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「うつ」の構造
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投稿者 あやみ 日時 2012 年 5 月 13 日 12:37:45: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-90.htmlより転載2012/05/13 11:50

日本語の奥深いところに踏み込んでみたい。

我々の先祖がとおい昔に話していた言葉、「やまとことば」とは。
とても簡単に言えば大陸から漢語外来語が漢字と共に伝わる以前から我が国で使われていた言語である。
しかしこの説明では不十分、そのむかし最後の氷河期までは日本列島と大陸は陸続き同然であったために大陸の諸言語を祖語とする集団が絶えずこの地をめざしてやって来た事、あるいは南海の諸言語を祖語とする集団が船を巧みに操って日本に到達していたという事をふまえると当然やまとことば草創期は各国語の単語がひしめいていたであろう事になる。

解りやすい例が「ウマ」である。
日本列島には馬がいなかったとされている。この動物は訓読みで「ウマ」というがこれは漢語の「マー」が日本語化したものである。音読み「バ」「マ」も同様、元をたたどればマーになる。つまり大陸から離れる前の日本に大陸人が移動してきたとき傍らに馬を連れていて、それを見て驚いた倭人との間で

倭人 「こは なんぞや?」

漢人 「馬(マー)也。」

倭人 「んま?」

漢人 「是。」

などという会話を交わしたかはあくまで想像であるが、遠い処からやって来た物に和名をつけずそのまま外来語を受け入れたこともあった。
そして「馬‐ウマ」も立派にやまとことばの内にかぞえられる。

今回の話は何処から始めていいかよくわからない「輪廻型」のものなので唐突に馬の話などをしてしまったがお許し願いたい。日本人と馬の話はまた別の機会にとっておくとする。
日本人がいま日本で息苦しく暮らしているのはなぜか。それは日本の社会の現実と日本人の心の構造とがしっくりいかないからに違いない。もちろん無理を強いられているのは現実ではなく心の方だ。
ここで日本の社会についてどうこう言う前に、我々の心の構造はどういうものなのか思いを廻らせて見たい。やまとことばを道しるべに小さな旅をしよう。

「うつ」という音を持つやまとことばを追いかけてみる。

人が生れ落ち生きてゆく世を「うつしよ‐現世」といった。「うつしよ」では時が流れる。ひとは生まれてから死ぬまでという、必ず終わりの来る一定の時をここで過ごす。仏教の「此岸」のことである。その逆の「彼岸」は「とこよ‐常世」といった。「うつしよ」での人生を終えたものが行くところでここでは時が流れない。日本書紀や古事記、風土記などに書かれた「よもつくに‐黄泉の国」「根の国」はそれにあたり、浦島太郎が迷い込んだ竜宮城もこの「とこよ」であった。

「うつしよ」の「うつ」とは「うつ‐現」を意味する。目に見えるさま、いわゆる物質界を指している。

そしてそのさまは人の目に、水や鏡にうつる(映る)。人は五感を通して情景や色や香りを心にうつし(移し)、絵や文としてうつす(写す)。しかしこの目にうつる花の色はやがてあせる。なぜなら、時のうつろひ(移ろひ)がそうさせる。これが「うつしよ」の理である。

お気づきのとおり、「うつる」という何となく似た動詞が違った漢字で書き表されている。しかし我が国に漢字がやってきたのは日本語が出来上がってから後であるということを是非お心にとめていただきたい。古代の日本語は現代にくらべるととても少ない数の動詞が使われていたことになる。だがその中での微妙な違いを皆で共有し、わかりあっていた。漢字を巧みに使いこなし重厚な文章を作り上げるのとはまた違った奥深ささがあると思うのだが、いかがであろうか。


もうひとつの「うつ」、それは「うつ‐空」である。空っぽで空しいさまを指す。二つの漢字「空」と「現」、これをならべると似ても似つかない互いに無関係な言葉と捉えたくなるが、じつは不思議なほど通ずるものがある。

