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つれづればな
http://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-68.htmlより転載
- 2011/12/26(Mon) -
年の瀬と呼ばれるものが近づく。
あたらしい年がやってくるという。
いつ、どうやって来るというのだろう。
我々の棲家である、普段「地球」という名で呼んでいるものが息をする「息もの」であるとすれば、その営みが何によって保たれているのかを考えることで解る。
日が昇りまた沈むのが一日、ただしその日の高さは一年を通して変わり続ける。日が、最も高く昇り、長く照るのが夏至、その逆が冬至で、夏至と冬至のちょうど間にあるのが春分と秋分である。春分を中心においた三ヶ月を春といい、真ん中に夏至、秋分、冬至がある三ヶ月をそれぞれ夏、秋、冬となす。
豊かな実りをもたらし疲れて息が枯れる秋
疲れた木々や土を雪と雨が癒し、秋に落ちた葉が腐り土に還る。息をひそめ、静かな眠りの中で力を養う冬から、春の息づかいに変わる時がある。
それが立春――冬至と春分の間にある日である。日の光の差し込む角度が我が国に対し大きくなり光量が増える。東の空が白んで新しい一日のはじまりを感じるが如く、草も、木も、鳥も人も、春が来たことを、つまり新しい年が来たことを知る。
六世紀中頃、欽明天皇の頃に百済から暦が伝わったというのが記録としてはいちばん古いようだが、その遥か昔から水稲耕作をおこなう我が国に暦らしきものがなかったわけがない。稲を携えて大陸からやって来た人々が暦の基礎知識をもたらしたのであろう、そして先祖たちは日本の地での日の動きを読み(日読み‐カヨミ)、経験的な「暦‐コヨミ」に発展させた。そのコヨミを司る者が神託を授かり詔りを出すという形で民を治め、やがては大王となった。
大陸から来た人々を渡来人といい、よそ者、時には侵略者として敵視する傾向が強く朝廷の祖すなわち大陸人すなわち侵略者という議論をよく耳にするが、筆者が思うにそれは極めて狭量で危険なはなしである。日本と大陸は地続き同然であった。最後の寒冷期の終わりを受けて海面が現在の高さに持ち上がり大陸から分かれた後も気持ちの上ではその後も長い間繋がっていたことだろう。この間に日本に集まったすべての人類は我々の祖‐オヤと考えて然るを、渡来人だの流民だの侵入者だのというのは笑止千万である。国家としての体裁が整ったあとの日本に害を為す目的で人々がやってきたのはもっと先のことである。
はなしが逸れてしまった。
コメ作りとともに大陸からもたらされ、日本流に発達したコヨミは初歩的な太陽暦であった。さらにその後になって伝わったのが月齢をもとにして細かい日付などを記することができる太陰暦であった。
朔(新月)から朔までの29~30日間を一月と考えると、一年の365日を満たすためには十日あまり足りないことになる。それでは農事にえらく支障が出てしまうので、閏月を三年に一度折り込みその年は十三ヶ月あるもとして調整を図った。
ちなみにその調整を行わず、暦が毎年11日ずつ前倒しになるのがイスラームの太陰暦である。一神教であるイスラム教は古くからの太陽神信仰を無力化するためにも太陽暦の使用を人々から遠ざけた。
月は人間にとって太陽とともに最も身近な天体である。闇夜を照らすのみならず、潮の満ち引きが起こるのも月の引力によるのである。大海原が月に曳かれて動くのだ、いわんや人をよや、我々はそれに気付かずにいるにすぎない。地磁気や引力のことなど知る由もない古代人たちには何故か、月と日が操る糸が見えていたのだ。
一日は朔、三日には三日月、十五日目は望(十五夜)そして晦日に向かいまた朔となる。新しい月が生まれて満ち(望ち)てゆき、またつき(尽き、月)て行くさまに自然の輪廻を見出したのであろう、同じことは一日の明け暮れにも、一年の季節の移り変わりにも、人の一生にも国の興亡にもなぞえることができる。
農事にとっても、日本の国にとっても、立春の頃が年明けであった。その立春にいちばん近い新月から始まる月を歳の初めの月とした。自明、新年は新月からはじまった。これが我が国の旧暦の正月である。いま旧暦と呼んでいるものは飛鳥時代から明治までのあいだに細かい修正を加えながら使い続けた太陽と月の暦、太陰太陽暦である。
江戸時代が幕を閉じいざ開国をしてみたものの、外つ国の暦は我々のものとは違っていた。西欧に追いつけ追い越せと変えられるものはとにかく変えて、変えようのないものまでも無理強いしてまで西欧の追随に明け暮れたこの時代、従来の天保暦から現代のグレコリオ暦(西暦)に乗り換えることなどいともたやすいことであった。明治五年十一月、「改暦」は突然布告され、同年十二月三日を以って明治六年一月一日とされた。
