投稿者 小沢内閣待望論 日時 2010 年 5 月 23 日 20:42:47: 4sIKljvd9SgGs
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【コラム】若者離れ現象は、価値観の移行の前触れ?[10/05/21]
1 :本多工務店φ ★:2010/05/22(土) 00:37:35 ID:???
草食男子に肉食女子。そうやってキャラクタライズされたかと思ったら、今度は消費しない若者と言われる。
家に閉じこもる。クルマに興味がない、海外旅行も関心ない。酒も飲まないし、グルメも人ごと。
テレビやマスコミはこぞって「若者の○○離れ」といって総攻撃の様相です。
ちょっと待ってください。消費は若者だけがけん引しているのですか? 消費をしないことは「悪」なのですか?
確かに、トレンドはいつの時代も若者がつくっています。
70年代は、若者は肩まで髪を伸ばし、パンタロンのジーンズを引きずって歩いていました。
姿形だけを見れば異様で「何だ今の若者は!」とめちゃめちゃにたたかれた世代です。
しかし、それは古い価値観に疑問を呈し、新しい価値観を探すという意思の表れ。
どんな時代にも、どんな社会にもある普遍的なものでした。
まあ、あの時代は日本という社会が右肩上がりを誰も疑わなかったので、それで社会の基盤がぐらつくことはありませんでしたが。
あのころと今の決定的な違いは、経済活動。
すべての価値が「お金」をベースに考えられていること。
いつの間にか、日本社会の象徴である「中流階級」が減少し、「上流」と「下流」に分離してしまった。
そこに、グローバル経済というモンスターが現れ、瞬時に多くの国を破壊していったのです。
そのせいで、トレンド=消費トレンドという構図が出来上がり、消費する・しないではなく、どんな消費をするかにスポットが当たるようになりました。
ファストファッション?ナカ食?スマートフォン?など流行は消費と密接にリンクしています。
ですから、経済という村の人から見れば、クルマに興味がない若者がいるということ自体、不可解な事象。
なぜ、こんなすてきなものを手に入れて、楽しいライフスタイルを実現しないのか理解できないのでしょう。
経済という村には、いくつかのルールがあります。
その1つが、マーケットを観察し機先を制したものだけが成功者となり、そこに富が集まるという法則。
しかし、ご存じのように経済の原則は等価交換ですから、経済という村では一定の量の富を取り合っているにすぎない。
一方に大きく集まれば、他方の富は少なくなる。椅子取りゲームと同じように、椅子にありつけない人がどんどん生まれてくるのです。
今までは幸運なことに、日本という経済村には富が集まっていました。
きっと、そのころは世界のどこかで富が不足していたのでしょう。
しかし、富が不足して初めて気が付くこともある。
それが、若者の○○離れという現象ではないでしょうか。何だかそう思えるのです。
もちろん、それは経済的な問題が引き金にはなっているでしょう。
でも、クルマに乗らなくても、グルメしなくても「すてきな人生がある」。
そんなことに気が付いたのかもしれません、それも一斉に。
一番新しい心理学である「トランスパーソナル」は、個を超えた集合無意識にスポットを当てていますが、
ある思いが一定数を超えると、遠く離れていても同じような思いを持つ現象が起こる、といわれています。つまり、思いがつながる?
もちろん、マスやネットの情報刺激がありますから、その現象がさらに大きくなるのは必至です。
>>2に続く
ソース:NET Marketing Online(日経ネットマーケティング)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nmg/20100519/214498/
2 :本多工務店φ ★:2010/05/22(土) 00:37:53 ID:???