頭の中がうつけて(空けて、虚けて)ぼうっとした人間は「うつけもの」といわれた。人はある種の入れ物と捉えられていた。入れ物、すなわち「うつは‐器」であり、「あの人は器が大きい」などと形容する。
ではその「うつは」は何から何を隔てているのであろう。それは外から「うち‐内」を別けている。うつは(器)のうち(内)に湛えた水をうつ(棄つ)とうつろ(空)になる。太鼓や鐘をうつ(打つ)ことで音が鳴るのはうち(内)がうつろ(虚ろ)だからである。おもしろい。
建設現場でコンクリートを型枠に流し込む作業、もちろん近代以降の話だがこれも「コンクリートを打つ」という言い方をする。動詞「打つ」の同じような使い方は「布団を打つ」などに見られる。いずれも器となるものの内側に何かを充填することで物として成り立たせる働きを説く。さらに視野を広げれば「裏打ち」という今あまり聞かれなくなった言葉も見え、これには修理や補強、精進などの意味がある。物を作る、つとめを果すという目的を遂げるため計画的に行動することが「打つ」だろう。「芝居を打つ(人を騙す意ではなく芝居興行のこと)」「墨縄を打つ(大工などが木材に印をつける作業)」はまさにそれである。

人は死ぬとからだという入れ物から霊が抜け出し空っぽになると考えられていた。死ぬという事は霊が「うつしよ」を離れ、別の次元へと旅立つことである。現し世での器たる体は空ろになった。ここで「現」と「空」、ふたつの「うつ」が重なった。偶然ではない筈だ。


ひとのからだはたった数十種類の原子でできているらしい。そのような「物質」が、立って歩いて笑って涙を流す。恋をして、子を為して、裏切り奪い騙しもする。こんな不思議、いや不条理とも言えることが起こるのは人という器の内側に霊が存在するからである。

死んで霊が抜け出たからだは物言わぬ骸となり、あたかも蝉の抜け殻の如くただ塵となるのをまつのみである。うつせみ−空蝉の言葉の意味を辿れば「うつしおみ−現人」すなわち現世に生きる人に行き着く。蝉の抜け殻をそれに重ねあわせたのはいにしえの人々の聡明さであろうか、否、やまとことばと共に暮らしていた先祖たちにしてみれば「現」はもとより「空」であったことなど自然なことであったはず、 今を生きる我々からすれば驚きでしかないが。


さて、からだをはなれた霊はどこへゆくのであろうか。
信心によって言い方はちがう。あの世、彼岸、天国、時には地獄という。
遠い昔の日本では「黄泉つ国」あるいは「根の国」なる処へ行くとされていた。その国では時間の概念がない。死ぬまで、いや死んでも、いやもう死なないので時間が経つということがない。暑からず寒からず、四季の花が枯れずに常に咲き乱れているという。つまり四季もない、終わりもない、時のながれぬ「常世」である。

なぜ「根の国」といったのか、「根」の文字が地の底を思わせるために死後の世界が地下にあると解されがちだが筆者はそうは思わない。
そこに一本の木があるとする。その木には花が咲き、青葉が繁り、鳥や虫たちが棲み、秋にはたわわに実をつける。それも一度きりではなく何年も、何十年も繰り返す。実からこぼれた種からは自らの子が生まれ、うまく根付いてゆけばそこは林になる。
これはみな人の目に映る「現象」である。しかしそれを支える「根」の働きは見ることはない。目に映らない国、それが「根の国」であろう。

時がたてば花も葉も枯れて落ちる。棲み付いていた生き物たちもやがては土に還り溶けて根に迎えられる。先祖たちはそれを知っていたのか、うつしよでの時を終えたひとのからだは土になり、霊は根の国にゆくと信じられていた。

