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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-88.htmlより転載2012/04/14
人から人に何らかの情報を伝える、またそのために情報を記録し保管するもの―手紙、新聞やテレビ、書籍やCD、インターネットなどの総称をメディア‐madiaというが、これはmediumの複数形である。
この語は「中央」を意味するラテン語mediusに起源を持つ。原義は「中間にある物」で、そこから「媒体」「手段」といった言葉が生まれている。
今日我々に情報を提供する「メディア」にはこの「媒体」が訳語として充てられている。
しかしこれには別の意味があった。
それは、神と人を媒介する「霊媒」の意味である。
神や霊魂の意思をこの世に生きる人々に伝達できる者は巫女やシャーマンに限られていた。そして彼らの口に上る神託が国を動かす、かつてそんな時代が存在した。
話はギリシア神話のころに遡る。
王位が欲しくば黒海の果ての国から黄金の羊の皮を持て―それがイアソンに父亡きあとに王位を継いだ叔父から課された難題だった。王の息子イアソンをも亡き者にするための計略であった。イアソンは勇者たちを募り黒海の東の果てのコルキス国へと向かう。
一行は行く先々で襲いくる敵を倒しながらようやくコルキスに辿り着き、王アイエテスに黄金の皮を所望する。しかしが容易に渡してもらえるはずもなくイアソンは炎を噴く雄牛を御して土地を耕せとまたしても無理難題を出される。
そんなイアソンに懸想したのが王女メディアであった。
アイエテスの娘メディアは魔術の使い手であった。彼女は自らとの結婚を条件にイアソンを助けると約束する。イアソンの体は炎や剣を以ってしても傷つかないよう魔法をかけられ、難関をくぐり抜けて黄金の羊の皮を奪いとることに成功した。そしてメディアと共に一行はコルキスを抜け出すのだが、そのときメディアは幼い弟を殺し切り刻んで海に撒き後を追う王たちが遺骸を拾い集めるあいだに逃げ切った。
コルキスとは現在のグルジア共和国のあたりに前十三世紀ごろから実在した王国であった。前六世紀にギリシアの植民地となり、後にはローマに組み入れられる。王アイエテスは神話に登場するが実際にいたかどうかは判っていない。メディアはこの地に住む人々の信仰した女神だったといわれている。
勇者の名声を得たイアソンは黄金の羊の皮を手に、メディアをつれて故郷に凱旋し民衆を沸かせた。そこで王位を譲るよう王である叔父に迫るが始めからその気などない王はイアソンを相手にしない。イアソンがメディアに助けを求めると、メディアは老婆に姿を変え王の娘たちに近づき、皺だらけの姿の自分を若返らせ、老いた羊の屍骸を大鍋で煮て仔羊に生まれ変わらせるなどして驚かせた。そして王を若返らせて進ぜようと言えば娘たちは喜んで老婆の言うとおりにした。果たして王は娘たちによって切り刻まれ大鍋で茹でられて死んでしまった。
しかしこのあまりに酷い仕打ちは民衆の怒りを買いイアソンは王位につくどころか国を追われることになる。メディアとともにコリントスの地へとむかった。
コリントス王は勇者イアソンを歓待し、娘との結婚を持ちかけた。残忍で激しすぎるメディアにすでに辟易していたイアソンはこの結婚を受け入れメディアを捨ててしまう。
王女メディアが仕掛けた術は今日のメディアの手法に生きている。
イアソンの体にかけた「傷つかない魔法」は権力者が敵の攻撃や世の中傷誹謗を跳ね除けるための理論武装、第三者である弟を殺し追っ手の注意を別の方向に向けさせたのは世論の撹乱と解釈できる。さらに「いつわり」を見せつけられ信じてしまった娘たちは父親を殺すという愚行に走るが、これは言うまでもなく虚構を視覚化して民衆の心理に訴えるテレビや映画と見ることができ、9.11報道やアル・ゴアの「不都合な真実」がその好例である。またメディアに敵対する者が醜聞や冤罪の餌食になるのを見せつけられ、汚れた政争や利権構造を知ることで我々はまともに生きるという気力をなくしつつある。
