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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-78.htmlより転載
- 2012/03/19(Mon) -
唐突だがお許しあれ。
こともあろうに「歌舞伎の筋は荒唐無稽、とても追随できないので深く考えないように」などという歌舞伎解説が多い。そんなこたあない。古典に精通しているはずの識者の皆様がこんなことを言ったんじゃ、嫌でもそういうことになっちまう。
そこで今回あたらしく立ち上げましたる新連作、
歌舞伎がなんでこんなに面白いのか、知らざァ言ってきかせやしょう。
「勧進帳」
初回という事もあるので有名どころから引っ張ってみたい。
時は鎌倉前夜、壇ノ浦の合戦を以って源平の戦いも終わりを迎え、平家を滅ぼした源頼朝は武家の大棟梁たるべくその礎を固める中、どうしても厄介な者がいた。義弟、源義経であった。
鞍馬山での稚児時代、そして奥州平泉での食客時代を通して義経が夢見続けたのは「平家打倒」であった。いまだまみえぬ義兄、頼朝の挙兵を知り「いざ鎌倉」と奥州を駆け出した義経は戦功を重ね頼朝をよく助けた。
二人の想いは何処で行き違ったか、義経は兄の不興を買い追われる身となり自らの原点ともいえる奥州に落ち延びるべく、義経は弁慶そして四天王とよばれた郎党らとともに東をめざした。芝居はここからはじまる。
〽旅の衣はすずかけの 旅の衣はすずかけの 露けき袖やしおるらん
すずかけ(篠懸)の衣とは山伏が着物の上に着る露よけの衣のこと、一行は修験の者に身をやつし、月の都を立ち出でて濡れぬ衣を涙で濡らしつつ加賀安宅の関まで辿り着いた。帯刀した者たちが大勢で移動するとなれば怪しいのは当然で、姿を変えるとすれば山伏が妥当であった。一方頼朝も義経一行が変装し東国へ向かうであろうことは察しており、各地の関所にて山伏を硬く詮議するよう達していた。
歌舞伎「勧進帳」は能の「安宅」を模しており、ほぼ忠実にその筋が再現されている。安宅とは現在の石川県にある地名、そこに新たに設けられた関所には富樫左衛門が義経を討ち取らんと目を光らせていた。
弁慶は義経を強力(ごうりき‐荷物持ち)に仕立てた。
まさか主君が荷物持ちの姿をしていようとは気付かれまいと敵の目を欺くための算段であった。
「所詮みちのく(陸奥)までは思いもよらず」と覚悟を決めている義経は今さら強力などに姿を変えることがあろうかと弁慶に質す。郎党どもも刀に物を言わせて関を踏み破ると息巻くが弁慶は、とにもかくにもこの弁慶にお任せあれとこれを押し留める。
勧進帳では義経役を勤めるのは女形と相場が決まっている。舞台の義経には平家を滅ぼした猛者の姿はなく、まるで姫君のようである。とはいえ決して女々しい訳ではないがあまりにも儚い、義経の行く末を知る聴衆にとっては尚のことそう映るのである。能の「安宅」では子方(子役)が義経を舞うのだが、これは死地を求めて旅をする義経の魂がすでに浄められ菩薩と化し、遮那王と呼ばれた稚児のころの姿でそれを体現したのではないかと思う。それを必死で庇護するのが不動明王のような弁慶であった。
布施を募ることを勧進という。消失した東大寺を再建するための資金を諸国を巡り
集めるために遣わされた、と申し開きをする弁慶に、ではその勧進の証である勧進帳のなきことはよもやあるまじと迫る富樫左衛門。
弁慶 なんと、勧進帳を読めと仰せ候な
富樫 いかにも
弁慶 ムム、心得て候
弁慶の手にもとより勧進帳はあるはずもなく、白紙の巻物を天も響けとよみあげる。
富樫はさらに問い詰める。山伏の装束の由来は何ぞや、仏門にあって刀を佩くのは如何に、云々。もとは高野山の修行僧であったためそれに難なく答える弁慶であった。これは山伏問答と呼ばれる場面である。
「勧進帳」ひいては「安宅」は軍記物語の「義経記」に取材したものというのが常識であるがこれは明治以降の常識に過ぎない。義経と弁慶の都落ちは日本にもっと古くからのこる諸伝説が基になっている。
「御伽草紙」に収められた物語は民衆に語り継がれた太古の伝説をおおく含んでいる。その中にある「大江山の鬼退治」はこの「勧進帳」の要素のひとつと指摘したい(過去に指摘はあったであろうが書物となっているかどうかは調べられなかった)。
