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ねんねんころりよ つづき
つれずればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-65.html より転載- 2011/12/01(Thu) -
「妖怪」かと思った。
アメリカでの膨大な借金を踏み倒し日本に帰ってきた祖父母。筆者の家族にこの二人が加わったことは「波乱」そのものであった。
祖父と言っても再婚なので筆者には義理に祖父になるその人はまるで働く気がないというか、どこかで調理の仕事に就いたと思えば一週間と待たずにやめてしまう。シベリア抑留時代に飢えと寒さと重労働に苦しめられたせいで心も体も萎えてしまっていたのだろう、くわえて祖母のような女房を貰ったのだから、仕方がない。すでに酒と煙草で肺を患っていた。布団に包まり朝から晩まで安酒を煽っていた。それから一年ほどで入院し、半年後に他界した。
祖母のほうは給仕や家事手伝いなどでそれなりに稼ぎがあった。が、それもすべて遊興と買い物に費やしてしまうのだった。タクシーで明治座に乗りつけ一等席で芝居見物、ホテルで食事、温泉旅行、三越で服をあつらえ、アメリカでの夢の続きを楽しんだ。また筆者にたいする執着は激しく、事あるごとに連れまわしては着るものを購った。わが子を手放した空ろな心をを埋めようとでもしたのか。
足りない「おあし」は母に無心したか、サラ金か、質屋でまかなった。質草は母の着物や帯、かんざしだった。父の実母から譲り受けたものもあった。もともと脆くできていた母の心は病んでいき、母の泣声で夜中に目を覚ますことも多かった。そして横をみると、天井をじっと見つめる祖祖母が居た。
父は祖母の借金を黙って返し続けた。母は居たたまれずに何度も別れて欲しいと言ったそうだ。が、もっと居たたまれなかったのは同居していた祖祖母だった。
「あれは性悪です。どうかここから追い出してください。わたしも一緒にゆきます」
そう言う祖祖母に父はひとこと、「そんなわけにはいきません」そう答えた。
このやり取りを後で知り激昂した祖母は怒鳴り散らしながら老いた母親に手をあげた。素手ではなく、こともあろうに教科書がいっぱい詰まったランドセルを振り回して何度も打ったのだ。あまりの形相にランドセルの持ち主は思考が凍りつき止めに入ることさえ出来なかった。おそらく母も。父は家にいなかった。祖母は気が済んだか、疲れたか、どかりと座り込んで煙草に火をつけた。祖祖母を介抱する横目に見た、髪を逆立てて居直り煙を吐くその姿は、大悪党・石川五右衛門のようだった。
これ以上迷惑は掛けられないと祖祖母は我が家を出る決心をした。長い間会っていなかった息子の家に入った。当然、肩身がせまかったであろう、かかってくる電話はいつも公衆電話だった。一度だけ会えたが、あっというまに体調を崩し、旅立った。やはり孤高の人だった。
こうなることは分かっていたのだとおもう。我が家から出てゆく最後の夜に聞かされた。
「いいかい、もしもお父さんとお母さんが離婚することがあったら必ずお父さんについておいき。お父さんにもしものことがあったら京都のおうち(父の実家)にいきなさい。天の神様がいつかどうにかしてくれるから、泣くんじゃないよ」
泣きじゃくって頷くことしかできなかった。
その後も祖母は我が家に居座り続けた。英語が出来たので欧米人の実業家宅に住み込んで家事手伝いをしたり、自分でアパートを借りたりしてはまた舞い戻るといった調子だ。カネにけじめがないのは相変わらずで督促状や電話が絶えなかった。母は酒に逃げるようになり、筆者との母娘の間柄がよじれてしまった。ひたすらに三味線をかき鳴らし唄っているか、酔っているかのどちらかだった母とはまるで意思の疎通ができなくなってしまったのだ。
