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歌舞伎見物のお誘い―土蜘蛛
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投稿者 あやみ 日時 2012 年 6 月 04 日 11:22:10: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-91.htmlより転載

最近ではほとんど上演されなくなったというこの「土蜘蛛」、その理由は物語性に欠けるからだと何かで呼んだことがある。素人の意見であれば罪はないが、もしこれが専門家の論評だったとしたらちょいと待った。先生、あんたも土蜘蛛の恨みを買いますぜ。

時は末法の頃、千筋の糸を放つ妖怪「土蜘蛛」が一族の恨みを晴らさんと源頼光(みなもとのらいこう)を苦しめた。その妖怪退治譚がこの「土蜘蛛」である。見せ場はなんといっても白い蜘蛛の糸を模したなまり玉が美しい軌跡を描いて舞い狂う立会いの場面である。

この物語が歌舞伎として舞台に登場したのは実は明治になってからで、歌舞伎においては古典の中に数えられない。しかし題材とされたのは古典も古典、能の「土蜘蛛」あるいは「土蜘」である。能に取材して作られた歌舞伎芝居の背景は能舞台を模して羽目板に松を描いたものとするという決め事がある。このような芝居を「松羽目物」といい、勧進帳や船弁慶などもそうである。

江戸時代はもとよりそれ以前から能は舞うのも観るのも貴族や武士の特権であり庶民には禁じられていた。彼らに許されていた芸能に「神楽」があるが、「土蜘蛛」はこの神楽にも取り上げられている。さて土蜘蛛とはいかなるものか。

       
「土蜘蛛」が日本の文献にはじめて登場したのは古くも「日本書紀」と「古事記」(それ以前の文献が残っていないので仕方がないのだが)、つづいて諸国「風土記」に記載が見られる。いずれも朝廷の意にそわぬ集団すなわち「まつろわぬ者」たちである。

後の神武天皇カムヤマトイワレヒコがまだ天皇として即位する前、帰属を拒む土着の豪族たちを征伐しつつ覇権を東へと広げていった。これを古代史では神武東征と
呼んでいる。土蜘蛛は記紀の東征譚のなかに書かれている。
まず古事記では「尾生土雲八十建―尾の生えた土蜘蛛ヤソタケル」とあり、八十建‐ヤソタケルとは単独の人名ではなく、八十建つまり「猛き者の群集」の意である。尾があるといういかにも未開な集団と表現されたこのヤソタケルをイワレヒコはだまし討ちにした。ヤソタケルに近づき宴を催して豪勢な料理をふるまうが、ある歌を合図に料理人たちがヤソタケルを討ち、倒したという。
そして日本書紀ではイワレヒコの大和地方征圧において新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)の三者をさして「三ヶ所の土蜘蛛」との記述がある。ハフリとは司祭者または巫女を意味し、呪術性のある首長の存在を物語っている。記紀の後に書かれた諸国の風土記にも登場する土蜘蛛の多くは女性の首長が統治していたという。

それに続いて登場するのが葛城山の土蜘蛛である。

大和・和泉にかけてつらなる和泉山脈と金剛山地に「葛城山」と名のつく山が幾つかあるが、この地には朝廷が興る前から自治をする集団が、あるいは王朝があった。その民は胴が小さくて手足が長く、蜘蛛のようにな姿で歩き、洞穴の中で暮らしていた。彼らがやすやすと神武東征に屈するわけもなく激しく抵抗したという。
イワレヒコ(神武)は葛のつるで編んだ網をしかけてこれを誅殺し、この地が「葛城」とよばれる由来となった。因みに常陸国風土記にも登場する土蜘蛛伝説では茨のつるで編んだ網で土蜘蛛を退治しその地を「茨城」と呼ぶようになったとの記述がある。実に興味深い。