その昔、丹波の国の大江山のその奥に、京の都を脅かす鬼どもが棲んでいた。女を攫い人を喰い宝を奪うなどして人々を震え上がらせていたという。帝は鬼の棟梁・酒呑童子退治の勅命を源頼光に与えた。この摂津源氏の頼光は義経や頼朝の直系の祖にあたり、轟く武勇は帝のおぼえもめでたく都の警護には欠かせない人物であった。頼光は四天王とよばれる渡辺綱、坂田金時(金太郎)、碓井貞光、卜部季武らの郎党を従え、加えて貴族ではあるが剛の者であった藤原保昌と共に石清水八幡・住吉明神・熊野権現へと詣で鬼退治を祈願、そして鬼たちに怪しまれぬよう山伏にと姿を変え大江山へと向かった。もうここまでで勧進帳の原型となっていようことは明白だが、まだ続く。
一行は途中、三人の翁にであう。聞けば彼らはそれぞれ都のそば、津の国、紀の国から鬼に攫われた妻を捜して来た者という。頼光らが勅命をおびて鬼退治に参じたことを知っており、「神便鬼毒酒」なる、鬼にはしびれる毒となり、神の使いには薬となる酒を差し出した。この翁たちは石清水八幡・住吉明神・熊野権現の使いであった。
鬼の棲家に入り込んだ一行は酒呑童子の前に通され、自らを鬼神に呪文を与えることを修行の旨としていると偽った。一行を怪しむ鬼は頼光に激しい山伏問答を投げかける。尽く答うる頼光を本物の山伏と認めた酒呑童子は心を許して身の上を語る。
「我が名を酒呑童子と言うことは。明け暮れ酒に好きたる故なり。されば是を見かれを聞くにつけても。酒ほど面白き物はなく候。客僧たちも一つきこし召され候へ」(謡曲 大江山)
こうして客僧をもてなす酒宴の席となり、頼光は土産の神便鬼毒酒を皆に勧めた。
「我比叡山を重代の住家とし」ていたが、「大師坊(伝教大師)というえせ人」が見せた奇跡に仏たちも騙されて「出でよ出でよと責め給えば」仕方なく比叡を立ち退き、あちこちの山を渡り歩いた挙句都に近い大江山に参りしも、今は末法の世、大師坊の如き法力の持ち主は絶え、ときおり都に出向いては好き放題をし楽しんでいるところだが、頼光という強者が邪魔をするようになったとつづける酒呑童子であった。
しかしふと頼光を睨みつけ、ようよう見ればおぬし頼光に似てはおらぬか、と呻く。そこで頼光はその場を乗り切らんと――頼光とは神を畏れぬ極悪非道の者なればそれに似るとは承服しがたくも、この上は力及ばず、我らが命取らんとあらば好きにされよ――と居直った。非礼を詫びた酒呑童子、ますます酒を重ねては寝入ってしまった。鬼たちはそうして首を切られた。
「勧進帳」の山伏問答の後はこうである。一行は関を通ることを許され出立するが義経扮する強力がこの者は判官殿(義経のこと)に似ていると呼び留められた。もはやこれまでといきおい立つ郎党を押し留め、弁慶は最後の大芝居に出た。
弁慶「判官殿世と怪しめらるるは、おのれが業の拙きゆえなり、思えば憎し、憎し憎し、いでもの見せん。」
〽金剛杖をおっとって さんざんに打擲す
弁慶「御疑念晴らし、打ち殺して見せ申さん」
富樫「早まり給うな、番卒どものよしなき僻目より、判官殿にもなき人を、かく折檻もし給うなれ、今は疑い晴れ候、とくとくいざない通られよ。」
不動明王の「鬼」の側面を見せる弁慶であった。家来が主君を打つなどはもってのほか、しかし何としてでもこの場を切り抜け奥州へと落ち延びなければならぬと心を鬼にして禁を破った。弁慶の機転と忠義心に胸を打たれた富樫は通行を許す。富樫はとおに義経らであることを見抜いていたのだ。武士の情けなれども義経を見逃すことは鎌倉に対する謀反、即ち死罪に値することは承知千万。
富樫は門の内に去る。不忠を泣いて詫びる鬼の弁慶、手をとって許す菩薩の義経。
そこへ暫し暫しと酒を持って現れる富樫、先ほどの面目を雪ぐため一献差し上げたいと酒を勧める。ありがたやと葛桶の蓋に酒を注がせ一気に飲み干した弁慶は請われて舞をさす。
ここに酒盛の場面があることは大江山鬼退治の騙し討ちという原点を見事に構築しなおしている。酒で尻尾を出させる謀りごとかとちらり疑う弁慶、ともかく請われるままに舞をさし、関守たちが見惚れる隙に義経以下郎党どもを出立させる。
〽とくとく立てや手束弓の、心許すな関守の人々、暇申してさらばとて 笈をおっとり肩にうちかけ
「鬼」と呼ばれた酒呑童子は太古、民衆の信仰の対象であった。が、仏教が朝廷により広められるにつれ居場所を失っていった。童子が伝教大師を「えせびと」と呼び、仏たちがそれに騙されたと語っているところが鬼の心情を表している。童子の生い立ちを語る説のなかで注目すべきは伊吹山の鍛冶師の息子として生まれたというものである。父の伊吹弥三郎と呼ばれた者は八岐大蛇を祀る一族の子孫、かのスサノオに退治されたオロチ族の一派が出雲を逃れて伊吹山に棲むようになったという。そして伊吹山も大江山もかつては鉄を産出した山である。
