01. 2010年10月10日 00:00:35: yCgHRkKwnk
<参考>全日空61便ハイジャック事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA61%E4%BE%BF%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6 全日空61便ハイジャック事件(ぜんにっくう61びんハイジャックじけん)は、1999年7月23日に発生したハイジャック事件。日本におけるハイジャックで人質が死亡した初めての事件である。目次 [非表示] 1 事件当日のANA61便 2 事件の概要 3 犯人 4 備考 4.1 事件当日のマスコミの対応 4.2 容疑者の実名報道 4.3 被害者遺族への対応 4.4 空港警備上の対応 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 事件当日のANA61便 [編集] 使用機材:B747-481D 機体番号:JA8966 コールサイン:All Nippon 61 フライトプラン:羽田空港午前11時23分発新千歳空港行 乗務員 コックピットクルー(年齢は事件当時) 機長:長島 直之(ながしま なおゆき、51歳) 副操縦士:古賀 和幸(こが かずゆき、34歳) 客室乗務員:12名 乗客:犯人を含む503人 事件の概要 [編集] 1999年7月23日午前11時23分、羽田空港発新千歳空港行きの全日本空輸61便(B747-400D)は乗員14人+乗客503人の計517人を乗せて羽田空港を離陸した。離陸直後、搭乗していた男(28歳)が大声を上げながら立ち上がり、客室乗務員に包丁を突きつけ、コクピットへ行くよう指示。11時25分、機長より地上管制に「ハイジャック発生」の緊急通報が発せられた。男はコクピットへ侵入した後、「横須賀へ向かえ」と指示し、機長らは指示に従い南西方向へ変針した。61便は木更津上空を通過して横須賀方面へ飛行し、男は続けて伊豆大島方面への飛行を指示した。 午前11時38分、男は副操縦士らをコクピットの外へ追い出して扉を閉め、機長と2人でコクピット内に留まった。11時45分には対策本部が設置される。 午前11時47分、61便は横須賀東方付近の上空に到達。三浦半島上空を通過して相模湾上空に入る。男は一旦大島方向に南下するコースを指示したあと、目的地を横田基地へと変更して変針するよう指示すると共に、機長に対して自分に操縦を行わせるように要求した。機長は要求に対して男をなだめようと試みたが、11時55分[1]、男は機長を包丁で刺した後、自ら機体を操縦しようと試み、操縦席に座って実際に操縦行為を始めた。61便は北に変針して神奈川県上空を降下しながら北上、横田基地付近で急旋回して南下を始めると共に急降下するなど迷走飛行を行う。急速に高度を下げたことから地上接近の警告音が鳴り、危険を感じた副操縦士と、千歳出発便の乗務のためデッドヘッド(非番)で乗り合わせていたY機長(2006年に定年前退職)ら協力者数名が隙を突いてコックピットに突入。包丁を抱えた犯人を取り押さえて座席に拘束し、副操縦士が機体のコントロールを奪還した。機体を急ぎ上昇させて高度を確保した。 12時3分、副操縦士より犯人を取り押さえた旨と機長が刺傷された事を伝える連絡が入る。副操縦士の操縦により61便は羽田へ引き返し12時14分に緊急着陸した。男は警察に引き渡されて逮捕されたが、機長は乗客として搭乗していた医師により機内で死亡が確認された。犯人が取り押さえられる寸前には機体は2分間に500m以上も高度を下げ、最大で高度300mという超低空飛行状態であり、そのまま降下を続けていれば数分後には八王子市南部の住宅街に墜落したと推測され、乗員乗客の他に多数の市民を巻き込んだ大惨事になるところであった。 事件当日、羽田から日航機で大阪伊丹間を一往復し、復路到着後の61便への乗り継ぎ搭乗時に男自身が指摘した通り(→#犯人)、手荷物検査をやり過ごして凶器(刃物)を機内に持ち込む事に成功し、犯行に及んだと推定されている。 犯行の際に購入した航空券は有効期限内であれば予約変更が自由である普通(ノーマル)運賃であり、旅行代理店窓口で手配が行われた。凶器を持ち込むために利用した羽田発伊丹行の予約では地下鉄サリン事件で特別手配中の高橋克也と同名の「タカハシ・カツヤ」の偽名を使用した。羽田発札幌行には実在するプロ野球選手と同名の佐々岡真司(犯人は過去に広島で勤務していた経験がある)の偽名を使用した。不審に思った従業員が購入時の電話番号に連絡すると、当人が所属する球団事務所へ繋がったという。 