この葛城山の土蜘蛛の恨みが後の世によみがえる。黄泉から、還る。

―汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや― 謡曲「土蜘蛛」より

平安の時の世、権力を争う貴人たちの間では讒言と呪詛が絶えず、一方で都を繰り返し襲う災害や疫病は失脚させられ怨霊と化した者の祟りと恐れた。そのための加持祈禱や寺院建立、荘園の開墾と寄進は凶事とともに庶民たちを疲弊させた。そんな都において貴賎を問わず誰もが頼りにしていた存在、それが源頼光である。武芸を修め心身ともに磨き上げられた武人の握る刀には破魔の力が宿り、末法の世にはびこる悪霊を討ち祓うと信じられていた。

しかしその頼光までもが瘡(マラリア)に倒れた。

病床の人となった頼光を甲斐甲斐しく看る侍女の胡蝶は薬と偽り頼光に毒を盛る土蜘蛛の化身であった。そうとはっきり表現しているのは神楽のみで能と歌舞伎では仄めかすにとどめてある。そして夜更け、頼光のもとに現れた怪しげな法師が自らが蜘蛛であることを明かし千条の糸を放って頼光を責めるが、名刀「膝丸」を抜いて返す頼光に背を斬られ退散する。 


土蜘蛛の精魂は神武天皇への恨みをその子孫が治める世を乱すことで晴らそうとした。頼光に近づいたのは都の守を揺るがすためとひとまず解釈しておく。

土蜘蛛の精は血痕をたどり追ってきた武者たちと再び渡り合い、そして仕留められる。

「土蜘蛛」のあらすじは上のとおりで能・神楽・歌舞伎ともにほぼ共通している。その出典は平家物語のなかに見られ、さらにそれは日本書紀を拠り所にしている。では、蜘蛛の巣を掻き分けながらその先に入ってみよう。

平家物語によれば手負いの土蜘蛛は北野天満宮へと退いていった。特筆すべきは、北野天満宮に祀られているのが菅原道真であることだ。
当時、菅原道真の怨霊に対する人々の怖れは大きかった。文官としての最高位にあった道真を失脚・配流に追い込んだのは政敵の藤原時平、しかし時平はその後若くして世を去り、その後も時平を外戚とする皇族たちの病死、雨乞いの祈禱をする最中の内裏が落雷をうけ火事となり多くの死者が出たほかそれを目の当たりにした帝までもが病死する。重なる凶事を人々は道真の怨霊と結びつけ、それを鎮めんと北野天満宮を造営し道真の霊を祀ったのである。


「祀る」とは表向きはその霊をなぐさめるためであるが本来は霊力をそこに封じ込めるためと言える。道真の霊を是非とも封じ込めておきたかったのは言うまでもなく藤原摂関家である。

藤原氏は飛鳥時代以来、政敵を陥れて官職を奪いながら地位を固めた一族であり、古代史の政変に藤原氏がかかわらなかったことはほぼないといってよい。その傍らで女子を天皇家に嫁がせて外戚となり朝廷を意のままに操った。飛鳥・奈良・平安を通して藤原氏の謀った政変の最後に位置するのが安和の変(あんなのへん‐969年)である。
醍醐天皇の皇子として生まれるが源氏の家に降下した源高明はその高貴な身分にあわせ朝儀や学問に通じており、冷泉天皇の即位とともに左大臣に上り詰めた。しかしこのとき、冷泉帝の皇太子を選ぶにあたって争いが起きた。関白を務める藤原実頼と右大臣の藤原師尹が源高明のさらなる躍進(外戚となること)を阻まんと共謀し、源高明に謀反の疑いをかけこれを失脚させた。高明は菅原道真とおなじく大宰府に左遷、藤原師尹は右大臣から左大臣に昇格した。

しかし、安和の変の裏には実際に藤原氏に反逆する動きがあったという指摘がある。それに絡むのが頼光の父、源満仲である。

朝廷の支配の行き届かない山の奥で周囲とかかわりを持たずに生きる土着の民がおり、彼らはやはり土蜘蛛と呼ばれ蔑まれていた。源満仲は安和の変に乗じて藤原氏を倒すためこの土蜘蛛一族を謀反に抱きこみ武装させたという。しかし満仲は挙兵を断念、そればかりか保身のために謀反の存在を朝廷に密告したとある。朝廷を憎悪する土蜘蛛たちは今こそと決起したが密告を受けた朝廷に殲滅されてしまう。