鬼たちの根城は「鬼の岩屋」とも「鉄の御所」とも伝えられている。これを鉄鉱山と解することで古代の製鉄集団が鬼と呼ばれて恐れられ、朝廷に背き、いずれは征服されたという、史書にはさやかに書かれていない歴史に触れることが出来る。朝廷に背くことが必ずしも「悪」であったという解釈は愚かしい。
八岐大蛇も八塩折之酒‐ヤシオオリノサケという強い酒で酔ったところを成敗されている。子孫の酒呑童子もまったく同じ手を喰らうのだが、この卑怯な騙し討ちは日本の支配者たちが「特定の敵」に対してたびたび行ってきた。
義経らが目指した「みちのく」とは「道の奥」、律令国家となってもなお天皇の威光が届かぬ東北が道なき未開の地と思われていた頃の名である。都からは遠く離れ雪深い、縄文の血の色濃いみちのくの人々は平安時代を迎えてもなお征し難く反乱が絶えなかった。陰陽道に照らし合わせれば東北は丑寅の方角、即ち都からは鬼門にあたり、鬼やもののけの棲む「穢れ」の地と括られた。人が人を支配しようとしたときに必ず生まれる都合とでも言うのか、特定の敵とは「穢れ」と想定された者たちを指す。
このみちのくに生きた人々を「えみし‐蝦夷、毛人」と呼んだ。朝廷との争いの中で少しずつ帰服がすすみ大和化した蝦夷たち(俘囚)こそ、武士の祖である。学校日本史は武士の起源を荘園警護の土豪としか教えない。
武家のことを「弓馬の家」という。馬を駆り弓を使いこなす技はこの弓馬の家に生まれ育つことで得られる。遠い先祖の昔から馬と弓と供に暮らしてきた彼らを朝廷が追い落とせなかった道理はここにある。蝦夷を祖とする優れた武芸者たちは次第に都の戦闘貴族たちの郎党に組み入れられ平氏や源氏という巨大な武士集団が形作られた。彼らに求められたのはむき出しの武力ではない。卓越した武芸に裏打ちされた死をも恐れぬ強き魂があってこそ手にできる「辟邪の武」である。人の手に負えない疫病や天災の元凶となる悪霊を退治するにはこの辟邪の武をおいてほかはなかった。これが源頼光が鬼退治の大役を仰せつかる所以であるが、武士も鬼も互いに朝廷から恐れられ疎まれたものの中から生まれたことは皮肉であり、皮肉こそが人の世の常である。
義経を育てた奥州藤原氏も源氏に忠誠を誓うみちのくの武家の一つであった。源氏の子として生まれ生粋の武人たちの下で弓馬を修めた義経は「辟邪の武」の継承者としてふさわしく、それは合戦で華々しく証明された。しかし人々か義経に酔いしれるのとは逆に頼朝は苛立っていた。腹黒い貴族と血の気の多い武士たちの間を取り繋ぎ新たな政権を立ち上げる政治の「建て前」が、義経から匂い立つ武士の「本音」とまるで噛み合わなかったのだ。結末は悲劇、義経追討という鬼退治になった。
酒呑童子が酔い潰されて首を切られるその断末魔、「鬼に横道はなきものを」と恨みをこめて言い放つ。まつろわぬが故に征される者の声であろう、征することこそ横道なるや。義経はこうして鬼の胎内へと戻るがその二年後、頼朝にもはや逆らえない奥州武士たちに攻められ自害、さらに頼朝が奥州を平定し、夢の跡には夏草が生い茂る。
弁慶は酒呑童子であり、不動明王でもあり、頼光でも渡辺綱でもある。
富樫は鉄の御所で頼光を待ち受ける鬼の棟梁であり、鬼退治の役目を負う頼光でもある。
義経は穢れとして追われる身であり、聖として守られる身であった。
このような交錯を受け入れられるのは近代以前の日本人の豊かさであった。
神と仏と鬼が入れ替わる。聖と俗が立ち変わる。日本の足跡そのものである。
明治以降、演劇に対する批評の目はシェイクスピアという色眼鏡をかけられてしまい、よりよい芝居には起承転結と善悪が整然と表現されることが求められ、町人の子供でも飲み込めた歌舞伎の筋書きは「荒唐無稽」と罵られるようになった。庶民から三度の飯より好きな歌舞伎を取り上げて高嶺の花の伝統芸能と奉ったのはGHQであった。そして見向かれなくなった。歴史書にない日本史の語り部であった歌舞伎はこうして封印されたも同然、いまさら「識者」などにそれは解せない。
歌舞伎を見れば先祖たちの息づかいは我々に、技に裏打ちされた役者たちから必ずや伝わるだろう。それを感じたならば知識などはあとから幾らでもついてくる。
舞台で見送る富樫、花道に立つ弁慶、互いに想いを共にする同士、見交わし、幕。
富樫に心を残し、弁慶は飛び六法にて花道を入る。
〽虎の尾を踏み 毒蛇の口をのがれたる心地して 陸奥の国へぞ くだりける
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