http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/714.html
Tweet |
つれづればな http://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-67.htmlより転載
- 2011/12/20(Tue) -
もうすぐクリスマス。と、いうことで大国主について書かねばならない。
大国主にはいくつもの呼び名があり、一説では複数の神話の主を大国主という存在の中に一本化したのではないかという。また、背景が変わるにつれて名前を脱ぎ変えていったという説もありとても興味深い。ただし大国主が活躍していた(もしくは神話の元になる事件がおこった)頃の日本には漢字がもたらされていなかったことを忘れてはならない。我が国の神々の名前似使われた漢字はあくまで奈良時代の当て字でありその神様の個性を正確に表現しているわけではない。漢字の持つ意味が邪魔をしたがため古代史が霧の向こうに隠れてしまった。
「古事記」、「日本書紀」、「出雲国風土記」、「播磨国風土記」などにオオナムチという名前で登場するが、大穴牟遅、大己貴、大汝、と、どれも万葉仮名か音を借りただけの漢字であるが少なくとも「大」は共通している。
まず、オオ‐ナ‐ムチ と分ける。
そしてオオは「大」で間違いない。ムチは「持ち」であろう。
では、ナは?
数ある表記の中にひとつ、「大名持」がみられる。
名前がいっぱいあるから「大名持ち」。そうではない。「名」には別に意味があった。
江戸時代、農村に村の行政を担う「名主‐なぬし」がいて、時代劇や昔話では村人の親代わりだったり逆にあこぎな守銭奴だったりする。その本来の役職は村の租税徴収の請負人であり、発祥は平安時代まで遡る。
平安の世は雅な貴族たちとは裏腹に、農民が田畑を棄てて流浪する過酷な時代だった。
そして律令制の班田製が崩れだし、中央が地方に派遣した国司による税徴収が立ち行かなくなったのを受け、公地を「名−みゃう」という単位で再構成した。その「名」の管理と租税徴収を請け負ったのが田堵、或いは田頭と呼ばれた地域の裕福層で、その後彼らは「名主−みゃうしゅ」と呼ばれるに至った。名をたくさん所有するものは「大名‐だいみゃう」であり、これは鎌倉以降の武人の役職のひとつとなった。
お気づきのように、「名−みゃう」とは土地、いや耕地、それもコメをつくる田をさす言葉であった。
遠い昔の日本の言葉、やまとことばはどのようにして出来たか。
それは単純な動作をあらわす二音節の動詞に接尾辞が次々に膠着して名詞、形容詞、または別の動詞が作られた。ではそのおおもとになった動詞は何処からきたか。
一部の動詞は擬態語擬声語(オノマトペ)から生まれた。
参照 『大和言葉の作り方』 http://koto8.net/yamatokotobatoha/kotoba11.shtml
頬を膨らませてフーッと息を吐く。その行動は フク「吹く、噴く」という動詞で表すことができる。獣の皮を剥いで中に息を「吹き」込むと空気を「含む‐フクム」ので「膨む‐フクム」、その皮は「袋‐フクロ」として使う。また外皮で覆うことを「葺く‐フク」という。
「フ」の母音を「ハ」に変えた時もよく似た語彙があらわれる。「吹く‐吐く」、「葺く‐履く」、「膨む‐腫る、張る」というようにである。
ナ行は実に興味深い。ヌルヌル、ネバネバから生まれた言葉がたくさんあるのだ。
「ヌ」はヌルヌルしたものを表す。それが溜まった所が「ヌマ‐沼(ヌ間)」、それを何かに「ヌル‐塗る」と「ヌレル‐濡れる」のだ。
そんな抽象的な「ヌ」が名詞として確立されたのが「ニ‐丹、土」で、粘土や泥、顔料を指している。
土器を作る粘土を「ハニ‐埴」といった。鋳造の型を作る粘土は「マネ‐真土」と今でもいう。
「ニ」を手で掬って地面にたらすとどうなるか、横にだらりと「ノビ‐延び」、これを「ナグ‐薙ぐ、凪ぐ」といった。横になって寝ることは「ヌ‐寝」であった。
「ナル‐平る」は水平を意味する。これを他動詞にすると「ナラス‐平らす」、「ナデル‐撫でる」、そこから「均す、馴らす、慣らす」「ナダメル‐宥める」に発展し、横に「並ぶ‐ナラブ」、右に「ナラフ‐習ふ」に至るまで水平な広がりを意味する言葉が出来ていった。動詞「ナガル‐流る」や「ナガシ‐長し」「ナダラカ‐緩か」という形容詞もうまれた。
土地を平らに均し、泥を湛えた水耕田を「ナ」と呼ぶようになった。秋には黄金色の穂が風に凪ぎ、それが日本中にと広がった。
水田を作るというのは大変な仕事である。土地の高低を読み、石を拾って平らにならして遠くから水を引く。自らが開墾した水田をほかと識別するにはその一族か族長の呼び名をつけたであろう、それが行くゆく地名となったことは想像にたやすい。人名と地名のあいだの線引きは本々はっきりしていなかった筈である。
飛鳥時代の中頃から、我が国の中央は中国の文物に凌駕された。日本の森羅万象が表意文字である漢字によって表記されるようになった。「ナ」なるものは「名」または「字」という漢字が宛がわれた。そして朝廷で使われていた大陸調の言葉では「みゃう」と発音されたのだ。
