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http://www.tanakanews.com/110221bahrain.htm
バーレーンの混乱、サウジアラビアの危機
2011年2月21日 田中 宇
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バーレーンは、ペルシャ湾の西岸、サウジアラビアの沖合にある小さな島国だ。サウジと海上の橋でつながっている。面積はアラブ諸国の中で最小だ。イスラム教の勃興以前、ペルシャ湾の東西の沿岸はペルシャ帝国(イラン)の海上交易路で、バーレーンは交易用の港の一つだった。イスラム以前、この地域にはネストリウス派(景教)のキリスト教徒が多かった。景教の信者網は、交易路を経由して中国にまで広がっていた。(Bahrain From Wikipedia)
イスラム教の席巻とともに、バーレーン島の人々は、ペルシャやメソポタミア(イラク)南部の人々と同様、シーア派に分類される信仰を持つようになった。私の分析では、シーア派はイスラム以前の信仰形態をイスラム教が飲み込んだ結果、イスラムの要素のみで構成されるスンニ派(正統派)と異なる宗派になった。(イラク日記:シーア派の聖地)
バーレーン島は、16世紀にアフリカ回りの航路を開拓して世界帝国を築いたポルトガルが80年間支配し、その後の200年は再びイランの支配下に入ったが、アラビア半島のスンニ派勢力であるハリファ家がカタールから移ってきて、当時衰退したゼンド朝イランの勢力を1783年に追い出し、バーレーンを統治し始めた。これが、現在まで続くバーレーンの王家である。バーレーンは現在、80万人の国民のうち2割しかいないスンニ派が国王を頂点とする支配層で、国民の7割を占めるシーア派が貧困層を含む庶民を形成している。
ハリファ家は19世紀、世界帝国を築いてペルシャ湾にも進出した英国の保護下に入ったが、第二次大戦後、財政破綻した英国は1968年にスエズ運河以東の覇権をすべて手放して米国に譲渡することを決め、植民地制度を好まない米国はすべての英国領の独立を求めたため、バーレーンは71年、同様に英国の植民地だった近隣のカタールやアラブ首長国連邦(UAE)と同じ年に独立した。(英国のスエズ以東撤退とイスラエル)
(独立後も30年間、バーレーン王政の治安維持責任者は英国人のイアン・ヘンダーソンだった。99年の国王代替わりを機にヘンダーソンは辞任したが、その後も国王の治安担当顧問をしている)(Britons blamed for Bahrain crackdown)
その後、石油危機が起こり、バーレーンのすぐ隣にある世界最大の産油国サウジアラビアは大金持ちになったが、バーレーンには小さな油田しかないため豊かにならなかった。その代わりバーレーンは、サウジの巨額資金などを運用する国際金融センターとして機能するようになった。
▼イスラム革命をバーレーンに輸出したいイラン
1979年にペルシャ湾対岸のイランでイスラム革命が起こった。イスラム主義政権となったイランは、中東全域にイスラム革命を輸出する戦略を立て、聖職者を通じて対岸のバーレーンのシーア派を扇動し、81年以降、王政の転覆を画策した。イランにとって、18世紀にハリファ家に奪われたバーレーンを取り戻す歴史的な復讐でもあった。
80−90年代を通じ、シーア派のイスラム主義勢力が何度か政権転覆を試み、バーレーンの政情は不安定になったが、99年に国王が代替わりするとともに、新国王(現在のハマド国王)は議会制度と普通選挙制を導入し、民主化を少し進めることによって政治の安定化を図った。06年に初の議会選挙が行われた。(Bahrain's Long Revolution)
議会制度は作られたものの、依然として権力は国王に集中していた。バーレーン議会は40議席ずつの上下院からなる2院制だが、普通選挙をやるのは下院だけで、上院議員は国王が任命する。下院が国王の意に反することを決議しても上院で覆され、実現しない体制になっている。
王家を筆頭とするスンニ派の支配層は、バーレーン国民に占めるスンニ派の割合を増やそうと、パキスタンやヨルダン、シリアなどから来るスンニ派の移民を王室傘下の治安維持部隊(軍隊)の兵士などとして雇い入れ、5万人のスンニ派に国籍を与えた。彼らの中にはアラビア語を話せない者も多いのに、バーレーン国籍をとったスンニ派の移民は、政府から仕事を保障され、住宅も与えられて厚遇される。半面、昔から住んでいるシーア派国民は、軍人など主要な公務員職に就けない差別を受け、貧しい生活のままだった。シーア派の不満が高まった。(Bahrain security forces accused of deliberately recruiting foreign nationals)