美人だがまるで色気のない母は心中物や恋がたりを唄わせてもまるでダメで聴いていられなかった。しかし軍記物と怪鬼談は本当に上手かった。子供を失くして気が狂い、鬼となった女を物語る「安達ヶ原」という曲、それに壮絶な思いを重ねる母の声は、絶品だった。これが母にとっての子守唄だったのかもしれない。
鼻を突き合わせて暮らしていたというのに、母子四代一緒に座って食事をしたのはたった一度だけだった。祖祖母、祖母、母、そして筆者。今思い出しても不思議な光景だ。同じ国に同じ女として生まれながらあまりに違う人生を生きた、あるいはこれから生きるであろう四人であった。
明治生まれ、震災と大戦を知る祖祖母は昭和の世を明治人として生き、そのまま生涯をとじた。
少女時代を大戦と共に生きた祖母、戦争が終わって進駐軍が撤退したあとも祖母の心は占領され続けたのだった。そして同様に呪縛を掛けられた日本人は決して少なくないであろう、戦争に負けるというのはこういうことだ。領土を奪われ加害者扱いされるだけが敗戦ではない。
戦後の日本と同じ足並みで育った母、成長し続ける世の中とは裏腹に母の心のは幼な子のようだった。無心に唄い、酔って泣く。
昭和元禄の落とし子として何一つ不足を知らずに育った筆者は他人に対してもわが身に対しても傲慢だった。母親と反目しつつ、母国たる日本をも冷ややかな目で見るようになっていった。
演奏旅行でよく海外にいった父の話は筆者の心を外へ、外へといざなった。とくに中近東や共産圏の話は夢中で聞いた。いつか行ってみたいと思い続け、大学に入ってからはバイトと海外旅行に明け暮れた。言葉は解らなくても話が出来た。地図さえあれば(なくても)何処にでも行った。ヒッチハイクも野宿も厭わなかった。傲慢さの表れである。そのころ、主人と出合った。
遠い国の人のもとに嫁ぐことは不思議と反対されず、むしろみな慶んでくれた。京都の(父方の)祖父もその一人だった。
「あのな、おじいちゃん、うれしいで。好いた人といっしょになったらええ、だいじにな。」
そういって送り出してくれた。むかし父を勘当したのも「好いた人といっしょになったらええ」と、この世のしがらみから父を逃してやったのだと思う。
ただ一人反対していた。
「この年寄りから曾孫を可愛がる幸せをうばうつもりかい!」言うまでもなく、祖母。
お言葉はごもっともであるが、お言葉のあるじが正しくない。
祖母に悪態をつかれながら日本を出た。
そんな祖母も三年前に他界した。筆者はもう日本に何年も戻っていなかった。
部屋から出てこないのをいぶかった父が戸をあけて目にしたのは、恐ろしい形相で息絶えた祖母の姿だったという。
「ね、お父さん、救急車呼ぶの、少しだけ待ちましょうよ、もっとちゃんと死んでから、ね。」
二人はしばらくの間、迷い戻ることのないよう必死で手を合わせていたそうだ。
それを境に母の心は落ち着きだし、筆者との仲も氷解した。
やはり祖母は妖怪だったのだろうか。もしあの妖怪が我が家にやってくることがなかったら今どうなっていたか、考え出せばきりがないが、良くも悪くもどうにかなった。祖祖母が最後に言ったことばはやはり正しかった。
ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよいこだ ねんねしな
言葉が「ことだま」を背負っているように、唄にもそれ自身に霊が宿っているはずだ。娘を泣かせたのも子守唄に宿る、かつて親と離れた子、子と別れた親の霊のしわざだと思うのだが、どうだろう。
ぼうやのおもりは どこいった
あのやまこへて 里へいった
祖母の亡くなったあとに誕生した娘は今、すやすやと眠っている。その寝顔を見ながらあることを思いついた。次に母と再会したとき、この子に子守唄をうたってもらおう。また泣くだろうか、親子の情に手のとどかなかった母の、祖母、祖祖母、父、祖父、その親、またその親たちの思いを乗せた一世一代の花舞台だ。
ぼうやのおみやに なにこうた
でんでんだいこに しょうのふえ
そしてその声を、こんどこそ胸に刻みつけておこう。
おわり
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