>>1の続き
そう考えると、「若者の○○離れ」は消費トレンドではなく、価値観の移行と見ることもできます。
クルマを若者に買ってもらうために、「安いクルマ?」「かわいいデザイン?」「ハイブリッド? 電気自動車?」などと頭をひねったところで、
それは今までの村での解決法と何ら変わらない。
本当の解決方法はもっと違うところにあるのでは? と考えざるを得ません。
近ごろ、若者の農業回帰の現象や、社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)の増加を見ていると、
確かに若者の間に違う価値観が育ちつつあるのを感じます。
その答えの1つが「地方」。といっても、地方の活性化という名を借りた、公共事業や地方ブランド品の育成というものではありません。
「人」そのものを地元に残すという考え方です。
どうやら東京の人口流入も収まり、地元に残ろう、帰ろうという若者が増え始めたようなのです。
先日、諏訪の御柱祭(上社・前宮)を見てきましたが、平安時代にその起源があるといわれるこの祭りは、まさに諏訪に住んでいるからこその祭りでした。
7年ごとに、諏訪上社、下社を筆頭に、ほとんどすべての神社、やしろの四方にある4本の柱を立て替える祭りです。
20メートルもあろうかという大きな柱から、1メートルにも満たない柱まで、様々な御柱が建て替えられるのです。
この祭りには、諏訪地方の20万人以上の人たちがかかわる。それも1年以上をかけて。
御柱の「見立て」に始まり、「伐採」、有名な「木落し」「川越し」。そして町に入っての「里曳き」「建御柱」。
エンターテインメントの世界でいうならば、あの手この手で観衆を飽きさせずクライマックスへと連れて行く手法。
この一大イベントを見るために毎回 25万人もの人が集まってくるそうです。
あのフジロックフェスティバルが、約12万人の動員ですから、御柱祭のすごさは想像を絶しています。
広い草原で開催しているわけではありませんから、観客は大変です(大変でした!)。
しかも、これは一地方の神事。エンタメではありません。また、ロックフェスとの違いは、ほとんど素人がやっていること。
また、危険と背中合わせなのです。1週間後に行われた下社では、事故が起こりました。ご冥福をお祈りいたします。
間近で見ていて感じたのは、とにかく一生懸命にやっていること。
もちろん、楽しい笑顔満載でしたが、「とにかくつつがなく、無事に終えるように」。これが、みんなの合い言葉のようでした。
最後の「建御柱」では、太い長いとはいえ、その木の上に30数人の若者が乗って少しずつ建っていくのです。見ている方が、ハラハラ・ドキドキ。
完成したときは、観客なのに涙が出そうに感動しました。
この祭りのすばらしいところは、この神事のやり方をみんなで伝えていること。縄のない方、柱の切り方、引き上げ方などなど。
どの地方の祭りでもそうでしょうが、これだけすごいと、若者も残さなければという気持ちが強くならないわけはありません。
これが、諏訪の御柱祭を連綿と続けさせている要因なのでしょう。そこに、若者が強く共感しているのです。
「ヤンキー進化論」(難波功士著、光文社新書)にも書いてありましたが、若者の地元志向は地方を活性化させる大きなパワー。
祭りは、そのパワーを体現する絶好の機会です。それがまた、その地方の文化を再発見することにもつながるのですから一石二鳥。
>>3に続く
3 :本多工務店φ ★:2010/05/22(土) 00:38:14 ID:???
>>2の続き
今までも、祭りを見るたびにその可能性を感じてきましたが、
どうしてもイベント性が強すぎて観光客を意識するあまり、肝心の祭りにおける地元民の一体感が欠けているような気がしていました。
しかし、諏訪の御柱祭を見てモヤモヤが晴れました。
地方の活性化はまず、地元民の一体化。そのために地元を知る。地元の文化を知る。それこそが、人をつなげ他所の人を呼んでくる。
NHKの若者離れを取り上げた番組へのTwitter投稿でも気になったのは、「日本の文化」「日本らしく」というつぶやきが結構目についたこと。
若者は、無意識の内で、反グローバルな価値観を模索しているような気がしました。
やはり、若者が一番先に気付き、動き始めるのですね。いつの時代も同じように。安心しました。
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