昨年10月に行われた最新の下院選挙では、シーア派イスラム主義のウェファク党が18議席をとって第一党の座を守った。ウェファク党はシーア派の地位向上を求めてきたが、その主張は上院で阻まれ、なかなか通らない(ウェファク党の議員は、今回の反政府運動の中で、全員が議会の無効を宣言し、議員を辞任した)。(Bahraini parliamentary election, 2010)
ウェファク党は、シーア派イスラム聖職者が重要事項の決定権を握るという、イランのイスラム共和制と同じ体制を持っており、イランの傘下にある政党と考えられる(高位のシーア派聖職者はイランの聖地コムで学ぶことが必修だ)。バーレーンのシーア派市民の間では、イランの最高位の聖職者であるハメネイ師に対する支持が強い(イランはペルシャ語を話すペルシャ人だが、バーレーンはアラビア語を話すアラブ人なので、イラン人のハメネイだけでなく、同じアラブ人のイラクの最高位聖職者であるシステニ師に対する支持も強い)。(Bahrain; All about Pearl roundabout)
79年のイラン革命以来、バーレーンの王室は政権転覆を画策するイランを極度に嫌っている。イラン敵視の姿勢は、イスラエルの影響下にある米国の政界と同じだ。バーレーンは、米政府と米軍にとって、イランの対岸にあってイランににらみを利かせられる要衝の地であり、米海軍は第5艦隊本拠地をバーレーンに置いている。バーレーンを真に民主化したら、イラン傘下のウェファク党が政権をとり、第5艦隊など米国の影響力を追い出しにかかる確率が高いので、米政府はこれまで、バーレーン王家による似非民主体制を良いものと認めてきた。
▼イラク侵攻でバーレーン王政は安泰に見えたが・・・
03年の米軍のイラク侵攻は、ペルシャ湾岸地域における米軍の存在感の急拡大であり、イラクの次はイランが米軍に政権転覆されるとバーレーンのスンニ派支配層は期待した。だがその後、米軍のイラク占領は泥沼化して失敗し、イラクではシーア派イスラム主義勢力が台頭し、米軍撤退後のイラクが親イランのシーア派主導の国になることが確定した。
イランは、シリアやレバノンのヒズボラ、パレスチナのハマスなどにも影響力を拡大して中東全域で台頭し、バーレーンでの政権転覆の画策も再開した。イランの影響下にあるウェファク党は、08年後半から、王政に対する権利請求運動を強め、国王はシーア派の政治犯を釈放するなど、譲歩せざるを得なくなった。バーレーン政府は「我が国のシーア派イスラム主義勢力はイランに支援されている。イラン傘下のレバノンのヒズボラに訓練されている」と非難した。(Bahrain King Pardons Shi'ite Political Prisoners)
だがウィキリークスが暴露した機密電文によると、米当局の側は、イランがバーレーンのシーア派を支援していると考えられる根拠がないとして、バーレーン王室の言い分を認めなかった。米当局は、イランの核開発に関しては、イスラエルの圧力を受け、次々と根拠をでっち上げて「イランは核兵器開発している」と主張し続けたのに、バーレーンに関しては、ウェファク党とイランとの人的つながりを無視して、イラン黒幕説は根拠がないと言い続けた。(WikiLeaks cables show no evidence of Iran's hand in Bahrain unrest)
これはエジプト革命の前後、米当局系の分析者の中に、イスラム同胞団がエジプトをイスラム主義の政体に転換していく恐れは低いと甘く見つもっているのと同質の、あたかも中東のイスラム主義化を黙認したいかのような、米中枢の奇妙な傾向である。私自身は、ヒズボラやイスラム同胞団やハマスについて、地域の民衆に広く支持された「正義の味方」だと感じる。その一方で、彼ら(特にシーア派)の運動の戦術の中に、イスラム教で「タキヤ」と呼ばれる、異教徒との戦いで自分たちの本心を隠す(ウソをつく)戦術をとって良いという教義がある。(Taqiyya From Wikipedia)
その関係なのか、エジプトの同胞団はリベラル(欧米主義)であるかのような印象をふりまいているし、バーレーンのウェファク党もイランとの関係性を見えなくしている。そして、米中枢の「専門家」たちは、いとも簡単に「同胞団は大したことない」「ウェファク党はイランの影響下にない」と軽信してしまう。米中枢が同胞団やウェファク党の力を弱く見積もっていることは、外交専門家の集団として過度にずさんであり、隠れ多極主義的な(中東を反米で団結させ、米英覇権から自立した新世界秩序の一つの「極」に仕立てたい)、親イスラエルのふりをした反イスラエルの意図を感じる。
