう。
が、でも、しかし、とにかくやってみて失敗したほうがいい。何もせずに「おれの人生、アアすることができたんじゃないか、コウすることもできたんじゃないか」と後悔するだけの老人になるより、よっぽどいい。そんな惨めな人生はいやだ。そのうちにぼくだって死ぬのだ。無目的に生きていると人生は長いが、目的を持って生きるには短すぎるのだ。
ぼくが書き手という仕事を選び、朝日新聞社に入ったのが23歳のときだ。23歳の時の選択が一生有効だなんて、いかにも不自然な話ではないか。20→40歳の「人生ふたつめの20年」を朝日新聞社の社員として過ごしたわけだから、「三つ目の20年」はもうちょっと別の展開にしてもいいだろう(四つ目の20年はまだまったく考えてない。そんな先の話、考えても無駄だ)。まだぼくの人生では「朝日新聞の社員じゃなかった時間」の方が長いのだから。
だいぶん長くなってきたので、ここでいったん止める。もう少し具体的な各論は別項で書くことにする。
なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その2へ
(2003.7.1)
Copyright(C) 1997 Hiromichi UGAYA.
〔転載終わり〕
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コメント
01. 地には平和を 2010年10月18日 01:51:32: inzCOfyMQ6IpM : EJ6m0zHQOE
ありがとうございます。
02. 2010年10月18日 02:39:02: 4ZVHnBbFFw
ヘドが出るほど気持ち悪くオゾマシイ 星 の社内の評判を教えてください。
夕日の星といい三宝会の後藤けんじ といい豚のごとく機密費太りし 女買いで腐りきったドタマの野郎はいない
03. 2010年10月18日 04:13:57: DtdutbwPRY
この方の問題意識はあまりに内向きで期待外れの「辞めた理由」でした。
社会の矛盾や闇を暴露し、問題提起したいのにそれが許されなかった
というのなら共感できるが、どの企業にも存在する陳腐な退職理由を
延々と語られても読み手の共感は得られない。
この記者自身が新聞読者のことなど二の次なのが良く分った。
朝日全体も恐らく社会を良くしていこうという心意気など無いのだろうね。
04. 2010年10月18日 07:22:13: z4dlJCKD2k
自分と会社上司等との関係を私小説風に述懐した文章だ。
この様な関係は世間一般、どのような組織にもある。 期待して読んだが、長い文章のわりには内容が薄い。
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