「こんなはずではなかった」
人生を悔やみながら死ぬと歪んだ霊となって根の国にゆくことになる。時代が降るにつれてそんな霊は増えていったことだろう。目に映るものに憧れ、それが手に入らないと知ると苦悩し嫉む、あるいは奪い取ろうとする。そして搾取や戦がおこり命が踏み散らされた。こんなはずではなかったと恨みつらみを抱えて根の国へと旅立った霊、それは根の国をも歪めて穢すことになる。

根が傷つき腐りだすと木には虫が湧き花も実もつけなくなる。それどころか芽を吹かぬようになり、枝を枯らし、なおも根腐れがすすめばすっかり枯れてしまう。目に映らぬところで起こっていることはこうして我々の前に姿を現す。いまの世の中は虫食まれ枯れるのを待つ木立ちによく似ている。


近代思想の「教え」では、現世という物質界こそ全てであり人は死ねば後には何も残らぬと、さらには現世での行いを裁くのは法であって神ではなく、そもそも天国も地獄も迷信であると説いている。目に映らない世界を切り捨てよ、と命じている。それに帰依してしまった人間は行いを正すことを忘れ、法にふれなければ、またその網をくぐりさえすれば何をしてもよいと解した。そして法などはいくらでも都合よく作りかえられることも承知した。弱い者たちから奪おうが、騙そうが、殺そうが裁かれない。あの世を顧みず目に映るものを追えば追うほどそれは酷くなる。しかし近代思想の屁理屈が何をほざこうと霊は間違いなく存在しからだを離れてもなお在り続けるのだ。霊は見えない世界に行って見える世界の根となる。

すべてはうつしよの絵空事、ひとにそう思い切ることができるのであれば苦労はない。容易ではないがしかし、そうと諦めねばならない。「あきらめる‐諦める」は何やら逃避を思わせる物悲しい言葉となってしまったがそうではなかった。もとは「あきらむ‐飽きらむ」、つまりこれで充分と「満足する」ことである。それによって煩いや迷いを打ち消し心の内を「明きらむ」ことができる。いとも不思議なことに「あき」の音は回りまわって「空き」にとどく。

もうひとつ不思議な「うつ」がある。
「鬱」、この漢字は「ウツ」とよむが訓読みではない。したがって普通に考えれば大陸語であってやまとことばではない。しかし「鬱病」はひとが己の「うち」側にのめりこむ病で、字源をみれば、木々の間で酒を醸すときに香草で「うつは‐器」を覆ってその香りを酒に「うつす‐移す」作業を描写したものとある。どうやらやまとことばの「うつ」と無関係ではなさそうなのである。
鬱の音読みである「しげる」は草木が生い茂ることを意味し、その結果は「鬱蒼」とした森になる。また、日本でウコンとよばれる薬草は中国語で「ウッコン‐鬱金」、沖縄ではウッチンという。鮮やかに輝く黄色を意味するそうだ。鬱にはうちに秘められた力が外に向かってなにかを放つ、そんな語意が感じられてならない。その力がどのようなものであるかによって酒にも森にも病にもなりうるのではないであろうか。
冒頭で述べた「馬」と同様、「鬱」はやまとことばと大陸語の中間に漂うことばではないか、筆者は何となくそう思う。

かりそめの、うつしよでの時を終えた霊はいよいよ本当の世界へとうつる。その時によき霊となるか、悪しき霊となるかが今ここで生きているうちに試されていると思うことができれば、この世も少しはましになるだろう。

 

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コメント
 
01. 2012年5月14日 01:59:42 : 7RU088Xctk
>ひとのからだはたった数十種類の原子でできているらしい。そのような「物質」が、立って歩いて笑って涙を流す。恋をして、子を為して、裏切り奪い騙しもする。

その原子(物質)、というか、原子などの元になっている、
“それ(=宇宙=全て=法則)”自体が生きている。死体も生きているw

原子や星、全ての動植物、さらに、様々な(自然)現象や、
ひとの考え方や行動にまで共通する特徴(“それ”)に気付いた。

本当に気付いたんだよねw 人と星はよく似ている。いつか発表するよ。1qmOy4Hy0U


02. あやみ 2012年5月15日 08:13:39 : oZZpvrAh64sJM : PQoVcKDb3Q
1qmOy4Hy0Uさま
コメントありがとうございます。

