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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-70.htmlより転載
- 2012/01/12(Thu) -
あれほどあぶねえ原発なぞに
惚れてかけおち無理心中
とかくこの世は間違いだらけ
馬鹿の考え殺すに似たり
原発の否定は現代生活の否定、そんなに嫌なら勝手に江戸時代にでも行きやがれ、という一部の世論に過剰に反応した筆者はこれまで江戸時代の明け暮れと現代生活を比べようとの試行錯誤からこの連作を書いている。しかし「衣」 「食」 「住」のみでは現代生活のつまらなさも江戸の面白みも云い尽くせまい。よって時おりこうして付け加えてみたい。
「宵越しの金はもたねぇ」これが江戸経済の基本である。
その日に稼いだ日銭が夜にはすっからかん。つまりちっとも金が貯まらないのである。月〆で働く奉公人とて同じことで家賃やツケを払うとその日のうちに給金は消えてなくなる。
とはいえ、いくらなんでも実際は飲んで打って買っておしまいのその日暮しという訳にはいかない。衣食住はもとより商売道具の購入や手入れにも金がかかる。江戸の人口の半分を占めたであろう出稼ぎの者は国許への仕送り、帰省の路銀も必要だった。つまり暮らしを成り立たせるための出費はもちろんあった。
当時の貨幣は我々が使用する「紙幣」ではなく、金・銀・銅という貴金属を材料にした「おかね」である。カネという日本語はもともと金属を意味する。
その昔、日本は金・銀・銅が多く産出された。佐渡金山、石見銀山などの名は興味のない方々でもご存知であろう。カネのなる木とまでは言えなくとも国家の財源が穴を掘ると出てくる、こんなに有難いはなしがあるだろうか。
生産された貴金属はそれぞれ金座、銀座に運ばれ奉行の監督の下で貨幣として鋳造された。
金との間柄は士、農、工、商、それぞれちがったが、商を除けば基本的にあまり金とは縁がなかった。
唯一カネの臭いのする「商」人はどうであったか。
自らが生産して販売するよりも生産品を取引して儲けを出すことに重きをおいた職業、いわゆる「流通業」である。小間物の行商から廻船問屋まで数えればきりがないが、今日の儲けが明日の元手になるというのが基本、商いが大きくなればなるほど儲けも元手も大きくなる。
「蜜柑舟」、ある江戸商人の一代記である。
時は霜月、所は御江戸、火を扱う職人たちが鍛冶の神様をお祭りする鞴祀り(ふいごまつり)が迫る中、お供物に欠かせない蜜柑がどこにもないときた。海がしけて遠州灘が荒れ狂い、上方から船が出せないという。
火を扱う職人たちはことのほか火事を恐れていた。火事を起こせば死罪を免れなかった。向う一年の破魔除災と商売繁盛を願うこの祀り、鞴を清め、注連縄をはり、酒と蜜柑をお供えしてはそれを来客や近所衆にふるまうもの、屋根から撒かれる蜜柑を子供たちは競って拾った。蜜柑は風邪を退治する薬でもあったので鞴祀りの蜜柑ともなれば霊験はさぞあらたかであったことだろう。
天下一の工業都市であった江戸なればこそ鍛冶屋、鋳物師、刀鍛冶はもとより鋳掛屋も金物屋の数はべらぼうで、蜜柑がないのにはみな大弱り。
「てえへんだ、ことしゃ商売上がったりにちげえねい」
「てやんでえ、てめえの商売なんざ儲かったってたかが知れてらあ」
「それより火事がしんぺえよ」
文左衛門は紀州の生まれ、その年紀州は蜜柑の大豊作に見舞われ、上方では安値が底を割り買い手がつかず哀れ蜜柑は荷の中で腐るのを待つことになったという。