頼光が土蜘蛛の精に呪われたのは父・満仲の所業への報いであったと囁かれもしたという。

源高明への疑いは濡れ衣であったとの見方が強いが、「源平盛衰記」には高明は東国に下り、先の皇太子争いに敗れた為平親王を奉じて挙兵しようとしていたとある。もしこれが本当であればかつて東国の受領を歴任しこの地の土豪たちとも縁が深かったであろう源満仲の存在がさらに重要になる。そして満仲が手を結ぼうとした土蜘蛛とは、先に記した常陸の国は茨城の土蜘蛛一族の末裔ではあるまいか。


もう一点、気になって仕方のないことがある。
能「土蜘蛛」の謡いのなかでの、もはや最後が迫ったと気を落とす頼光とそれを励ます胡蝶のやり取りが何やら妙に色っぽい。


〽色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。

謡曲の解説書を見れば「色を尽くす」は「色々と手を尽くす」という野暮な対訳しかついていない。しかしわざわざ「色」ということばを使っているからには「色事」の意が係っていると採るべきであろう。さらに続く「夜昼の境も知らぬ有様」がそれをうけ強調している。夜昼を問わず色事に耽った末に病になったといってしまうのはやや下世話だが、頼光といえば鬼の首を切るほどの豪傑、それが蜘蛛の色仕掛けで骨抜きにされそうだとあれば聴衆もさぞや気を揉むことだろう。
数ある風土記に記された土蜘蛛の集団には、おそらくは巫女の役割をはたした女性の首領の存在が多く見受けられるが、これを土蜘蛛の精が美しい女の姿で頼光に近づいたことの原点とみてよい。歌舞伎では怪僧(じつは土蜘蛛の精魂)の役をつとめるのは女形というのが普通(そのときの興行によって胡蝶が出なかったり僧が出なかったり、胡蝶と僧と土蜘蛛の三者を早代わりで演出したりと色々)である。

土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。当時の人々にとって土蜘蛛とはまだ伝説と化す前の記憶に新しい存在だったであろう。そして朝廷への帰属を拒み抵抗するもいずれは消え行く運命にあったことへの哀れみをひそかに覚えていたのかもしれない。その記憶が芸を通して受け継がれたからこそ、舞台で見得を切る土蜘蛛に惜しげない喝采が集まる。
 
明治以降、世が西欧化を推し進めるにつれ歌舞伎の世界も変革をせまられた。それまでの歌舞伎の筋を「非合理」「荒唐無稽」とし、近代国家にふさわしい「起承転結」が理路整然と表現されなおかつ不明瞭な時代考証が正されることを求められ「西洋人にも解るように」しようというのである。すなわち西洋人に解らないものは価値がないと言っている。この馬鹿げた発想は西洋から流れ込んだ新しい価値観を重視するあまりそれに合致しないものを完全否定した当時の風潮、いや政策に由来する。

その昔、遣唐使のもたらした大陸文化は日本を大陸色に塗り替えてしまった。これは後に明治維新をもっていまいちど繰り返される。遣唐使廃止を建白した菅原道真は讒言により失脚、その首謀者の藤原氏の祖をだどれば日本の律令化に貢献し日本書紀の「著者」でもある藤原不比等に行き着く。日本書紀以前の史書は不比等の父(中臣)鎌足によって蘇我氏とともにすでに闇に葬られていた。
藤原氏の策謀や朝廷の弾圧により生まれた怨霊・鬼を退治するはずの武士たちは、却って貴族たちから政権を取り上げ武士たちの治める国を作った。いま、日本の古典芸能とよばれるものが大成されたのは貴族の世ではなく武士の世であった。