>人と星はよく似ている。

そうですね。フラクタルと言ってしまうこともできますが、もっと悠久なるものが構えているように思います。発表を楽しみにしています。


03. 2012年5月18日 19:19:45 : WrZjZPLVBY
あなたはいつもこのようなテーマで投稿されるとよいのではないでしょうか。
無理に時局をテーマにする事はありません。

04. あやみ 2012年5月18日 20:27:50 : oZZpvrAh64sJM : FgBw5IFtRV
03さま

時局とは脱原発や国際情勢などのことでしょうか?
もしそうであれば、そういった話は私にとって、また今を生きる日本人にとって大きな意味を持っていると感じています。今回の記事でも書きました通り日本人の心の構造と社会構造とのズレが私たちに害をなしているのだと思うのです。ならば時局に見られる「現象」はその害によって具現化されたもののはずです。心の構造を解きほぐすためのひとつの手段が言語の解析です。

もちろん、証明することはできません。わたしの思うところにすぎません。

コメントは参考にさせていただきます。ありがとうございました。


05. 2012年5月19日 19:41:24 : WrZjZPLVBY
独善的な政局感の押し売りはごめんだと言っているのです。
尤もそれが目的なら言うだけ野暮でしたね。

06. 2012年5月19日 19:42:33 : WrZjZPLVBY
独善的な政局観の押し売りはごめんだと言っているのです。
尤もそれが目的なら言うだけ野暮でしたね。

07. あやみ 2012年5月20日 03:01:18 : oZZpvrAh64sJM : e82u2FPr6E
03さま

読まなきゃいいでしょう


08. 2012年5月20日 21:39:19 : CoVrWLtpvU
あやみ さま
安芸ガラスです。

「現象」。
そうですね。
見えるのは、人間の目の仕組みがあるからですね。
一方では、その現象を「うつ」す要素があるのですね。

他方では、「白」でも「黒」に見えるのです。
それは、大脳で歴史や政治に重ね再配置するからですね。

類語でしょうか。


09. 2012年5月21日 18:57:44 : WXAUjMT8ko
「ウマ」は漢字伝来によって生まれた言葉ではありません。
「ウマ」はもともと「ムマ」と言っていました。「やまとことば」は漢字の誕生よりも古い歴史を背負っていることを忘れてはなりません。

「うつ..」についての解釈も、仏教の伝来以前からこれは使われていた言葉です。
仏教からの暗喩によく用いられるのは、仏教のもつ世界観とこの言葉との、ある種の偶然なる一致と、我が国が仏教を導入した時期と漢字の使用が常態化した時期とが重なり、多くの文化人らに膾炙された背景が影響していると思います。
「うつしよ」の解釈についても、時代が遡るほどに、単音での意味が重乗しているものと捉え、解釈する必要があります。
「うつしよ」の特に「うつ...」について言うならば、「う」は偉大さを意味する冠詞として使われていると解釈できます。もう一方の「つ」には実は沢山の意味があり、現在では失われてしまった意味もここには含まれているように思います。結論のみ言うならば「つ」には付着するもの、付随するもの(あるいはその状態)という意味と、物質界に属するもの、「結果物」という意味がここにはあるように思います。
この「う」と「つ」が重なって、記事にあります「目に見えるさま..」という意味を結果的に構成しています。

ここでの「つ」がもつ深い意味が、現代に再び蘇るならば、往時のやまとことばが如何に豊かで叡智にみちたものであったかが了解されるのではないかとも思います。

「うつしよ」という言葉には、既に最初の二音で、この物質世界を喜び、感謝する態度が顕われており、さらに「つ」が指し示す「物事」には、それと対をなす「名付ける者」「原因者」の存在が暗に包含されています。
それは「うつしよ」という言葉の中に、目の前の現実の原因者を既に含有しているということであり、貴投稿にあります「すべてはうつしよの絵空事..」という、物質世界のみを切り離す見方が、本来ならば成立していない言葉と云えます。