すわ何を思ったか舅に大金を無心しておんぼろ舟を買い叩き、なんとか漕ぎだせる程に修理した。大安売りの蜜柑をつんだその名も「幽霊丸」、意気揚々と江戸を目指して帆を揚げた。
只さへ難所と 聞こゑたる 遠州灘を 乗切って
品川沖に 現れしは 名にし紀の国 蜜柑船 幽霊丸とぞ 知られける
沖のナァ 暗いのに 白帆が 白帆が見ゆる あれは 紀の國蜜柑船ぢゃえ
これぞ紀伊国屋文左衛門、紀文大尽と長唄にまで唄われた男である。大しけの海を命をかけて蜜柑を積んでやって来た。江戸っ子たちが狂喜して迎える姿が目に浮かぶ。神田の青物市場に卸した蜜柑八萬五千籠は飛ぶようにうれた。握った金は五千両、それを元手にいざ吉原へと参りける。
江戸の大商人が儲けた金は蔵で眠りはしなかった。次の商売に使い、屋敷を造り、職人や絵師や役者を育て、遊郭で豪遊した。身代が傾くほどの金を遊女の身請けにつぎ込んだりした。
紀文は吉原で黄金を蜜柑の如くばら撒いた。それを拾うは苦界の炎に焼かれる遊女たち、これにゃあ鍛冶の神様もたいそうお喜びなすった。
「くーっ あやかりてえ!男の中の男ってもんだ」
「お前さんも紀文の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだい!」
さて、その頃の大阪、大和川と淀川が大阪城の北でぶつかるために堆積した土砂が水の道を妨げ度々水害に悩まされていた。ある年はそれが災いして疫病にも苦しめられたという。そこで紀文が蜜柑で儲けた金をつぎ込んだのは何か。
「疫病には塩鮭でござい」
江戸中の塩鮭を買い占めて上方へ戻った。大阪の人々は我先にと塩鮭を買いまたしても大儲け。今流なものの見方をすれば詐欺まがいのこの商売、現代医学の減塩神話という屁理屈を信じるならば別であるが塩には菌を殺し免疫を高める力がある。塩が穢れを祓うことは当時の人々には常識であった。なによりも病に憑かれて意気消沈した大阪が、命知らずで気前がよくて、江戸中の人気を博した紀文が引っ下げてきた塩鮭を喜ばない筈がなかった。
お上とて、金を吐き出させる技に長けていた。諸藩に課した参勤後代の義務は二年毎に藩主が国表と江戸を行き来し莫大な費用を落とした。幕府に対し謀反を企てるだけの財力を蓄えさせないためである。さらに街道や水路の整備の必要があると諸藩は「自発的に」普請を行わなければならなかった。
また藩も幕府も城下の豪商たちにに公共工事などの負担を命じた。それを「御用」と言ったが隙のない商人たちは袖の下を使ってでも「御用商人」の地位を築きさらなる商売の拡大に努めた。
そして紀文は塩鮭の儲けを元手に材木問屋を始める。明暦の大火の折に木曽の原木を買占め富を得ると今度は幕府の要人に賄(まいない)をつつみ寺院の造営に参画、押しも押されぬ幕府御用の商人となった。
燃えてなくなりゃ誰かが造る、造りゃ誰かがまた燃やす、金は天下の回り物。
諸行は無常、いくら稼いで貯めたところで炎がすべてを焼き尽くす。木と紙でできた家並みは一度火がつけば消しようがなかった。江戸時代に限らず昔の日本人の金に頓着しない気質はここから来る。どうせ灰になるならば粋に使ってしまうに越したことはなかったのだ。
火事で儲けた紀文を襲ったのもまた火事であった。深川一帯が火事に見舞われ紀伊国屋の木場も消失、財産の大半を失う。
鍛冶の神様が気まぐれをなすったか、金山、銀山、どうも覇気がない。採掘量が年ごとに減っていき、江戸の貨幣が足りなくなった。