歌舞伎のみならず日本の芸能は決してそのひとつの話では始終せず、それぞれに遠い太古から続くこの国の足跡が刻まれこれからの行く末をも映している。それを縦糸とすれば、横糸は話と話の間の切りようのない繋がりであろう。縦と横、限りなく広がる世界のたった一部を画のように切り取って楽しむことを、日本人は好んだ。それはみる側とみせる側の双方の魂が豊かであったからに違いない。長屋の子倅たちまでもが頼光と四天王に扮して遊ぶ、日本人たちはそのむかし、そんな国に生きていた。

そして明治、藤原氏の子孫たちは公爵として政界に舞い戻り西欧文化の輸入にいそしんだ。明治維新はそれまでの時代とのあいだに亀裂をつくった。土蜘蛛の精魂は時代の裂け目から這い出し、この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。

          

――我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの――歌舞伎「土蜘蛛」より
 

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コメント
 
01. 2012年6月04日 11:40:40 : sZgppGFUIw
あやみ さま
安芸ガラスです。

>土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。

震災前、私は先生に従事して神楽を習っていました。
いまは、中断しております。
その神楽の台本、明治前と後では、物語がまったくちがいます。
庶民の楽しみにも天皇制に再編されたのですね。

>この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。
好いですね。


02. 2012年6月04日 13:53:24 : vufsMfsakp
とても、参考になる意見をありがとうございます。

「土蜘蛛」という歌舞伎は見たことがありませんが、とても興味深いですね。

土蜘蛛に関連して思い出したのが、中津悠子氏の「かぐや姫と古代史の謎」でした。

中津悠子氏は、この著作の中で、
作者不詳の日本最古の物語、「竹取物語」の舞台は、藤原不比等の時代とし、
かぐや姫は、葛城王朝の最後の姫だったとしています。

そして、かぐや姫の名付け親は、忌部(いんべ)の古老となっています。
正史から姿を消した葛城王朝と忌部一族は、土蜘蛛一族であったということでしょうか。
中津氏は、竹取物語の作者は、忌部一族を祭る神社の神官だろうと推測しています。

忌部一族の末裔である小生としては、興味深く拝読いたしました。



03. 宮島鹿おやじ 2012年6月04日 20:27:15 : NqHa.4ewCUAIk : G2rUQ9kENk
大変興味深く拝見しました。

土蜘蛛、熊襲、蝦夷、とにかく、動物にみなす。
人を見下げるものの見方というものが、連綿として続いてきたように感じます。

今で言うとなんでしょうか。ニート、ゆとり といったところでしょうか。
(または、直線的な歴史観?)

人を下げて自分が上がるというのは基本的に卑しいですね。そういう卑しい奴が結構幅を利かせてきたというのが日本の歴史なんでしょうか。どこも一緒でしょうかね。


04. あやみ 2012年6月05日 03:31:16 : oZZpvrAh64sJM : QKn5jzY2UU
安芸ガラスさま コメントありがとうございます。

神楽をされるのですね。このところものすごく惹かれるもののひとつに神楽があります。不思議なことに、中央アジアのグルジアという国の民族舞踊の身体の使い方、魅せ方が神楽のそれと本当によく似ているのです。ひょっとしたら不思議でもなんでもないのかもしれません。

明治までは神武天皇などほとんど祀られもしなかったらしいです。それが突然その存在を、それも「よりしろ」という形で強調しました。国のベクトルが乱れるのは当然といいますか、空恐ろしいことに思えます。