▼治安部隊の襲撃が逆効果に
08年のリーマンショックによる世界的な金融崩壊と金融不況がバーレーンにも波及し、大規模な不動産開発が破綻したドバイと同様、バーレーンでも不動産価値の下落や失業の増加が起こった。さらに昨年からは、米当局のドル過剰発行の反動としての食料投機などによって食料の国際価格が高騰し、バーレーンでも下層のシーア派市民の生活が悪化して、政府に対する市民の不満が高まった。そんなところに起きたのが、最近のエジプト革命だった。
今回のバーレーンの反政府運動は、2月11日にエジプトのムバラク大統領が辞任した直後、エジプト革命に触発されて激化した。反政府運動はシーア派が主導で、王政がシーア派を抑圧し、仕事や住宅を与えず貧困を放置している状態の改善が要求の中心だったが、彼らは「シーア派の運動」と見られることをいやがり、スンニ派の野党(サウジと同じ厳格なワッハーブ派のイスラム主義者が中心)やリベラル派とも連携する姿勢を強調する「タキヤ」的な戦術をとった。「シーア派の運動」と見られると、イランを敵視する米政府や、スンニが多数派であるアラブ諸国の人々の支持を受けにくいからだった。
米政府は、このウェファク党の戦略の「カモ」に喜んでなり、バーレーンの反政府運動を「民主化運動」と見なし、王政に対し、民主化運動を弾圧するなと求めた。バーレーンが真に民主化されたら、国民の70%を占めるシーア派が権力をとり、親米の王政を転覆して親イランの政権を作り、米海軍の第5艦隊も追い出され、ペルシャ湾は「イランの海」になる可能性が高いが、米政府にとっては、それより「民主化の理想」の方が大事であるかのようだった。
反政府運動は2月14日から、バーレーンの繁華街にある「真珠広場」を占拠し、そこを運動の中心地にした。これはエジプトの反政府運動がカイロのタハリル広場を占拠して運動の中心地に仕立て、世界のマスコミの注目をそこに集めた戦略を真似たものだった(真珠はバーレーン近海の昔の特産物だった)。2月17日にかけて、世界の目が真珠広場に集まり始めた。(Bahrain square becomes new center for Arab anger)
バーレーン王室の中枢は、ハマド国王とサルマン皇太子が、民主化に割と積極的な開明派と米欧から見なされる半面、国王のおじで治安担当相を兼務するハリファ首相は腐敗して残虐な人物だと米欧は見ている。ハリファ首相は、パキスタンやシリア、ヨルダン、イラク(旧バース党員)などからスンニ派移民を雇って作った治安部隊を率いている。
治安部隊は17日未明、真珠広場を襲撃し、反政府運動の市民を広場から排除しようとした。彼らは、事前に警告を発しないで襲撃を開始したため、深夜のため広場で寝ていた多くの市民が逃げる間もなく殴打され、3人が死亡した。この襲撃は、弾圧によって反政府運動を黙らせる作戦だったと考えられるが、それは裏目に出た。反政府派は翌日、襲撃で死亡した市民の葬儀に集まって王政に対する強い怒りを表明し、そこにまた治安部隊が発砲して死者が出て、反政府運動はさらに激化した。(Bahrain Turmoil Poses Fresh Test for White House)
米政府は、バーレーン王室内の誰が部隊に発砲を命じたのかを問題にした。米政府は、民主化に前向きな国王や皇太子と、後ろ向きな首相とを分けて考え、首相が傘下の治安部隊に発砲させたという筋書きに落ち着かせ、首相に責任をとらせることで国王と皇太子を生かし、親米のバーレーン王政を延命させる戦略だったようだ。(U.S.'s Bahrain Efforts Threatened By Royal Rift, Saudi Distraction)
2月19日、サルマン皇太子が王政の前面に登場し、17日の襲撃で死者が出たことについて、テレビ演説で謝罪した。皇太子は、治安部隊を真珠広場から撤退させ、反政府運動が広場を再び占拠することを認め、反政府運動との話し合いをしていく方針も発表した。エジプトの革命と同様、バーレーンの権力者も、国民の反政府運動に対して前代未聞の譲歩を開始した。(Protesters in Bahrain retake Pearl Roundabout)
しかし、これでバーレーンの反政府運動がおさまるわけではなさそうだ。ウェファク党は、治安部隊が街頭から完全に撤退するまで、王政から提案された話し合いに参加しないと言っている。エジプトでは、反政府運動に譲歩したムバラクは、結局失脚に至っている。(Bahrain Opposition Rejects Calls for Government Dialogue)
▼サウジアラビアが分解する?