小判や銀貨が腐るわけでなし何故に通貨が足りなくなったのだろうか、実は大量に海外に流失していた。金銀は地金として輸出されたり清国に生糸の対価として渡っていた。日本の豊富な貴金属の存在は「東方見聞録」などによって世界の知るところとなり西欧は伝道師を通じて接近を図ったが、日本側は経済問題をも見越しバテレン追放令そして鎖国令を出すに至った。しかしそれでは追いつかず、長崎から絶えず取るに足らない御禁制品が流入、金銀が流出しつづけていた。江戸幕府が窮乏していった原因の一つがこれである。それに追い討ちを掛けたのが飢饉と火事だった。
幕府は足りなくなった通貨を「水増し」するため貨幣の改鋳を繰り返した。結局これは何の解決にもならず物価高騰を招くのみであった。
将軍綱吉の治世、金銀の減産に対し銅は増産する傾向にあったのを受けて銅銭の流通量を増やす建議を固めた幕府は従来の一文銭、四文銭(寛永通宝)に加えて十文銭の鋳造に踏み切った。これに起死回生を懸けた男がこれまた紀文、十文銭・永宝通宝鋳造の御用を請け負い残りの財産すべてをこれに注ぎ込んだのであった。
しかしこの十文銭、使い勝手がすこぶる悪かった。額面では一文銭の十倍であっても純銅の目方はたったの二倍半、秤量通貨の原則から大きく外れ金貨銀貨との換算時に混乱を招いた。なんとなく大きいのも「じゃまくせえ」と揶揄された。
あまりの評判の悪さに綱吉の死を以って発行後わずか一年で通用停止となった。
紀伊国屋文左衛門その後は失意のまま没落したとも、八幡神社に大金を奉納したとも、凡庸な二代目がその身代を食いつぶしたとも、あるいははなから架空の人物だったとも云われている。
人は一代 名は末代
作るも消すも 世の中に
天晴男と 唄はれて
実在していようとしていまいと、ここで肝心なのは紀文の一代記が江戸経済の見事な縮図であるということ、そして作った巨万の富は一代で消えても人には末代まで好かれ続けていることだ。金が世の中の本道ではないということの証かもしれない。いや、少なくともこの頃はそうであったと言っていい。
江戸幕府が改鋳した貨幣、金銀銅の比を下げて質を落としたものを「悪銭」というならば今我々が追い掛け回す紙幣などはただの紙、いくらでも刷って増やせるいわば「極悪銭」である。
開国後に明治政府がおこなった神社合祀政策により、鞴祭りの祭神は稲荷神と改変されたがもとよりこれは鉱山・鍛冶の神であるとされるカナヤマヒコ(金山比古)とカナヤマヒメ(金山比売)である。我が国に豊富なカネをもたらし、外の国からそれを睨まれると今度は隠してしまわれた。それに気付かず悪銭を流通させた幕府は痛い目を見たのではないだろうか、などと考えると興味深い。まだ貧乏だった文左衛門に船を買う金を融通した舅は神官であったという。神様も、鞴祭りのための蜜柑を命がけで運ぶ紀文を守りはしたが、後に神社ではなく寺の造営に関わった途端に厳しくなり、額面に見合わない銅銭の鋳造に手を伸ばすにいたってはとうとう愛想をつかしたか、とも思える。
朝な夕な神棚の変わりに電波映像を垂れ流す箱を拝む現代、あれほどの事故を起こした原発が誰一人罰を受けていない。その危なっかしいものをよその国に売りつけようとしているのを不思議とも思わない。「日本の医療は世界一」「地球温暖化」「原発は安心」なる「神話」を信じ込み、電気をありがたがり、浪費と消費を履き違えた不毛な経済に引きずりまわされる我々。その護符たる紙幣をみれば、福澤諭吉なる西洋かぶれがべたりと張り付いている。
「へっ それじゃあ神様にそっぽ向かれるってもんよ」
次号「技の巻」につづく
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