いちどメディアの助けを借り成功したものはその呪縛から逃れることはできない。裏切られたメディアの復讐は夫にではなくその周囲に向けられた。毒を染み込ませた花嫁衣裳を贈り、イアソンとの婚儀でそれを纏った王の娘は炎に包まれる。そして助けようとした王ともども焼け死んだ。さらにはイアソンとの間に儲けた我が子たちの命すら奪う。すべてイアソンを痛めつけ生きる気力さえも奪うためでった。イアソンは我を失い、彷徨い、かつて黒海を凌駕した自らの船の残骸の下敷きになり命を落とした。すべてはメディアの望んだ通りになった。
メディアの行動はすべてイアソンへの恋慕とそれから生じた憎悪からなるのもなのだが、もとよりメディアのこの恋は仕掛けられものだった。ゼウスの妻ヘラがアフロディーテに術を使わせ、そうして恋に狂ったのであった。しかるにこの悲劇の元凶はメディアを操った者たちであり、それによって人々は争いの中に堕ちた。メディアを恐ろしい女、または哀れな女と見ることは文学の中ではあり得るが、やはりただの「媒体」として捉えその裏側を見るべきではないだろうか。
どの国の言葉でもその一語一語の成り立ちには深い意味が潜んでいる。普段なにげなく使っている言葉も語源を辿れば意外な言葉に行き着くことはよくある。しかしそれは言葉が時間とともに古い時代の意味を脱ぎ捨てながら変化し続けることではない。言葉とは人が話すこと、書くこと、残すことによって息をする「いきもの」であり、その根本たる語源が力を失うことは永遠にないと言っていい。現代語や外来語であろうと、それを吐けば語の遺伝子が刺激され脈を打ちはじめる。
今この瞬間も世界中の人々が「メディア」と連呼する。何かに息が吹き込まれる。
メディア‐情報媒体の起源は活版印刷の登場とも羊皮紙やパピルスともいわれている。だが今メディアと呼ばれているものに誰が、いつ頃その名をあてがったかは判らない。それほど古い話ではないだろうが、敢えて「霊媒」の意を持つこの語を選び冠したからにはそれなりの悪意を感じないわけにはいかない。
古代世界の霊媒師や神官は神と人の間に立ち忠実に「媒体」としてのつとめを果していたのだろうか。森羅万象の霊を畏れ、施政者が即ち「巫‐かんなぎ」であった太古の日本や南米は別として多くの場合はその逆、腕力で施政者となった者が自らの思惑をあたかも「神々の声」として民衆に聞かせるために霊媒師という存在を利用してきた。また権力を横から狙う者たちもそうした。互いに矛盾する神々の声がひしめき合う世の中は乱れ腐敗した。
「媒体」という名には中性であり、中立であり、どちらにも偏向してないという性格、そして遠いところで起きている事をありのままに伝達するという役割を期待してしまい勝ちだがどうしたことか、この一年と一ヶ月だけを考えても日本国民が目の当たりにしたものはその正反対であった。安全神話を死守せんがために「安定」「影響はない」を繰り返し、真の知識がある者の声は消され、電力不足の不安を煽り、本当に起こっていることは知らされていない。
日本から「媒体」を通して世界を見れば「崇高なる民主主義」に牙を剝く「未開な有色人種」たちに対して「世界の警察たる大国」と「世界の司法たる国連」が「人道的な戦争」の準備に精を出している。ただしこのようなことを気にしない者たちには賭け事や投資、ポルノや美容などに興ずる権利がいくらでも保障されており、そのための媒体は尽きることがない。
現代のメディアは古代の権力者たちが自らの言葉を霊媒師の口から神々の意思と偽り語らせたのと同質のものである。違うのは「神々」のかわりに「人道」「人権」「経済」「正義」「技術」「自由」「平和」「発展」云々を崇拝の対象に据えている処である。メディアつまり媒体とは権力者側に属する道具であり、それがもたらす情報は特定の人間の利益のために曲げられたもの、あるいは根も葉もない虚言である。逆に言えば平和や自由を高らかに謳う連中の話は聞き流すに越したことはないということだ。
ソーシャルメディアが世界から賞賛を受けている。しかし、メディアの名を背負っている以上はいつ誰に刃を向けるか知れたものではない。この女に深入りは禁物だ。
王女メディアの最期はどこにも記されていない。
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