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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-76.htmlより転載
- 2012/03/06(Tue) -
日本の教育がどういうことになっているか、今となっては想像するほかないのだが。
トルコ人の主人と所帯を持って以来、そして子供を授かってからもトルコに住んで子供たちをトルコの学校に通わせることに何の疑問も抱かなかった。日本の学校教育に対する失望のあらわれだったとでも言おうか、今でこそ失望の所在を言葉にできるが若かった頃の自分にその術はなく、気がつけば三人の息子たちがここで学んでいた。
筆者の長男は高校一年生、家から少し離れたカイセリという地方都市で寮生活をしている。矢継ぎ早に試験があり、いつも夜遅くまで勉強しているという。
日本のそれに比べてトルコの教育がそんなに素晴らしいか、決してそのようなことはない。「受験」という名のもので振り回し子供時代をむだに忙しくする以外、意味はない。
より良い職に就いてより良い暮らしを手に入れる、そのためには良い教育を受けなければならない、そこまでなら間違いではなかろう。が、そのために競争を強いられ勝者と敗者が生まれるのではすでに間違いだ。なぜなら勝敗を決める側の人間に都合のよい世の中をつくることが出来るからだ。
子供のころの筆者は何度か引越しをしたためにそのつど学校がかわった。すると自分を取り巻く環境もかわり、成績や評価が変わることに気付く。前の学校でドンジリでも今度の学校では優等生、自分は同じなのにである。おかげで周りのだれかと競争をして成績という評価を得ることの無意味さを早くから知ることができた。人とではなく、自分と競えばそれでよいではないか。
トルコでは学校に必ず「トルコ建国の父ケマル・アタテュルク」の銅像を、教室には肖像を置くことが義務とされている。このアタテュルクはトルコの近代教育の父でもある。
第一次大戦に敗れたオスマン帝国は西欧列強により割譲され支配を受けた。彗星の如くあらわれたアタテュルクが軍を率いて列強を押さえ、独立を勝ち取りトルコ共和国を建国したのが1923年、その後アタテュルクは西欧諸国と肩を並べるために様々な改革に着手した。それまでのアラビア文字を廃しローマ文字が導入され、都市にも農村にも学校かつくられた。小学校で自ら読み書きを教えるアタテュルクの写真は子供たちの教科書に今も必ず載っている。
つい最近までこの国の子供たちは学校で何を習っていたか、アタテュルクの生涯、独立戦争、トルコ共和国の歩み、などである。西暦、メートル法、人権、民主主義、「新しく、すばらしいもの」はすべてアタテュルクを通してもたらされたという。アタテュルク以前は原始時代と同じ扱いかそれ以下で、帝政が布かれていたころは世襲制による恐怖政治が行われ文盲であることを強いられた民衆は餓えと恐怖の中で生きていたと、それを救ったのが近代思想と民主主義であったと、それは皇帝を追い出したアタテュルクによって国民に与えられたと教わっていた。
「アタテュルク」を日本語に訳すと「明治維新」になりはしないか。
新生トルコにとって近代化を阻むものは「信仰」であった。なぜなら、オスマン帝国の大義名分はイスラームの庇護にあった。政治も法律も教育も経済もすべてイスラームによるものであり、イスラームのためのものであった。民衆のイスラムの神に対する信仰心を破壊しないかぎりは「アタテュルク」を神格化できなかったからである。
近代国家である以上は信仰の自由を認めなければならない。禁教のかわりに行われた様々なイスラム蔑視は教育の場にも持ち込まれた。
「アタテュルクと預言者ムハマンドが川で溺れていたらどちらを助けるかい?」
教育省から学校に派遣される監視員が小学生にこう訊くと、子供たちは「アタテュルク」と答えねばならなかった。さもなくば担任教師と校長が処罰され、それから逃れるには子供たちにそう教えるしかなかった。保身のためのアタテュルク至上主義教育がいつしか常識と化すにはさほど時がかからなかった。
半世紀ほどのずれがあるものの、明治維新とトルコ建国の背景、そしてその後の道はあまりにも似ている。日本には一神教の国にあるような明確な「神」はいない。しかし我々にとってのその存在は先祖であったり、山や海、大岩の内に見出すことのできる自然の秩序であるといえる。その仲立ちをしてきたのが祭司そして神社であった。明治新政府が国家神道の名のもとに推し進めた神社合祀はトルコにおいてのイスラム阻害と同じ目的を持つ。心のよりどころであった神々は「整理統合」され、このさき何を信じるべきかは尋常小学校でしっかりと教えられた。
日本人と、先祖から受け継いだものとの間に亀裂が走った。その後は音をたてて崩れていった。