ムバラクの失脚も、現実になる2週間前まで、分析者や外交官など関係者のほぼ全員にとって「あり得ないこと」とみなされていたが、ムバラクはあっけなく辞めている。バーレーンでも、王政が転覆されるか、もしくは下院に実権が移り、国王は権力を奪われて象徴的存在に成り下がり「真の民主化」が行われる可能性が増している。その場合、国民の70%を占めるシーア派に立脚し、統率がとれているウェファク党が与党になる。(The Battle of Bahrain King Hamad - the Mubarak of the Gulf by Justin Raimondo)
ウェファク党はイランの影響下にあると考えられるが、同じシーア派といっても、バーレーンはアラビア語を話すアラブ人で、イランはペルシャ語を話すペルシャ人だ。シーア派の自覚よりアラブ人の自覚が優先するという説もある。しかし、一足先にシーア派主導の国になったイラクは、アラブ人だが、イランとの関係が非常に良い。レバノンのヒズボラも、アラブ人だがシーア派なのでイランとの関係が良い。
シーア派は、長くスンニ派に異端性を疑われてきただけに、自分たちがやりたい政治を、外部に気づかれないように、タキヤ的な目くらましをばらまきながら隠然と進めるのがうまい。だから米国などでは「新生イラクは、イランと仲が悪い」「アラブ人とペルシャ人は相容れない」という分析もまかり通る。アラブとペルシャで利害が対立する局面もあるが、それを超えて、シーア派どうしで隠然と結束する力学の方が強い。真に民主化したら、バーレーンはイラク同様、隠然かつ強力に親イランの国になる。第5艦隊は出て行くだろう。
この新事態は、世界に巨大な影響を与える。バーレーンがシーア派の政権になったら、ほぼ確実に、バーレーンと海上の橋でつながっているサウジアラビアの東部州で、シーア派の決起が強まるからだ。サウジの石油の90%は東部州に埋蔵されている。サウジ国民2千5百万人のうちシーア派は3百万人程度だが、そのほとんどは東部州に住んでいる。東部州の人口は350万人なので、その過半数がシーア派だろう(サウジ政府は政治的理由から、この手の数字を全く発表しない)。
サウジは厳格なスンニ派であるワッハーブ派が主導する国で、歴史的な経緯で異教的(密教的)な要素が混じっているシーア派は、異端として弾圧される傾向が強い。シーア派はサウジ政府に採用されにくく、サウジの原油の9割が東部州で採れるのに、東部州がサウジ王政から受ける恩恵は、それよりはるかに低い。東部州のシーア派は王政に根強い反感を持っている。ここ数年、米軍占領下のイラクでシーア派が政治台頭し、隣国サウジのシーア派は大いに触発され、政治覚醒したが、反政府運動の活動家の多くが投獄されている。
今回、そこにバーレーンでの革命が起こった。サウジ東部のシーア派はますます政治覚醒しているはずだ。サウジは宗教的に厳格で、飲酒その他の娯楽が禁じられているが、バーレーンは放任度が高い。サウジ東部州の人々は週末(木曜日の夜から土曜日まで)にバーレーンに行き、羽目を外す。サウジ東部州とバーレーンの間は、人々の行き来が激しいわけで、バーレーンの政治興奮は、すでに十分サウジに伝わっている。サウジ東部州では2月20日、シーア派の勢力が、以前から続けてきた当局に対する政治犯の釈放要求を改めて発した。(MOBS TARGET SAUDI ARABIA)
バーレーンの王政が国民の民主化要求に対して譲歩するほど、サウジのシーア派も、自国の王政に、政治的・経済的な民主化を要求するようになるだろう。石油で儲けた分け前をもっとよこせと王室に要求し、拒否するなら東部州でサウジからの分離独立を問う住民投票をするぞ、とか言い出すかもしれない。東部州住民の過半を占めるシーア派は、分離独立に賛成だろう。