スサノオはオオナムチの父親とも六代を遡る祖とも云われており、どうやら同じ一族と考えてよさそうだ。乱暴狼藉を働いたかと思えば子供のように泣き喚くというスサノオはアマテルを怒らせ高天原を追い出された。そして出雲の国にやって来たが、ここから先はまるで「別人」になってしまうスサノオであった。ヤマタノオロチに七人の姫を攫われ、そして最後にのこったクシナダヒメまでも狙われていることに嘆く夫婦に出会い、勇ましくも大蛇退治を買って出る。もちろんあとで姫様を貰う約束も取り付けた。
強い強い酒を特別に搾らせ、それをしこたま飲まされた大蛇はスサノオの手に掛かり息絶える。
オオナムチが大地主になったのだから、スサノオが出雲に根付いて開墾に勤しんだであろう。それ以前の出雲を考えてみたい。クシナダヒメの属する集団と、それをを脅かすヤマタノオロチに象徴された別の集団があったはず、そして先住者は前者であろう。後から来た者たちは姫たちに悪さをしたかどうかは別として一体どのような害を為したのであろう、そして誰だったのか。
出雲は日本有数の砂鉄の産地、その品質は燐や硫黄、銅などの有害不純物が極めて少ない最高のものである。鉄の加工を心得た集団が岩肌の色や水の味をたよりに出雲のそれを探し当ててやってきた、そして居ついたのではなかろうか。鉄―日本ではクロガネといった―それは融点が高く酸化しやすいという扱いにくい金属で、溶かすために熱すると酸化鉄になってしまい脆くなる。坩堝で銅を溶かすのとは勝手が違う。そのため、砂鉄は地面に穿った穴の中で木炭と一緒に燃やされた。タタラと呼ばれるふいごで風を送った。木炭の炭素が鉄と結びつこうとする酸素をより早く捕まえて鉄の酸化を妨いだのだ。木炭は燃え尽き、灰は比重が小さいので不純物として表層に浮かび上がり除去される。こうしてハガネ‐鋼が出来る。鋼とは粘り強い鉄と硬い炭素の混合物である。
そこで問題になるのが燃料の入手、大量の木炭、そのための森林伐採である。鋼を得るためには目方にしてその十倍以上の木炭が必要なのだ。娘たちにも当然のように手出しをしたかも知れないが、無尽蔵に木を切り倒しては焼き尽くし、森を荒らしまくるという山の霊を恐れぬ行為はこの上なく邪悪なものと映ったのであろう、これは縄文の血をひく先住民にとっての脅威となった。
膨大な試行錯誤が必要な製鉄は先駆者である大陸から職人集団とともにやってきたと考えるのが普通である。彼らが自発的に来たのか或いは神功皇后の三韓征伐の末に連れてこられたのかは不明である。が、新羅には豊富な鉄と製鉄基地があった。
筆者は学生時代に韓国を旅したことがある。その記憶の中の風景の一つ、剥げて土を露出した山々があるが、それは大戦で日本軍の爆弾が焼いたという説明をうけた。戦争責任の議論はともかく五十年も植林しないで放っておく方がよほどおかしいではないか。この土地の人々の山や森に対する感情はそもそも我々とは相容れなさそうだ。あくまで想像だが、半島人は鉄鉱石も製鉄技術も持ち合わせているというのに土地の木を切りつくしたがため行き詰まった、それゆえ燃料の豊富な我が国にやって来たということもあり得る。
退治されたオロチのその尾から一振りの剣、後にヤマトタケルがその身に佩く「草薙の剣」が現れるのであった。そうなれば、スサノオはオロチ党?の持っていた剣を奪った、つまり神器を簒奪し恭順させたということだ。そして彼らの製鉄の技術を農具の製造に生かしたとしたらどうだろう。湿気が多く海が近い日本の土壌からは酸化しやすい鉄器が発掘されることは少ないので立証は難しいが、そうであれば鉄製の鍬や鋤は灌漑や開墾に大いに役立ったであろう。
妻に迎えたクシナダヒメの、その父母の名はテナヅチ、アシナヅチと書紀にある。そこで三人が共有するナダ、またはナヅの音は「ナヅ‐撫づ」から来ているのだが、これも「ニ‐泥、土」を祖とする動詞である。「クシ」で髪をすくことを古語では「クシケヅル‐梳る」というのだが、スクは「鋤く」ことでもあり農具の鋤にも繋がる。鉄器の使用が始まる前は「クシ‐櫛」のような木製の道具を鋤のように使っていたのかもしれない。この一族はコメを作っていた、それも水耕をおこなっていたのではないかと思いを馳せることができる。
東日本にいたバイカル湖周辺に祖を持つ縄文人が寒冷化に伴い西日本に移動したことを前回の記事で書いた。スサノオやオオナムチはその東日本縄文人のある一族を指しているのではないだろうか――彼らは出雲の地で水田を持つ先住者に出会い、脅威となる者共をねじ伏せ、通婚して融和した。そして「鉄」を手に入れさらなる開墾に成功、子孫たちが「おおじぬし」となるに至らしめた――そう考えるとじつに興味深い。なにより、スサノオの描かれ方はどうしても東国を駆けた武者たちをほうふっとさせるのだ。
土地だけでなく、オオナムチは名前もたくさん持っていた。
おそらくはスサノオの子、それから数代あとの子孫までを同一神としたのであろう。
さまざまな神話を残しつつ最後は天孫たる大和の勢力に屈することになる。
赤裸にされた白兎を助ける優しい大国主(オオナムチ)は、ヤガミヒメに求婚にゆく意地悪な兄たちの荷物を大きな袋に入れて背負わされていたのだ。助けられた兎が謂うには、「八十神(兄たち)はヤガミヒメを得られない、袋を背負ってあとから追いついたとしても大国主を選ぶ」と。この袋の中にはどんなお宝が詰められていたのだろうか。
この季節、大きな袋を担いだ笑顔の翁が日本中にあらわれる。じつは日本を見守る大国主かもしれない。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。