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大型補正の財政出動の連発で公益法人と特別会計を増殖した官僚(世に倦む日日)
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投稿者 判官びいき 日時 2010 年 6 月 10 日 21:48:33: wiJQFJOyM8OJo
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それにしても、菅直人の転向は早かった。大臣は国民の代表だと言った舌の根も乾かぬうちに、役所の代表に身を翻した。なぜ、僅か1か月で菅直人は消費税増税論者に変身し、官僚の言いなりになったのだろう。借金が税収を上回る異常事態などは言い訳で、そんな問題は正月前から菅直人が誰よりも承知していたし、衆院選のマニフェストを作成している段階から、税収の大幅落ち込みは想定されていた政策上の与件だった。
金子勝などが警戒警報を出し、だから暫定税率廃止はやめとけなどとマニフェストに注文を付けていたのを想起する。結論から言えば、総理大臣になるためには、首相の座に就いて半年以上の任期を残すためには、権力を持っている財務官僚の服従者にならなくてはいけないである。
その真実を察知し確信したため、官僚の基本政策である消費税増税に改宗したのだ。官僚の忠実なイヌになることで、ポスト鳩山の条件を万全にしたと言える。総理になる夢を実現するために、国民を売り、官僚と取引し、政策を曲げて官僚を味方にした。もう少し言うと、おそらく菅直人は、どれほど官僚の権力が絶大で、岩波新書「大臣」で述べた話などは世間知らずの青臭い書生の一般論かを、財務省の大臣室に出勤する中で肌身で思い知ったのだろう。
消費税にあくまで反対を続ければ、官僚から干され、マスコミにリンチされ、総理の座を他の者に奪われたまま終わると恐怖したに違いない。菅直人は現実主義が座右の銘である。ここで思い出すのは、鳩山由紀夫が政権交代の前後に見せた華麗な「現実主義」の舞いだ。
選挙のときは、あれほど強烈果敢に脱官僚を訴え、総予算の組み替えを言い、天下りの禁止を言いつつ、政権を獲得できると情勢を読んだ途端、引退して隠居老人をしていた官僚の親玉の藤井裕久を三顧の礼で財務大臣に引っ張り出した。選挙の前から、丹呉泰健と藤井裕久の密謀は始まっていた。鳩山政権の経済政策は藤井裕久が一手に仕切り、予算ではマニフェストの政策に対する骨抜きが始まり、長妻昭が何度も財務省に行って押し問答の交渉をするという騒動が現出する。
丹呉泰健と財務官僚にとって、マニフェストはマニフェスト、実際の予算と政策はまた別であって、それは官僚が官僚の論理と基準で策定し執行しなければならないものであり、それがこの国の神聖不可侵な統治原理に他ならないのである。官僚にとって、選挙のマニフェストなど、政党が国民を騙して喜ばす誇大広告のチラシやカタログでなくてはならなかった。
実際に法律と予算を決めるのは官僚様なのだ。脱官僚を掲げて政権交代した鳩山由紀夫ですら、裏では財務官僚と手に握り、財務官僚に経済政策のフリーハンドを委ねている。そのことで、官僚からの抵抗と反発を防ぎ、政権の安定を維持しようと細工していた。もう一例、脳裏に浮かぶのが田中角栄で、従来の政策を変え、脱米入亜の試みを模索した田中角栄は、大蔵官僚の取り込みに異常に神経を使い腐心する姿を見せていた。つまり、官僚はこの国において独立で別個の権力で、米国と同じく、超憲法的な、非公式な権力の実在なのである。事実上、彼らは平安貴族の権力者であり、国民に責任を持っていない。
平安貴族は民衆から税を収奪し、それを自分の欲望と贅沢と快楽の糧にのみ使う。民衆の福利や厚生のためには使わない。貴族にはその責任と義務はない。奴隷である民衆は、牛や馬と同じ存在であり、貴族が生きる満足を得る上での道具でしかなかった。無論、統治の観念の世界には、儒教的な経世済民や徳治主義の思想があり、仏教的な十七条憲法以来の社会規範がある。
古代律令制のイデオロギーの中では、民衆は決して動物や家畜ではない。けれども、それは観念上の形式的存在なのであり、現実の支配の実態においては、民衆は貴族に奪われ剥ぎ取られ追い立てられるだけの惨めな存在だ。官僚は、憲法の上では主権者である国民に奉仕する公僕で、国民から徴収した税金は、何より国民の福祉のために使われなくてはならないことになっている。
しかし、それは形式で、実際には、国民から権力で毟り取ったカネは、居酒屋タクシーの放蕩に使われる。居酒屋タクシーというのは、単に残業で帰宅するタクシーにビールとつまみが付いているだけではない。係長クラスの若僧の官僚が、契約社のタクシーに乗って、夕方、霞ヶ関から銀座に行き、経費で高級料理を貪り食い、店の前にタクシーを待たせ、飲んで食って省の机に戻ってメールをチェックし、また待たせていたそのタクシーに乗って六本木の高級クラブに直行し、情報交換の業務と称して誰かと深夜まで経費で飲み、また待たせていた同じタクシーで家まで帰るという、そこまでの壮絶な放蕩三昧を居酒屋タクシーと呼ぶのだ。無論、同じことを、天下りした官僚たちが天下り先で毎日続けている。