グレコリオ暦とは何ぞや、その原型はローマ時代、カエサルやアウグストゥスのころに制定されたユリウス暦(太陽暦)である。もともと一年のうち農閑期の冬は暦どころか日付けも存在しなかったという。しかし夏の最中にユリウス月(julius-7月)とアウグストゥス月(augustus-8月)を無理やり捻じ込んだために本来は農事の始まる早春にあった新年が真冬にずれたというまことに由緒正しい暦である。
暦が季節からひと月もずれてしまった。改暦は何をもたらしたか。
農事の仕事始めに際しその歳の豊穣を祈る儀式である「正月」が、まだ土も草も眠りの中にある変な時期に行われるようになった。
人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節句はそれぞれ季節の節目に身の穢れを薬草にて祓い清める重要な行事であった。が、これらの行事はそのまま西暦に移し変えられ正月同様ひと月もはやく行われるようになった。人日とは七草、上巳とはひな祭りを指す。端午については以前の記事でも記したが、何れも土、草木から力を得るための神事であった。今の一月に春の七草があるかどうか、五月に菖蒲の葉が、七月に星降る夜が、九月に菊の花が咲くかどうか少し考えれば解ることだ。
こうして日本人は土から、先祖から遠ざかってゆく。
明治の改暦を断行したのは当然ながら明治新政府であるが、その援護射撃をした、あるいは首謀者であったのが福澤諭吉であった。布告後まもなく「改暦弁」を著し国際化のための改暦の必要性、グレコリオ暦の解説とそれがいかに優れているかなどを説いた。さらに旧暦を罵倒、こき下ろしている。
「この後は、所謂 晦日に月をみることあるべし。数を知らざる無学の人には一時目を驚かすの不便あらん。ああ、文盲人の不便は気の毒ながら、顧みるに暇いらず、其、便、不便は暫くさしおき、兎に角に日輪は本なり、月は付きものなり。付きものを当てにせずして本に由りて暦を立つるは事柄において、正しき道をいふべし。(中略)故に、日本国中の人民、この改暦を怪しむ人は、必ず、無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざるものは、必ず、平生、学問の心懸けなる知者なり。されば、この度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題というも可なり。――福澤諭吉 改暦弁より抜粋 」
当時、世論を握っていた人間は悲しいかな、この類の「文化人」であった。えげれす、おらんだに留学し近代思想の洗礼をうけて帰ってきた輩は帰国後もその押し売りに余念がなかった。
月は付きもの、つまり太陽のオマケと言いたいらしく、また「憑き物」という暗喩を以って陰暦を迷信めいたものと貶めている。陰暦の成り立ちや意味の深さを知らない訳ではないであろうにこれをいけしゃあしゃあと「当てにせず」という。自論を通すためならなりふり構わず排他し攻撃するのが西洋流であるのは現代の国際紛争や軍事介入をみても明らかだ。
王様のために特別にしつらえられた衣装は金銀宝石がちりばめられて輝くばかり、ただし馬鹿と怠け者には見えないという代物。「無学文盲の馬鹿者」と区別されるのを恐れたか、「王様は裸だ」と叫ぶものがいなかった。
改暦が施行された明治六年、福澤諭吉は西周、津田真道らと啓蒙結社「明六社」を組織、維新と文明開化の騎手となった。西、津田ともに日本人初のフリーメイソン会員であったことは有名である。福澤に関しては会員であったという記録は見つかっていないがフランス系メイソンに人脈があったとされる。これではっきり解るように「維新」の目的はは近代化や合理化などには非ず、日本人が先祖から受け継いだ魂を「とるに足らない因習」として否定し、霊の緒を絶ち、これまでに築いた共同体、世界にまたとない美しい国を破壊するために仕組まれた卑劣な策であった。
台湾や中国などは西暦を使いながらも旧暦と上手く付き合っている。イスラム諸国も然り、公式行事と宗教行事の暦を使い分けている。イランやアゼルバイジャンのように春分に新年を祝う国も沢山ある。日本だけがそれを出来ないでいるのだ。
明治の呪縛がいまだ解けない、そのせいだ。
周りの皆が新年を祝い春を寿ぐことばを交わす中で、「いえ、新年は立春ですからまだ目出度くありません」などと言って門を閉ざすのはさすがに気が引けるというものである。ここまで西暦を悪く書いた後で大変申し上げにくいのだが仕方なく…。
みなさま、本年はつれづればなにお越しいただきまして誠にありがとうございました。忘れることがないであろう一年が終わりに近づいております。日本はどうかしてしまったのか、と皆が感じた一年でもありました。そしてこの先、日本はどこへ行こうとしているのでしょう。しかし生まれ育った国、共に生きる家族や同胞を思いやる気持ちさえあれば、それはいつか必ず実を結ぶと信じております。来る歳もみなさまの、そしてご家族さまのご健勝、ご活躍を心からお祈りいたしております。どうかよいお歳をお迎えください。
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