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2、選択授業で世界史を選択していない者でも、英米の暴虐の歴史が5分で理解できる時代であり、彼らの時代は長くはありません。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak40/msg/268.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2010 年 7 月 03 日 16:43:59: 4sIKljvd9SgGs
 

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/giin/1278128033/l50

737 :無党派さん:2010/07/03(土) 16:31:54 ID:dfcccP2M
18世紀はイギリスの世紀だった。

イギリスはフランスと争って中南米、さらに北米大陸に勢力を広げ、移民は徹底して先住民・インディアンの土地を略奪した。
アメリカ移民といえば、イギリス本国で迫害を受け新天地を目指した高邁な精神が強調されるが、
実際の移民のほとんどが失業者や貧農・犯罪者などの食いつめ者だった。
移民はヴァージニアを皮切りに中南米と同様に虐殺・略奪・奴隷化を繰り返した。
カロライナではインディアン奴隷売買が最大の産業となり、やがて大西洋岸からインディアンは姿を消した。

インドでは「プラッシーの戦い」でイギリスが勝ち、インド支配の足場を築いた。
イギリスはベンガル地方で徹底した収奪を行い、飢饉で住民の3分の1は死んだ。
インドの植民地化が進むと、今度はその中継地としてエジプトが重要になってくる。
イギリスは、今度はオスマン帝国の内紛に乗じて、軍事的・経済的に介入し、植民地化を進めていった。

イギリスは北米での戦争にも勝って、入植地を独占。インディアンは次第に奥地へと追われていった。
多くの植民地を独占したイギリスでは潤沢な資源と技術革新により「産業革命」が起こり、大量生産・大量消費が始まる。
だがこれは、より多くの植民地が必要になったということを意味した。
イギリスでは植民地争奪戦でフランスに勝ったが、戦費で財政難となり植民地アメリカの増税を行う。
これに植民地人は猛反発。本国と植民地が仲間割れを起こし、独立戦争となり、1776年、アメリカは独立を宣言した。


738 :無党派さん:2010/07/03(土) 16:32:45 ID:dfcccP2M
一方、フランスはもっと深刻だった。植民地を失い、しかもアメリカ独立戦争を支援したのに何の見返りも得られず、破綻寸前の財政危機に陥った。
フランス王ルイ16世は特権階級層に課税しようとしたが、貴族たちが強硬に反対。
これが発端となり民衆が扇動されて、1789年フランス革命が勃発。
その後、議会が主権を持つ「国民国家」が成立。徴兵制による軍隊が作られた。
戦争の概念は一変、国民皆兵のナポレオン軍の強さを目の当たりにしたヨーロッパ諸国は、次々にフランスに倣って「国民国家」を建設していった。

「民主主義」のアメリカ独立。
「自由・平等・友愛」のフランス革命。
この美しい理念は、白人専用のもので、有色人種に適用されることは決してなかった。

この頃、アフリカから南北アメリカへの奴隷貿易は最盛期を迎え、莫大な利益を上げた。
奴隷たちは産地や商標の焼印を押され、二人ずつ手枷足枷をはめられ、船倉にすし詰めにされる。
便器は部屋ごとに大きなバケツが3,4個あるだけでほとんど垂れ流し。
暴風雨になれば通風口まで密封され暑さと臭気が充満し、床は汚物に覆われる。
伝染病で半分以上が死ぬことも珍しくなく、病気の奴隷は平気で海に投棄された。
船主は「積み荷」の保険金を保険会社に請求すればいいだけだった。
地獄を生き抜いた奴隷は競売にかけられ、持ち主が決まると焼き印を押され、その後の運命は、持ち主次第だった。
スペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・オランダは国家ぐるみで奴隷貿易を行った。
19世紀までに売買された奴隷の数は推計1500万人。ただしこれはあくまでも生きてアメリカに着いた者の数である。


739 :無党派さん:2010/07/03(土) 16:34:38 ID:dfcccP2M
さて、アメリカ独立の衝撃は中南米にも走り、移民たちが次々本国に反旗を翻して独立。
ただしこれはあくまでも白人移民の独立で、原住民は相変わらず奴隷同様のままだった。
かつて世界を2分割したスペイン・ポルトガルは植民地の収奪ができなくなり、見る影もなく没落した。
大植民地アメリカを失ったイギリスも事態は深刻で、これを乗り切るべくカナダ、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドを侵略した。
オーストラリアには流刑植民地としてならず者が送り込まれ
またも虐殺・略奪・強姦の「先住民の悲劇」が繰り返された。
移民たちは動物狩りのように「レジャー」として先住民アボリジニーを虐殺。
30万人いたアボリジニーは100年後には6万7000人に激減。
タスマニア島では3万7000人の先住民が絶滅した。
しかし、新たなイギリス植民地では、移民たちが本国に「自治権」を求め「半独立国」の形になり、イギリスは期待したほどの搾取ができなくなった。
そして、西欧の侵略はついに、東アジアに及ぶことになる。

一方、「独立国」となったアメリカ合衆国では、ワシントンがインディアンを、狼と同じだが、形が違う「猛獣」と評していた。
そして、インディアン強制移住法が制定され、インディアンたちは「人間の住めない所」と言われた
ミシシッピーの西の保留地へ移住させられた。途中でチェロキー族インディアン4000人が死亡。
そのルートは「涙の旅路」と呼ばれた。
「フロンティアの男たち」はそんな「人間の住めない」西部の土地ですら、そこで金鉱が発見されるや即座に奪い取った。
インディアンの土地を奪って西へ、西へ進む。
これこそ「マニフェスト・ディスティニー」(天から与えられた明白な使命)
と彼らは自らの行いを正当化し、侵略と略奪に明け暮れた。


740 :無党派さん:2010/07/03(土) 16:35:28 ID:dfcccP2M
現在も続く南米やアフリカの貧窮は、西欧人が現地の歴史・文化を破壊し尽くし
現地の経済を無視した単一作物生産を続けた後遺症に他ならない。

日本には、人間を「動物」扱いまでした奴隷制度は一度も存在したことはない。
律令制の時代の「奴婢」にも口分田が与えられていたし、10世紀初めには廃止された。
西欧が血塗られた繁栄を遂げていた頃、日本は江戸時代。
世界史上例のない「ミラクルピース」と呼ばれた平和の時代であった。

1853年、ペリー来航

アメリカの砲艦外交によって、日本の「ミラクル・ピース」は破られた。


◆そして、白人に有色人種が打ち勝つための長い戦い(=近代化)が始まる。
 

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