サウジ東部州で「真の民主化」が実現すると、サウジの原油の9割は、サウド王家でなくシーア派のものになる。サウジのシーア派はアラブ人だが、イラクやバーレーンのシーア派と同様、親イランの傾向をとるだろう。サウジ、イラク、イランという中東の3大油田地帯のすべてが、反米反イスラエルのイランの傘下に入ってしまう。間に挟まっているクウェートも政権転覆のおそれがある。クウェートでは、無国籍扱いされているベドウィン(遊牧民)が権利要求運動を開始している。OPECはイランの傀儡となり、イランを敵視する国は石油を止められ、原油価格は高騰する。イランは米欧に敵視されている分、中国やロシアと親しいから、米欧の覇権喪失が加速する。(Seven wounded in Kuwait clashes)
サウジ王政は、こうした悪夢の実現を何とか防ごうと、バーレーン王政を延命させるための派兵を、クウェートなど他の湾岸産油諸国(GCC)とともに検討している。サウジは以前からバーレーンの王政をテコ入れするための資金援助をしている。すでにサウジの治安部隊がバーレーンに入り、バーレーンの治安部隊の中に混じって反政府運動の弾圧に荷担しているという目撃証言もある。サウジは90年代にバーレーンでシーア派の反政府運動がさかんになった時にも、治安部隊をバーレーンに派遣している。(Gulf may use military force in support of Bahrain's regime)(U.S.'s Bahrain Efforts Threatened By Royal Rift, Saudi Distraction)
サウジの周辺では、東のバーレーンのほか、南のイエメン、西のヨルダンでも反政府運動が強まっている。すでに政権が転覆したエジプトも加え、政権が転覆すると、反米的なイスラム主義勢力が台頭しそうだ。親米のサウジは、革命の四面楚歌になっている。(Unrest Encircles Saudis, Stoking Sense of Unease)
民主化要求に対して譲歩すれば王政は延命できるという見方も米欧にあるが、それは怪しい。譲歩したバーレーン王政が延命できるか疑問だからだ。譲歩してもしなくても、バーレーンやサウジ、クウェートの王政は、転覆される懸念が強まっている。(A threat to Saudi Arabia?)
米国のネオコンは、イラク侵攻半年前の02年9月、米軍をイラクに侵攻させてサダム・フセイン政権を倒した後、サウジアラビア東部州のシーア派を煽動してサウジの油田地帯を分離独立させ、アルカイダを支援していたサウド王家を凋落させるという「テロ戦争」のシナリオを描いていた。彼らのシナリオは、その後10年近くを経て、今回のエジプト革命によって実現しつつある。だがネオコンのシナリオには語られていない裏がある。それは、サウド家から分離独立したサウジ東部州の大油田地帯が、その後必然的にイランのものになることだった。サダムを倒した後のイラクもイランのものになってしまったし、イラク戦争実現の立役者の一人だったネオコンのアハマド・チャラビはイランのスパイだった。(Playing skittles with Saddam)
イスラエルは以前、イランを強化して米軍を中東に恒久的に引っ張り込んで無償でイスラエルの衛兵をさせる隠れた戦略を持ち、それがネオコンがイランやその他のイスラム主義勢力を強化した理由だったと考えることもできる。しかし、今やイスラエルは明らかに、中東でこれ以上戦争を起こしたくない。戦争するほど米イスラエルが不利になり、米国が恒久的に中東から撤退していき、イスラエルが滅亡に至る流れを加速するからだ。ネオコンは、イスラエルが望む限度をはるかに越えて、イランやイスラム主義勢力を過剰に強化している。オバマ政権の中途半端な民主化容認策が、その傾向に拍車をかけている。ネオコンを隠れ多極主義者と見立てると、彼らの戦略は大成功している。
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