10. 2012年5月21日 19:16:44 : WrZjZPLVBY
WXAUjMT8koさん
もっといろいろ教えてください。
次回はコメントではなく、スレッドをたててお願いします。

11. あやみ 2012年5月21日 20:23:35 : oZZpvrAh64sJM : eyoEvaWBhY
09さま
>「ウマ」はもともと「ムマ」と言っていました。「やまとことば」は漢字の誕生よりも古い歴史を背負っていることを忘れてはなりません。

とても興味深いお話です。
漢字(漢語)の起源(の一部)もやまとことばの一部もオノマトペであったと伺えます。大陸と列島をうまが行き来するあいだに「音」から生まれた言葉なのかも知れません。何の音かはわかりばせんが、なにやらやさしさのこもった音に聞こえます。

「つ」はおっしゃるとおり「付く」から精製された言葉です。た行の「とる-取る」「て-手」がそこから生まれます。

>物質世界のみを切り離す見方が、本来ならば成立していない言葉と云えます

物質会の現象に関しては、「見えるけど、ないもの」なので切り離しようも切り離す必要もないのです。うつしよの森羅万象に生かされていることへの深い感謝はまた別次元と感じます。

「う」は「うず高い」の、「うみ-海」の「う」でしょうか、これは知りませんでした。勉強になります。



12. あやみ 2012年5月21日 20:29:28 : oZZpvrAh64sJM : eyoEvaWBhY
安芸ガラスさま

コメントありがとうございます。
人にとっての「みる」という行為が録画や撮影とは違うということですね。
人それぞれの「霊」の皮膜を通して知覚するのですから。

世の中が複雑になるとこの皮膜がヘンなことになります。
一番の厄介者は「教育」だと思うのですが。


13. 2012年5月21日 23:06:03 : hw5wpfRozE
あやみ さま
安芸ガラスです。

>一番の厄介者は「教育」だと思うのですが。
教育の基本は個人の健康です。
これ以外にありません。

「健康」についての理想像は、各個人によって違います。
私は、少ない食べ物で、短い睡眠時間で、長時間にわたって体が動くことです。
そして、政治の責任は、その状態が維持できたり、促進できたりする条件を整備することです。

義務教育では「牛乳」を飲まされました。
これこそ「西洋化」の支配者の政治的行為を、国民に押し付けることです。
いまも、放射能入りの牛乳を子どもたちに強制しています。

健康から大きく逸脱している教育です。


14. 2012年5月22日 03:53:12 : Sng6qHK6ik
あやみ さま
安芸ガラスです。

>人にとっての「みる」という行為が録画や撮影とは違うということですね。
「現象」から「構造」へ迫られるのは、「みる」という行為ができるからです。


15. 2012年5月22日 06:29:09 : WXAUjMT8ko
10さん
>もっといろいろ教えてください。
>次回はコメントではなく、スレッドをたててお願いします。

すいません。人様に教えるほどの話ではないので、聞き流してもらえればと思います。
投稿記事のお話につられて、つい書き込んでしまいました。

11さん
>何の音かはわかりばせんが、なにやらやさしさのこもった音に聞こえます。

おそらく..お気づきであるとは思いますが、この「ム」は、「むすめ(娘)」や「むすこ(息子)」などに残るように、愛しい対象や親愛の情を表現した音のように思います。どこか温かさが感じられる響きがあるのも同じ日本人ならではのもの。
太古の日本人は馬に対してそのような愛おしみをこめて「ムマ」と呼んでいたのでしょう。この音は他にも「スメムツ」や「ムラ」などの音にも含まれてるようにも思います。
この「ム」の響きは仏教伝来によって随分と変化してしまった音でもあります。


