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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-90.htmlより転載2012/05/13 11:50
日本語の奥深いところに踏み込んでみたい。
我々の先祖がとおい昔に話していた言葉、「やまとことば」とは。
とても簡単に言えば大陸から漢語外来語が漢字と共に伝わる以前から我が国で使われていた言語である。
しかしこの説明では不十分、そのむかし最後の氷河期までは日本列島と大陸は陸続き同然であったために大陸の諸言語を祖語とする集団が絶えずこの地をめざしてやって来た事、あるいは南海の諸言語を祖語とする集団が船を巧みに操って日本に到達していたという事をふまえると当然やまとことば草創期は各国語の単語がひしめいていたであろう事になる。
解りやすい例が「ウマ」である。
日本列島には馬がいなかったとされている。この動物は訓読みで「ウマ」というがこれは漢語の「マー」が日本語化したものである。音読み「バ」「マ」も同様、元をたたどればマーになる。つまり大陸から離れる前の日本に大陸人が移動してきたとき傍らに馬を連れていて、それを見て驚いた倭人との間で
倭人 「こは なんぞや?」
漢人 「馬(マー)也。」
倭人 「んま?」
漢人 「是。」
などという会話を交わしたかはあくまで想像であるが、遠い処からやって来た物に和名をつけずそのまま外来語を受け入れたこともあった。
そして「馬‐ウマ」も立派にやまとことばの内にかぞえられる。
今回の話は何処から始めていいかよくわからない「輪廻型」のものなので唐突に馬の話などをしてしまったがお許し願いたい。日本人と馬の話はまた別の機会にとっておくとする。
日本人がいま日本で息苦しく暮らしているのはなぜか。それは日本の社会の現実と日本人の心の構造とがしっくりいかないからに違いない。もちろん無理を強いられているのは現実ではなく心の方だ。
ここで日本の社会についてどうこう言う前に、我々の心の構造はどういうものなのか思いを廻らせて見たい。やまとことばを道しるべに小さな旅をしよう。
「うつ」という音を持つやまとことばを追いかけてみる。
人が生れ落ち生きてゆく世を「うつしよ‐現世」といった。「うつしよ」では時が流れる。ひとは生まれてから死ぬまでという、必ず終わりの来る一定の時をここで過ごす。仏教の「此岸」のことである。その逆の「彼岸」は「とこよ‐常世」といった。「うつしよ」での人生を終えたものが行くところでここでは時が流れない。日本書紀や古事記、風土記などに書かれた「よもつくに‐黄泉の国」「根の国」はそれにあたり、浦島太郎が迷い込んだ竜宮城もこの「とこよ」であった。
「うつしよ」の「うつ」とは「うつ‐現」を意味する。目に見えるさま、いわゆる物質界を指している。
そしてそのさまは人の目に、水や鏡にうつる(映る)。人は五感を通して情景や色や香りを心にうつし(移し)、絵や文としてうつす(写す)。しかしこの目にうつる花の色はやがてあせる。なぜなら、時のうつろひ(移ろひ)がそうさせる。これが「うつしよ」の理である。
お気づきのとおり、「うつる」という何となく似た動詞が違った漢字で書き表されている。しかし我が国に漢字がやってきたのは日本語が出来上がってから後であるということを是非お心にとめていただきたい。古代の日本語は現代にくらべるととても少ない数の動詞が使われていたことになる。だがその中での微妙な違いを皆で共有し、わかりあっていた。漢字を巧みに使いこなし重厚な文章を作り上げるのとはまた違った奥深ささがあると思うのだが、いかがであろうか。
もうひとつの「うつ」、それは「うつ‐空」である。空っぽで空しいさまを指す。二つの漢字「空」と「現」、これをならべると似ても似つかない互いに無関係な言葉と捉えたくなるが、じつは不思議なほど通ずるものがある。
頭の中がうつけて(空けて、虚けて)ぼうっとした人間は「うつけもの」といわれた。人はある種の入れ物と捉えられていた。入れ物、すなわち「うつは‐器」であり、「あの人は器が大きい」などと形容する。
ではその「うつは」は何から何を隔てているのであろう。それは外から「うち‐内」を別けている。うつは(器)のうち(内)に湛えた水をうつ(棄つ)とうつろ(空)になる。太鼓や鐘をうつ(打つ)ことで音が鳴るのはうち(内)がうつろ(虚ろ)だからである。おもしろい。
建設現場でコンクリートを型枠に流し込む作業、もちろん近代以降の話だがこれも「コンクリートを打つ」という言い方をする。動詞「打つ」の同じような使い方は「布団を打つ」などに見られる。いずれも器となるものの内側に何かを充填することで物として成り立たせる働きを説く。さらに視野を広げれば「裏打ち」という今あまり聞かれなくなった言葉も見え、これには修理や補強、精進などの意味がある。物を作る、つとめを果すという目的を遂げるため計画的に行動することが「打つ」だろう。「芝居を打つ(人を騙す意ではなく芝居興行のこと)」「墨縄を打つ(大工などが木材に印をつける作業)」はまさにそれである。
人は死ぬとからだという入れ物から霊が抜け出し空っぽになると考えられていた。死ぬという事は霊が「うつしよ」を離れ、別の次元へと旅立つことである。現し世での器たる体は空ろになった。ここで「現」と「空」、ふたつの「うつ」が重なった。偶然ではない筈だ。