なお、本来は事件発生前日の7月22日に北海道へ一人旅に出かけると親や精神科医に偽って決行する所を、その前日までに父親が複数枚の航空券を、母親が凶器などが入ったバッグを自宅内で発見したことによって犯人の目論みが狂い、1日遅れの凶行となっている。 犯行前日(当初の決行日)に羽田空港のカウンターで61便よりも出発時間が10分早い羽田発那覇行のANA083便に空席がある事が判り、同便の搭乗券も購入したが、乗り継ぎ時の工作に手間取って乗り遅れたため、61便への搭乗となった。これとは別に、ANA851便(羽田発函館行)の航空券も購入し、犯行当日に61便とは別にチェックインを行ったことが判明している。 犯人 [編集] 逮捕された男は東京都出身で、旅客機やフライトシミュレーターのマニアであった。事件の一ヶ月前に羽田空港(現:第1ターミナルビル)の構造図により、制限区域(手荷物検査場のチェックを経たゲートラウンジ(出発口)・到着ロビー)内で、羽田到着便から別の出発便へ乗り換える際の手荷物・所持品検査に関わる警備上の欠陥を発見した。 実際に熊本行の搭乗券を購入し、乗客として制限区域内で欠陥点を確認し、それを指摘する文書を当時の運輸省・全日空・日本空港ビルディング・運輸省航空局東京空港事務所・東京空港警察署ら関係箇所と大手新聞社など6ヶ所に宛てて送付した。関係箇所に対しては併せて自身を警備員として採用するように求めたが、空港側から一度返答の電話があっただけで、採用は断られて提言も無視された(→#空港警備上の対応)。この時の指摘が警備状態の改善に反映されていなかったことも事件に関係している可能性があると見られている。 事件発生後の報道によれば、男は東京都内の有名中高一貫校を経て難関国立大学を1994年(平成6年)3月に卒業後、第一志望の職種(航空会社)ではない大手鉄道会社に総合職で入社した経歴を持つが、広島での単身赴任生活や仕事上のミスなど心身的な不安が募り、1996年に無断欠勤を起こして失踪状態に陥った。 その後、都内の実家に戻り、1998年春頃から家族の勧めもあって複数の精神科クリニックを受診し、SSRIが大量に処方されていた。その内容は、プロザック13週間分、パキシル15週間分、エフェクソール(2010年時点で日本未承認のSNRI)9週間分、ルボックス2週間分、ランドセン(抗てんかん薬)10週間分であった。その後、服薬などの方法で自殺未遂を繰り返したことから同年秋に警察の職権で約2ヶ月間の措置入院がなされることとなる。退院後も大量の抗精神病薬の投与を受けていたとされる。 犯行の動機について「宙返りやダッチロールをしてみたかった」「レインボーブリッジの下をくぐってみたかった」などと述べた上で、「機長が言うことを聞かないので頭にきて刺した」と供述している。他にも「機長の心に向かって、疲れていませんかと問い掛けたら、疲れている、と答えたため楽にしてあげようと思い刺した」など言動が支離滅裂であったとされる。 東京地方検察庁は精神鑑定を実施後、1999年(平成11年)12月20日に初公判となり、ハイジャック防止法違反(航空機強取等致死)と殺人罪、銃刀法違反の罪に問われ、2005年3月23日、東京地方裁判所(安井久治裁判長)は男に対し、無期懲役の判決を言い渡し、一審で確定した(東京地方裁判所平成17年3月23日判決・判例タイムズ1182号129頁)。判決では、「抗鬱剤」による「心神耗弱」は認められたが、「刑事責任能力」は否定されなかった。 備考 [編集] 事件当日のマスコミの対応 [編集] テレビ報道では、11時40分過ぎに第一報が各局のニュース速報で流れ、NHKは12時40分過ぎまで正午のニュースを延長して報じ、着陸後は機内のスカイビジョンでも受信・放映された。 NNN24は第一報から13時頃まで特別編成で羽田空港の中継映像等を継続して放送した。 一般乗客が未だ機内に滞留されていた12時45分の『すずらん』再放送時のオープニング場面で機長の死亡を伝えるニュース速報が流れ、機内に乗り合わせていた複数の報道関係者が撮影したビデオや一般乗客へのインタビューにより、着陸後の乗客の動揺が広がる様子が新聞やニュース番組などでルポされている。 61便にはフジテレビ『とくダネ!』リポーターの緒方昭一が搭乗しており、当日のフジテレビのニュースでは緒方リポーターによる事件当時の機内の様子などの証言が放送された。 容疑者の実名報道 [編集] 事件発生直後の時点でマスコミが犯人の異常行動あるいは精神科入院・通院歴を把握し、刑事責任能力の是非から実名報道が各社足並みを揃えて見合わされる事態となった。しかし、産経新聞は同月27日の朝刊1面で「重大な犯罪である」とことわりを併載した上で、犯人(容疑者)の実名を記事中に掲載し、同日夕刊には併せて顔写真の掲載がなされた(当初、産経新聞のホームページには掲載しなかった)。