>物質会の現象に関しては、「見えるけど、ないもの」なので切り離しようも切り離す必要もないのです。

たしかに。


ご投稿文の、
>日本人がいま日本で息苦しく暮らしているのはなぜか。それは日本の社会の現実と日本人の心の構造とがしっくりいかないからに違いない。もちろん無理を強いられているのは現実ではなく心の方だ。‥

ここから「やまとことば」を道しるべに日本人の心の構造を探求されるというご視点に興味を抱きました。

なぜ「やまとことば」に探求の糸口があるやと感じられるのか。
ここには、現代人が気付かぬ大きな不連続点といいますか、陥穽が潜んでいるのではないでしょうか。

奈良時代から少し前あたりに、日本に漢字・漢文が到来し普及しました。
この言語は、確かに物質を選別し管理するには長けていましたし、日本人はその恩恵に浴してきた事も事実ではありますが、いかんせん日本人の精神生活と云いますか、心の内面に対しては、どうも上手く調和できていないのではないかと思います。

日本人は往時から、外来の技術を取込むことに熱心な民族でもありますので、その不調和を漢字の「訓読み」という手法を発明してなんとか埋めてきたようにも思います。
しかし、長い漢字文化のあいだに、往時の人々が守らんとした響きも、次第次第に変化してしまい、本来コトバの響きがもつ、素直さ・直裁さが失われて、言葉と現実が乖離するという事態に立ち至ったのではないでしょうか。

日本人は、おそらく、世界中の人々にもまして、古来から継承された叡智といいますか、精神的伝統に支えられて日々生活を営んでいる民族のように思います。
そのような叡智に育まれ生きている民族の言語生活に、一旦、素直さ・直裁さが失われてしまうと、いままで支えられていた伝統と云いますか、叡智のかけらが、今度は我々を問いつめ、責め苛む無意識の圧力に転じたのではないかとも思います。


16. あやみ 2012年5月22日 19:49:10 : oZZpvrAh64sJM : FwwYxUtyiI
安芸ガラスさま

私の住む国は酪農が昔から盛んですが、牛や羊の乳を飲む習慣がありません。醗酵させてヨーグルトかチーズにします。この国ひとたちはかつてはみな強靭な体をしていました。しかし「子供たちの成長のために牛乳を!」と、テレビでうるさく宣伝しており、どこの会社かといえばダノンだったりネッスルだったりします。

私の母は戦後の学校給食を体験した世代です。とにかく空腹だったのでありがたく飲んだと言っていました。当時は脱脂粉乳で生鮮品ではありませんでしたが、一般の日本人と牛乳の出会いはこの辺りだと思います。(仏教伝来以前の古代には、「ソ」というチーズのような醗酵食品があったと何かで読んだことがあります)


17. あやみ 2012年5月22日 20:26:45 : oZZpvrAh64sJM : FwwYxUtyiI
15さま

漢字・漢文を使っていたのは朝廷の貴族や官吏、僧たちが主で、土や海とともに生きていた民たちはまだずっと後の時代までやまとことばを使っていたとおもいます。調べようがないのであくまで想像ですが武士の登場までは古代のことばで通していたのではとも思うのです。
平安のころの貴族社会は病んでいました。おっしゃるとおりに心の内面との調和がとれなくなったからではないでしょうか。今の日本の社会とも似通った点があると思います。

>叡智のかけらが、今度は我々を問いつめ、責め苛む無意識の圧力に転じたのではないか

なるほど、共感いたします。日本の、とくに若い世代の人々を見ると、この圧力にさえ不感症になる日がそのうちに来てしまうと思わざるを得ません。


18. 2012年5月23日 06:50:44 : ExIBuupvC6
あやみ さま
安芸ガラスです。

>当時は脱脂粉乳で生鮮品ではありませんでしたが、一般の日本人と牛乳の出会いはこの辺りだと思います。

日本で、一番最初に、牛乳を飲だのは、明治天皇です。
これは、政治的行為です。
児玉定子著『日本の食事様式―その伝統を見直す―』(中公新書)が詳しいです。


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