ひとのからだはたった数十種類の原子でできているらしい。そのような「物質」が、立って歩いて笑って涙を流す。恋をして、子を為して、裏切り奪い騙しもする。こんな不思議、いや不条理とも言えることが起こるのは人という器の内側に霊が存在するからである。
死んで霊が抜け出たからだは物言わぬ骸となり、あたかも蝉の抜け殻の如くただ塵となるのをまつのみである。うつせみ−空蝉の言葉の意味を辿れば「うつしおみ−現人」すなわち現世に生きる人に行き着く。蝉の抜け殻をそれに重ねあわせたのはいにしえの人々の聡明さであろうか、否、やまとことばと共に暮らしていた先祖たちにしてみれば「現」はもとより「空」であったことなど自然なことであったはず、 今を生きる我々からすれば驚きでしかないが。
さて、からだをはなれた霊はどこへゆくのであろうか。
信心によって言い方はちがう。あの世、彼岸、天国、時には地獄という。
遠い昔の日本では「黄泉つ国」あるいは「根の国」なる処へ行くとされていた。その国では時間の概念がない。死ぬまで、いや死んでも、いやもう死なないので時間が経つということがない。暑からず寒からず、四季の花が枯れずに常に咲き乱れているという。つまり四季もない、終わりもない、時のながれぬ「常世」である。
なぜ「根の国」といったのか、「根」の文字が地の底を思わせるために死後の世界が地下にあると解されがちだが筆者はそうは思わない。
そこに一本の木があるとする。その木には花が咲き、青葉が繁り、鳥や虫たちが棲み、秋にはたわわに実をつける。それも一度きりではなく何年も、何十年も繰り返す。実からこぼれた種からは自らの子が生まれ、うまく根付いてゆけばそこは林になる。
これはみな人の目に映る「現象」である。しかしそれを支える「根」の働きは見ることはない。目に映らない国、それが「根の国」であろう。
時がたてば花も葉も枯れて落ちる。棲み付いていた生き物たちもやがては土に還り溶けて根に迎えられる。先祖たちはそれを知っていたのか、うつしよでの時を終えたひとのからだは土になり、霊は根の国にゆくと信じられていた。
「こんなはずではなかった」
人生を悔やみながら死ぬと歪んだ霊となって根の国にゆくことになる。時代が降るにつれてそんな霊は増えていったことだろう。目に映るものに憧れ、それが手に入らないと知ると苦悩し嫉む、あるいは奪い取ろうとする。そして搾取や戦がおこり命が踏み散らされた。こんなはずではなかったと恨みつらみを抱えて根の国へと旅立った霊、それは根の国をも歪めて穢すことになる。
根が傷つき腐りだすと木には虫が湧き花も実もつけなくなる。それどころか芽を吹かぬようになり、枝を枯らし、なおも根腐れがすすめばすっかり枯れてしまう。目に映らぬところで起こっていることはこうして我々の前に姿を現す。いまの世の中は虫食まれ枯れるのを待つ木立ちによく似ている。
近代思想の「教え」では、現世という物質界こそ全てであり人は死ねば後には何も残らぬと、さらには現世での行いを裁くのは法であって神ではなく、そもそも天国も地獄も迷信であると説いている。目に映らない世界を切り捨てよ、と命じている。それに帰依してしまった人間は行いを正すことを忘れ、法にふれなければ、またその網をくぐりさえすれば何をしてもよいと解した。そして法などはいくらでも都合よく作りかえられることも承知した。弱い者たちから奪おうが、騙そうが、殺そうが裁かれない。あの世を顧みず目に映るものを追えば追うほどそれは酷くなる。しかし近代思想の屁理屈が何をほざこうと霊は間違いなく存在しからだを離れてもなお在り続けるのだ。霊は見えない世界に行って見える世界の根となる。
すべてはうつしよの絵空事、ひとにそう思い切ることができるのであれば苦労はない。容易ではないがしかし、そうと諦めねばならない。「あきらめる‐諦める」は何やら逃避を思わせる物悲しい言葉となってしまったがそうではなかった。もとは「あきらむ‐飽きらむ」、つまりこれで充分と「満足する」ことである。それによって煩いや迷いを打ち消し心の内を「明きらむ」ことができる。いとも不思議なことに「あき」の音は回りまわって「空き」にとどく。
もうひとつ不思議な「うつ」がある。
「鬱」、この漢字は「ウツ」とよむが訓読みではない。したがって普通に考えれば大陸語であってやまとことばではない。しかし「鬱病」はひとが己の「うち」側にのめりこむ病で、字源をみれば、木々の間で酒を醸すときに香草で「うつは‐器」を覆ってその香りを酒に「うつす‐移す」作業を描写したものとある。どうやらやまとことばの「うつ」と無関係ではなさそうなのである。
鬱の音読みである「しげる」は草木が生い茂ることを意味し、その結果は「鬱蒼」とした森になる。また、日本でウコンとよばれる薬草は中国語で「ウッコン‐鬱金」、沖縄ではウッチンという。鮮やかに輝く黄色を意味するそうだ。鬱にはうちに秘められた力が外に向かってなにかを放つ、そんな語意が感じられてならない。その力がどのようなものであるかによって酒にも森にも病にもなりうるのではないであろうか。
冒頭で述べた「馬」と同様、「鬱」はやまとことばと大陸語の中間に漂うことばではないか、筆者は何となくそう思う。
かりそめの、うつしよでの時を終えた霊はいよいよ本当の世界へとうつる。その時によき霊となるか、悪しき霊となるかが今ここで生きているうちに試されていると思うことができれば、この世も少しはましになるだろう。
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