これ以降、タブロイド紙や週刊誌などのゴシップ媒体で早々と実名掲載を追随した上で様々な記事が書き立てられ、全国紙や通信社配信記事でも刑事公判時には実名掲載が行われるようになった。 被害者遺族への対応 [編集] 殉職した61便の長島直之機長に対しては、勲四等瑞宝章の叙勲、内閣総理大臣小渕恵三から内閣総理大臣顕彰が、運輸大臣川崎二郎から運輸大臣表彰が行われた。 この事件で殺害されたことについて「業務上の被災である」として機長の遺族が労働災害を申請し、2000年1月26日に大田労働基準監督署から「乗客・乗員を守るという機長本来の職務中に被災した」として労災と認定された。日本におけるハイジャック事件の被害者に対する初の労災認定事例である。 空港警備上の対応 [編集] この事件を受けて運輸省航空局は、犯人が指摘した羽田空港(第1旅客ターミナル)の「警備保安上の問題点」について急遽臨時予算を投じて対応されるとともに警備が強化され、全国の空港でも同様の保安上の問題点がないかどうかについての調査・対策が行われた。 主立った対策としては、保安検査場の金属探知機感度の引き上げや、盲点となった1階到着ロビー(受託手荷物返却場)入場後の2階ゲートラウンジ(出発口)への後戻りが出来ないよう、専用の自動改札機の設置とその付近で監視する警備員の配置が行われた。これにより犯人が実践した、61便の搭乗手続・セキュリティチェックを経て入場したゲートラウンジから到着ロビーの受託手荷物返却場へ向かい、伊丹からの乗り継ぎ到着便の受託手荷物に入れた凶器を取り出してゲートラウンジへ逆戻りする事でセキュリティチェックを免れて搭乗するという手段は不可能となった。また、それまで機長の裁量で認められてきたコックピットへの一般乗客の見学・立ち入り禁止(※2001年のアメリカ同時多発テロ事件発生以降、コックピット侵入抑止としてICAOの指導により全世界の航空会社に拡大)や、当時18空港しか設置されていなかった受託手荷物検査時のX線透視検査装置を対テロ対策の促進も合わさり、全国のローカル空港や定期運航路線のある離島飛行場へ順次導入されたことなどが挙げられる。 2004年に運用開始した羽田空港第2旅客ターミナルビルでは、出発ゲート(地上2階=到着ゲートのM2相当)と到着ゲート(地上1.5階部分)、ランプバス出発待合室及び手荷物返却場・到着ロビー(地上1階)の三層構造とし、ボーディングブリッジを用いる搭乗口では各ゲート階へ通じる緩やかなスロープ型の通路2本が<の字型に設置され、通路前にある扉の開閉により流入をコントロールしている。2010年竣工の新国際線ターミナルでも同様の構造が採られている。 但し、前述のとおり、犯人が犯行前の同年6月中旬に保安構造についての改善と自身を警備員として雇用を求める投書を送付した事について、運輸省側は民間航空会社との会議の結果以後対応せずに空港ビルや航空会社など民間側へ丸投げし、受任した民間側もコストを理由に対応しかねていた(放置した)事実が、読売新聞東京本社社会部が2002年に情報公開請求して開示された資料で判明し、5月12日付け朝刊でスクープされた。事件が未然に防げた可能性があるとして、各者の対応の杜撰さが改めて露呈した。
脚注 [編集] ^ これ以降機長の音声が録音されていないため、犯人が機長を刺したのはこの時刻と見られている。 関連項目 [編集] 全日空アカシア便ハイジャック事件 全日空857便ハイジャック事件 外部リンク [編集] 全日空乗員組合 全日空61便「ハイジャック事件」についての見解(速報) 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA61%E4%BE%BF%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6」より作成 カテゴリ: 全日本空輸 | 平成時代の殺人事件 | 日本のハイジャック事件 | 1999年の日本の事件 個人用ツール 新機能 ログインまたはアカウント作成 名前空間 本文 ノート 変種表示 閲覧 編集 履歴表示 操作検索 案内 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ ツールボックス リンク元 関連ページの更新状況 特別ページ一覧 印刷用バージョン この版への固定リンク この項目を引用する 他の言語 English Bahasa Indonesia 最終更新 2010年9月17日 (金) 21:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
|