今回、菅直人が官僚との協調路線を打ち出し、おそらく、一時的に禁止されていた居酒屋タクシーが、また間違いなく復活するだろう。マスコミが報じなければ、一般の市民は、官僚が何をしているかは知らないのである。ときどき、マスコミがガス抜きで官僚叩きの世論を煽る必要があるとき、思い出したようにテレビ報道で特集されるだけに過ぎない。
前の記事でも論じたが、この未曾有の財政赤字の責任は官僚にある。借金を膨らませた張本人は財務官僚にある。騙されてはならない。彼らの手口を思い出さなくてはいけない。バブルが崩壊して不景気が常態化して以降、歴代の自民党政権は、必ず口実を作って大型の補正予算を組んできた。ほとんど当初予算と匹敵するほどの巨額の支出を毎年のように続けてきた。それが、現在の公益法人や独立法人に化け、国民の税金を吸い取るブラックボックスになっているのである。
官僚たちは、政治家に率先して補正予算を組んだ。族議員の暗躍などは二次的な要素で、実際には、官僚が天下り先を増殖拡大させるために、嬉々として補正予算を積み上げ、政治家の尻を叩いて可決成立させて行ったのだ。当時、経団連と日経新聞は、この大型補正予算の編成について、景気刺激と言い、景気下支えだと言って、当然のように毎回政府に要求し、例えば少しでも円高で景気が弱含みになれば、すぐに真水で何兆円という表現で、政権の中に議論と立案を催促した。族議員が動き、まともに審議もしないまま、テレビのニュースで少し話題になって、政調から閣議へ、国会へと金額と明細が決まって行った。財政赤字を理由に反対論を貫いたエコノミストはいなかった。
村山内閣、橋本内閣、小渕内閣、森内閣、小泉内閣と、過去最大規模とか、これでGDPを何%底上げなどという言い方で、大型の財政出動が連綿と繋がって行った。中小企業対策だとか、地震の後は防災対策だとか、何やかんやと巧みに理由をつけながら、特にマスコミにも学者にも反対されず、景気の下支えと底上げを理由にして、大型補正のために赤字国債が発行された。
指揮を執った中心は、平成の高橋是清の宮沢喜一だった。あの竹中平蔵が経済財政担当相だった小泉内閣ですら、実際には緊縮財政はしていない。小泉・竹中がやったのは、「聖域なき構造改革」と呼ぶ社会保障の切り捨てで、弱者のための社会保障費は残酷に削減して自己負担(応益負担)に切り換えて行ったが、大型公共事業は次々と工事認可し、派手に予算を執行しているのである。
例えば、東京湾アクアライン、中部国際空港、関西空港二期工事、神戸空港、北九州空港、静岡空港。これらは、小泉内閣の下で実際に予算がつけられたものだ。今、消費税増税にあたって、これら地方空港の整備が槍玉に上がっている。だが、小泉政権がこれら地方空港の整備を推進した事実は誰も指摘しない。民主党は、おそらく反対していなかったのだろう。
そして、菅直人は、財政赤字を膨らませた原因は、国民の社会保障費の伸びによると指摘する。官僚は、こうして歴代の短命内閣が誕生すると、片っ端から財政出動と補正予算をやらせ、借金を膨らませ、また新しい内閣と取っ替えという繰り返しを続け、このカネで公益法人と特別会計を肥大化させ、天下り後の豪奢な貴族生活の夢を広げて行ったのだ。
一言で結論すれば、借金を作ったのは国民ではなく、官僚であり、なかんづく財務省である。放漫財政の責任は財務省にある。最近の言説で、将来の子どもの世代に借金のツケを残すなとよく言われる。その言説で、マスコミは消費税増税を正論として突きつけ、われわれはホールドアップを余儀なくされる。理論的に武装解除される。しかし、それはどうやら違うと私は思う。今のわれわれ自身が、すでに十分に過去の借金のツケを払わされて苦しまされているのではないのか。
10年前と現在の負担を冷静に比較してみるがいい。税金と社会保険料の金額を比べてみてどうか。過去の官僚による野放図な財政出動のツケを、官僚が天下りと放蕩のために税金を散財し浪費したツケを、われわれは、まさに今、苦悶しつつ支払わされている。責任を取らなくてはいけないのは官僚ではないのか。
ツケを支払わなくはいけないのは官僚ではないのか。財務省が国の財政の直接の責任者ではないか。財務省の財政運営の責任が、一度でも正面から問われたことがあるだろうか。なぜ、財政赤字の責任が国民に転嫁され、特に地方の住民が糾弾されなければならないのか。最後に、ここ数日、ニュースを見ながら気になる言葉がある。それは玄葉光一郎が不気味に言う「社会保障改革」という言葉だ。
これまで、鳩山由紀夫の時代は、「いのちを守る」と言い、貧困や雇用に前向きな姿勢を演出してきた。玄葉光一郎は、小泉構造改革の正統な後継者を自任している男である。悪い予感を直截に言うが、玄葉光一郎と菅直人は、あの「聖域なき構造改革」をまた再始動させるつもりではないのか。国の経済政策のグランドデザインは、今も昔も官僚が独立して(参謀本部作戦課のように)描いているのである。具体名を挙げれば、財務省事務次官で「ミスター小泉改革」の丹呉泰健が設計主任で図面を引いている。それは、麻生太郎のときまで、ずっと新自由主義のアーキテクチャによる政策体系だった。
年金も、医療も、介護も、官僚は竹中平蔵の計画を基本に将来の図面を引いてきたのだ。玄葉光一郎と菅直人は、消費税を首尾よく上げた後、次はまた、増税のときと同じ財政赤字を理由にして、国民を脅迫し、マスコミを煽らせ、社会保障の削減と道州制に着手し始めるだろう。小泉改革が復活する。
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