黙阿弥はにはそのからくりが見えていて、土蜘蛛を歌舞伎に仕立て直したのはかつての朝廷の仕打ちを我々に囁こうとしたから、などと考えるのも一興です。


05. 2012年6月05日 07:03:03 : ZadnqdsESs
あやみ さま
安芸ガラスです。

>中央アジアのグルジアという国の民族舞踊の身体の使い方、魅せ方が神楽のそれと本当によく似ているのです。ひょっとしたら不思議でもなんでもないのかもしれません。

見たいです。
私の知り合いがグルジアにいました。
今度会えるとしたら、聞いてみます。
もうすごく楽しみです。

3月の新年におこなっています○○ディスタンの踊りも面白いですね。
7拍ぐらいですかね。

>黙阿弥はにはそのからくりが見えていて、土蜘蛛を歌舞伎に仕立て直したのはかつての朝廷の仕打ちを我々に囁こうとしたから、などと考えるのも一興です。

同感します。


06. あやみ 2012年6月05日 11:39:15 : oZZpvrAh64sJM : QKn5jzY2UU
02さま、コメントありがとうございます。

葛城王朝説も興味がつきない分野です。ぜひゆっくり調べてみたいと思いつつ、網羅するべきことが多すぎて尻込み中です。

かぐや姫に求婚した皇子たちの一人、車持皇子は蓬莱の玉の枝の偽者を作らせるなどという卑劣な男と描かれていますがこれは藤原の不比等を暗に仄めかしているとの指摘があります。そして「竹取」の作者は朝廷に近い存在でありながら藤原氏に反感を抱く一族の出身と言われています。藤原氏がまだ中臣姓だったころから忌部氏とは確執があったようです。「かぐや姫」のカグは火の神カグツチからきており、当時活発だった富士山の噴火が治まる事を鎮まることを祈る巫女だとの意見もあります。

今度じっくりと思いを巡らせて見ようと思います。貴重なコメントをありがとうございました。


07. あやみ 2012年6月05日 12:15:53 : oZZpvrAh64sJM : QKn5jzY2UU
宮島鹿おやじさま、コメントありがとうございます。

「だまし討ち」が朝廷の常套手段で、武士の世界であれば末代まで誹りを受けるような卑劣な事を恥じもせずに書いて残しています。

卑しいものほど高貴を装うものでしょうね。世の中が複雑になればなるほどその様相は濃くなります。


08. 宮島鹿おやじ 2012年6月06日 01:55:01 : NqHa.4ewCUAIk : G2rUQ9kENk
あやみさん。レスありがとうございます。

>「だまし討ち」が朝廷の常套手段で、武士の世界であれば末代まで誹りを受けるような卑劣な事を恥じもせずに書いて残しています。

思わず、膝を打ちました。
ヤマトタケルもイワレヒコもだまし討ちですよね。

とにかく、なんでも、やみくもに有難がるのはやめたほうがいいですね。
誰かが、差し出してくる「歴史」も「宗教」も「科学」も。
自分の頭で考えて、わからないことは保留する。
この「保留する」ことに耐えられない人が多いと思います。


09. 2012年6月07日 08:06:01 : YQX9xw9YPg
あやみ様

市川中車襲名をどう思われますか?


10. あやみ 2012年6月07日 12:32:49 : oZZpvrAh64sJM : QKn5jzY2UU
09さま

すみません、わたくし、もう十年以上も日本を離れており、最近の歌舞伎界のことはまるで把握してないのです。実際の舞台での役者振りなどはこの目でみない限りわからず、ましてやネットなど役にたちません。残念ですが、とおい記憶の中で楽しむことにしています。

父子関係のことが取り沙汰されてますが、親の家業を継ぐというのは大変なことだろうと思います。特に芸や技の世界では先に親子の縁を切ってからでないと無理です。そういう意味では中車さんは運がよかったのではないでしょうか。


宮島鹿おやじさま

>自分の頭で考えて、わからないことは保留する

やはり世論を「製作」する輩にはなかなか勝てません。新しく入る情報のほうがどうしても影響力が強いのでしょうかね(「懐古主義」はそれに対する防衛本能からくるものなのでしょうか)。

安芸ガラスさま

中央アジアの春祭りは火祭りです。むかしアテッサという火と太陽の女神をあがめていたこの地の人々は、火炎信仰は厳禁とされるイスラム教に帰依した今もこの火祭りを忘れていません。アテッサは遥か東にまで伝播され愛宕山に祭られたという説があります。


11. 2012年6月08日 21:01:25 : YQX9xw9YPg
>芸や技の世界では先に親子の縁を切ってからでないと無理

なるほどそう言えばそうですね。
一旦義絶された後の「遅れて来た新人」を心配していたのですが、彼なら歌舞伎役者としても大成してくれるでしょうね。
安心して拝見することにしました。


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