01. 2010年1月15日 02:40:56 今国民の目前にて繰り広げられている検察とマスコミによる、小沢に対する攻撃は、国民により成し遂げられた、政権交代を認めず、自公政権復活こそ正当とする検察政治の極致の姿でしかない。このあまりに醜悪なる姿は、憲法に本来規定するところのデュープロセスの完全なる無視によるものと思われる。別件逮捕というものがあるが、死体遺棄で捕まえて、殺人の取調べをする。殺人を立件する。これは当たり前とさえているけれども、鈴木宗雄の事件を見ても、「悪の総合商社。」呼ばわりで、北方領土利権、アフリカ利権、で令嬢を取り、全ての資料を目的外に持ち去り、次々、やりたいように捜索を繰り返し、全ての資料を分析器にかけて篩いにかけ、少しでも疑わしければ、対象を何処までも拡大し、勾留を延長し、結局行き着いたところはヤマリン疑惑だった。検察権力の放恣なる運営これを取り締まる工夫が憲法にあるはずだ。余りに違法、憲法の被疑者の人権保証を無視する証拠獲得を全体として違法として、証拠の証拠能力の否定、公訴権自体の否定。 これらが、「自白により有罪にされない保障。」などにあらわれているが、「どんなに、次々検察の予断に基づき捜査対象にされて、本人がボロボロになっても正しかったら法の網から免れて、開放されるのだから問題ない。」との思考が蔓延している。これはおかしい。 何処かで歯止めをかけなければ、行き着くところ、Aの嫌疑で逮捕、捜索取り調べ、Bを立件する。こうなる。大久保の嫌疑で逮捕、捜索取り調べ、小沢を立件する。こうなる。検察権力行使に名を借りて、検察政治を執り行っているだけだ。 |
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