「文明」という服を着た近代思想は格好がよく洒落ていたのですぐに歓迎された。だから近代思想とは一皮?けば暴力と軍事力にものを言わせて好き勝手をする「戦争屋たちの理屈」にすぎないことに気付くものはいなかった。いたのであろうが、いないことにされた。文明開化の演出をしたのは福澤諭吉とその仲間たちであった。
現代トルコ語の中に存在するアラビア語・ペルシャ語の語彙は英仏の外来語にとって替わられれ、今では外来語なくしては会話が成り立たないほどになった。そのため人々は生活の規範であるクルアーンを読めなくなり、読めたとしても意味が汲めなくなってしまった。若くとも敬虔な信者たちは社会から抹殺された。実際には投獄や拷問による獄死も横行していた。教義にのっとり髪をスカーフで隠した女性は職に就けず、大学には入試すら拒まれた。高校は普通科の他に職業(商業・工業・宗教)高校があり、職業高校を出た学生は大学受験が不利になるよう入試の際の得点を割り引かれた。
近代思想の崇高さは叩き込まれたものの、近代思想とは何なのかは誰も理解していなかった。
ここまで露骨にイデオロギー教育がなされていれば多くの者がおかしいと思うはず、トルコにとって結局はそれが救いとなった。9.11テロが契機となり西欧主導の近代思想の馬脚が見え始めると、それまで口を閉ざし、目を閉ざし、息を殺していた者たちがようやく立ち上がった。
独立後90年間この国の舵取りをしていた旧政権は倒され新政権は膨大な矛盾の解消に着手し、もちろんその筆頭には教育があった。国を貶める歪んだ歴史教育を廃し、近代史の年表とアタテュルクを讃える詩を暗記させるのみの指導法は通用しなくなった。
ここまで順調に進んだことは評価するべきである。が、その先は簡単ではない。むしろ教育があさっての方向に歩き出すおそれがある。
なにしろ近代史の年表とアタテュルクを讃える詩を暗記させるのみで事が足りていたのである。
生徒の前で威張り散らすだけでも給料と年金を保証されていた教育者たちは政権が変わったぐらいでは変質しないのだ。例えば中学校の社会の教師はアタテュルク史以外は知らなくて当たり前、試験で問われるお決まりの項目を繰り返していればよかった。それが急に古代帝国の興亡からオスマン帝国の足跡、地理史まですべて網羅せねばならなくなり、生徒たちの成績という形で逆に自らたちが評価されるようになってしまった。他の教科も状況は同じ、大混乱である。
教師たちが不名誉を免れるためにやることといえば、生徒の尻を叩き、競争させて点数を取らせる程度、子供は被害者のままだった。「競争原理」が加わったことでさらに悪くなった。
高校はもはや大学受験の予備校としか捉えられていない。では大学は何の予備校なのだろう、トルコにはこんな諺がある――利口な子には仕事をさせろ、馬鹿な子は学校にいかせろ――。
敗戦し、西欧列強によってたかってむしりとられている最中のトルコに突然現れたたった一人の軍人が本当に国を独立に導くことができるのだろうか。戦費をどこでどうやって調達したか、愛国心だけで勝てるのか、そんな事を考えさせないためには考える力を削ぐのが一番早い。そのために教育が、学校がある。
ともあれ一足先に誕生していたソビエトと、中近東とヨーロッパの間に位置するこの国の、かつての西欧寄りの政治を見れば盾として使われてきたことは明白である。
ソビエトの誕生も日露戦争が大きく関わっていた。本当は資金などなかった日本に戦費を融通してまで開戦させたのはアメリカのユダヤ人だった。二つの大戦に参戦したのも戦後の復興も外から仕組まれててのことだった。学校はそれを知らしめぬためにある。
いま、ともに教育を含む改革を叫ぶ両国で、このさき競争原理から踵を返し人の世をつくるための政治に立ち戻る可能性のあるのはトルコであって日本でではない。改革の骨組みが違いすぎるのである。近代思想が踏み砕いたものをイスラム回帰によって繋ぎ合わせているトルコに対し、目先の不満にとらわれて指導者を乗り換えつづける日本が同じ失敗を繰り返してしまうのは当然である。先祖たちが築いた共同体の根底にあったもの、自分たちに流れる血の中にあるものを見据えてゆかない限り不毛である。そうでなければ一つの国が国として成り立つはずもなく、政治屋たちの醜い争いの泥をかぶるだけで終わるだろう。国旗や国歌を道具にして改革を謳う輩には特に気をつけなければいけない。なぜなら、「象徴」が眩しければ眩しいほど中身が見えなくなるからである。
改革が行われるのを待つ間にも我が子たちはどんどん育ってしまうのだ。そしてその改革が良いほうに進むとは限らない。だからこそ親たちが正気を失ってはならない。
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